第18話
(しまっ……!)
まるで紙でもめくるように、卓也は斜面の泥に足をすべらせた。
雨を浴びた土は彼を簡単に引きずりおろし、気づけば背中からたたきつけられる。
加依が転倒していることも考えていて、山道の端で下をうかがっていたのがまずかった。擦り傷でも負ったのか足が痛いが、ひねったわけではないらしい。
顔をしかめながら、ライトの光に誘われ携帯を拾う。持っている光はとても小さく、夜の山は暗闇だと本当に実感する。辛うじて点在する街灯がなかったら、力なく止まるしかなかっただろう。濡れた泥はからみつづけて、ズボンの内側まで染み込んでくる。
「いてぇ……、なんて様だよほんとに……!」
ついさっき明日香に「絶対に転ばない」と言っていたのは誰だったか。気概に限度はあると知っていても、有言不実行さには反吐がでた。
過去の、北川陽介の『プチ家出』は、家出とすら呼べなかった。
一回目の家出は、近くの芝生にシートを敷いて一夜を明かそうとした。結局、母親に連れ戻されて負けを認めた気分になった。二回目の家出は冬にジャンバーなしで出ていった。本屋にこもっていたが次第に閉店となり、結局寒さに耐えられず、しかし家に入れず、玄関の前で座り込み、結局は家に帰った。
(山道に戻らなきゃ……)
その先を考えていない反抗。親から見れば子犬がきゃんきゃん吠えただけだっただろう。しかし、単に悲しかったから家出をしたのとは違う。みっともなかったとしても、哀れに見えたとしても、自分があのとき抱いたたくさんの気持ちは、彼自身の命であり、決して偽物ではなかった。
加依もきっとそうだ。悲しみと闘いながらたくさんのことを思ったはずだ。
だから、加依がもし話してくれるのなら、話してくれたことで心を抉られないのなら、家を出てからどんな気持ちだったのか、それを知りたいと卓也は思う。
斜面の木々を掴んでみた。
しかし、濡れた土は強引に進むことを許してくれそうにない。冷静になって遠回りをした。加依が見つからないまま時間が過ぎていく。最悪の想像を思い切り罵倒し、無理やり動く力にしていた。
何故だか、生まれ変わった後のことが、ぶりかえる。
(一番最初のきっかけは、記憶を取り戻したことだった……)
本当におかしな話だ。手を見ればごつくないやわらかな五本指。足を見れば一回りも二回りも小さな靴。近くに感じる地面と、細すぎる身体。そういった全部に、今でも違和感を覚え続けている。
一番弱くなった心。今更ながら当初は本当に絶望していた。死ぬのが怖くてくすぶっていたが、何かが食い違えば一歩先は自殺だったように思う。
無造作に生える草木をかきわけて山道へと戻ってきた。そのまま走りだせないことを歯がゆく思い、携帯を強く握る。借りている携帯が雨に打たれることをさけられなくなってきた。染み込まないように服でぬぐいたくても、ジャンバーやズボンはすでに泥だらけだ。
もう一人の自分に助けられた。気づかないうちに支えてくれた今の家族に、そして加依に。
神社の奥で泣いていたのを覚えている。泣いている自分を『それでも』と思えた。
上を見ると、幾重もの葉っぱを貫いて雨水が目に飛び込んできた。今は開き直っていないから、気持ちいいとは思えない。入った雨が涙のように頬を伝う。そのまま地面に落ちたのか、服に染み込んだかまでは分からない。
神社から家に帰った後、変わることを決意した。
思い描いていたのは『重要な脇役』だった。
主人公に恋するヒロインの話を聞きながら、そっと背中を押して応援する者を、正面きって闘う仲間たちの裏で小さく暗躍して色々な『大切』守る者を、主人公の強い心に触発されて自分も頑張ろうと思って、驚異的な敵を倒す一ピースになる者を、ラスボスとの闘いで命を犠牲にしようとする主人公に怒り、みんなのもとへ連れ戻す力を。
だが、そんな人間になるのは無理だったから、現実でできる理想を探した。勉強も運動もできるようになる。はっきりと他人にものを言える。困っている人を助けられる。強い心をもっている。将来はしっかり働く。
苦しそうに盗んでいた加依を見たとき、前世の自分を重ねて助けたいと思った。理想の自分を目指そうとした思惑もあった。
(けど、うまくいかなかった)
二人でしっかり両親に話すまでは盗みがばれないようにと願い、引き延ばした。だが結局ばれて雄二を怒らせた。妹を守れず、それどころかさらに傷つけて一人にさせ、あげくこの山奥で無様にもがいている。
まったくもって理想と違う。こんなに焦るなんて思ってなかった。想いは何も成せず、結果がすべてのステータスだ。こんなに苦しいなんて、こんなに変わらないなんて、何もうまくいってない。
何度目か分からない大声を出す。加依の名前を、雨音をぶち抜くつもりであらん限りに。慎重に斜面の下を見るたびに思考が途切れる。なのに、また道を歩き出せば、いつの間にか思考している。
理想と程遠い自分を見た。もはや撤回はかなわない。努力してこなかった卓也はそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
そして、気づいた。
(理想になりたかったんじゃない。ただ幸せになりたかった)
自身を蔑ろにするのは変わりたいの裏返し。もう一人の卓也からそれを教わった。
だがその時もまだ、根っこの想いを見ていなかった。
変わりたかったなら、どうして変わりたかった?
それは、心の安寧を求めていたからだ。
社会に出れず心に負けた。生まれ変わっても続いた絶望。だから、ずっとずっと楽なことを、安らぎを求めていたのだろう。嫌だったのだろう。
最終的なゴールがあるとすれば、変わった先にある幸せだった。
本屋のカフェで紙に書いた目標。『勉強を頑張る』とか、途中の指針にたいして違和感を覚えていたのは、『理想』をゴールにしてしまっていたから。見据える場所を間違ったまま、何かを成し得るはずもない。
でも、分かった。
卓也が抱いていたのは、人間なら誰もが願う自然な夢だ。
ただ――幸せになりたかった。
…………。
……。
だけど。
だけど……!
そんなことはまったくもってどうだっていい。
理想だとか幸せだとか、そんなことは、今かけらも望んでいない。
考えるのは加依のこと。
助けたい。死んでほしくない。ただ無事でいればいい。家族だから。望むものは『自分』じゃない。
不思議だった。あれだけ内に内にこもっていた自分が、加依を力に動いているのだから。
でも、おかしくはない。
加依のために動ける理由など、いまや語るまでもない。言おうと思えば無数に言えるが、そんな時間は歩くことに使いたい。
景色は変わらない。暗くて前が見えなくて、さっきより雨脚が強くなっている。危険な状況以外の何でもなく、身体が警戒するはずの場所で、しかし、前に進めなくなるイメージだけは、たとえ天地がひっくり返っても湧かない。
助かってくれればいい。
無事でいてくれればそれでいい。
笑っていてさえくれればいい。
それさえ叶えてくれたなら、他に何も望んだりしないから。
自分を絶望に落とし込んだクソくだらない神様。
どうかこの願いを叶えてください。
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