第55話 戸田家が背いた
三河(愛知県東部)の平定はほぼ終え、これからは尾張(愛知県西部)に手を出していく事になるだろう。
三河の地盤強化と尾張の攻略、それを同時に進めていく為に、連日お館様、雪斎禅師、寿桂尼、五郎八郎の四人でああでもない、こうでもないと議論を重ねている。
お館様と雪斎禅師は、まずは何をおいても三河全域の検地が最優先であると主張。
領内の調査無くしては納められる銭や米、集められる兵の計算も立たないと。
だが五郎八郎はそれに大反対であった。
そもそも三河は平定したと言えど、全て従属であり屈服させたわけではない。
彼らはただ単に今川家を盟主に仰いだだけにすぎない。
つまり彼らはまだ独立した国人衆であり、検地を命ずる権限が無いはずであると。
だが従わぬのなら武を持って服従させれば良いという雪斎禅師の意見に押され、検地は行う方向で話がまとまってしまったのだった。
しかもその責任者には五郎八郎が任じられる事となった。
表向きは三河の代官。
その実、厄介事を押し付けられたといったところであろう。
とはいえ三河はなだめすかせば何とでもなる。
問題は尾張の方であろう。
元々、尾張は
斯波家は今川家と同様に足利一門の家である。
今川家は足利三代目の上総三郎の子足利五郎を祖としているのだが、斯波家は四代目足利三郎を祖としている。
その本拠地は越前。
三代目の公方様の御世に斯波
そこから領国を尾張、遠江、陸奥、出羽と伸ばしていったのだが、先の大戦乱で跡目争いをし分裂。
大乱で活躍した朝倉家に越前で独立され、遠江は今川家に取られ、今は尾張が本拠地となっている。
その尾張も今となっては守護代の織田家にいいようにされてしまっている。
北部は岩倉城を拠点とする伊勢守家、南部は清州城を拠点とする大和守家に完璧に押えられ、守護の斯波家はもはや尾張にいるというだけの存在と化している。
世は急速に実力主義の社会へと移り替わっている。
北の美濃で油売りであった西村勘九郎なる者が台頭したように、尾張にも
それが大和守家の家老の一人であった織田弾正左衛門尉。
弾正左衛門尉は
木材の流通、さらには他地方との交易で沸き上がるような富を手にした弾正左衛門尉は、その財力を使って兵をかき集め尾張でも有数の実力者へと成りあがっていった。
だが成り上がれば当然他方から恨みを買う。
その恨みを一手に引き受けて、その地位を嫡男の弾正忠へと譲り渡したのだった。
三年前、今川家が北条家と河東郡で睨みあいを続け、堀越家、井伊家の反乱鎮圧で大わらわだった頃、尾張で
那古野城は尾張今川家である那古野家の本拠地であった。
尾張は斯波家が代々守護をしているのだが、それ以前には今川家も守護を任されている。
その時の名残である。
当時の那古野家の当主は、お館様の末弟の左馬助。
織田弾正忠は那古野左馬助と、連歌を通じて
連歌の会に呼ばれた弾正忠は勝幡城の兵を引き連れて行き、無理やり攻め落としてしまったのだった。
その織田弾正忠がどうやら三河にちょっかいを出してきているらしいと多方面から情報が入って来ているのだった。
雪斎禅師も対処を考えてはいるのだが、今のところ、これと言った良策は思いつかないらしい。
河東郡の事もあり、駿府から遠い尾張の事までは手が回らないというのが本音であった。
結局その年は手を打ちたくても打てるような状況ではなくなってしまった。
昨年の大風多発とは打って変わって、猛暑による日照りで干ばつが続いてしまったのだった。
二年連続の米の不作によって今川領内で深刻な飢饉が発生。
こういう場合、何が困ってしまうかというと、食うに困って
来年の収穫よりも明日の食い扶持。
気持ちはわからなくはないのだが、それが原因で作付面積が落ちれば、その翌年も飢饉が起きる。
以前、そういう事になった場合はどうしたら良いかと源信に相談した事がある。
こういう場合、米を施しても農民たちはそれを商家に持って行って銭に変えてしまう。
当然商家は安く買い叩く。
つまり商家が肥え太るだけで何の意味も無い。
まずは城の備蓄を放出して今日の食事を与える事。
城や寺で炊き出しをするのが良い。
それと同時に春に無償で種籾を配布する。
できれば城の者が直接種籾を持って行ってやるのが良いだろう。
こうして二俣城と堤城では城の備蓄米の多くが無くなってしまったが、そこまで餓死者を出さずに済んだ。
天野家と井伊家は二俣城に対処を聞きに来たようで、こちらもそこまでの餓死者は出なかったらしい。
だが、それ以外の城ではそれなりに大きな被害を出してしまったのであった。
大飢饉を理由に翌年は何とか検地を延期する事ができた。
だがその翌年はさすがに無理であった。
渋々だが三河の各家に検地のお願いをする事になってしまったのだった。
主命とあらば致し方無い。
各家に宛てた書面には、無理に多めに報告することは無い、あくまで現状の動員力を把握していきたいためのものと書き記しておいた。
岡崎城の松平家、
ところが返答を返さない家があった。
『当家は今川家を盟主とは仰いだが、傘下に入ったつもりは無い。検地は当家を攻め滅ぼす時の目安とするためのものであろう』
五郎八郎は戸田家からの書状を見て思わず目頭を摘まんだ。
「戸田家は当家の威光を傘に今橋城を攻めて田兵衛尉殿を討ち取っており、やりたい放題です。一度、目に物を見せてやった方が良いかと存します。そうなれば三河の国衆の中でも正式に当家に降る家も出るかと」
そう発言したのは、雪斎禅師に師事させている例の山本勘助であった。
お館様は一目見て勘助を信用に足らん人物と拒絶した。
であれば雪斎禅師ならと思い五郎八郎が付き添い面会させた。
雪斎禅師は思惑通り、勘助にあれはこうだ、これはこうだと論戦を仕掛けた。
それに対し勘助はそれがしはこう思う、それはああではないかと反論。
それに満足した雪斎は自分の近侍としたのである。
雪斎禅師は経済、外交、軍政、家中の統制、軍の統率、あらゆる面で高い才を発揮するのだが、戦略、戦術という面を少し苦手としている。
それは五郎八郎から見ても明らかである。
思った以上に行き当たりばったりの人なのだ。
当初はそこを勘助に埋めて貰おうと考えた。
どうやら雪斎禅師は勘助の智が非凡だと見たらしい。
剣の腕などはどうでも良い、その智を持って仕えるべし。
雪斎禅師は勘助を四六時中傍に置き、最近ではこうして側近だけの密談にも出席させている。
「だが恐らく三河の者たちの助力は得られんぞ? 三河の者たちも当家が実際にどの程度なのかを知ろうと欲しているであろうからな。しくじれば盟は崩壊する事になるやもしれぬ」
お館様の懸念はもっともであった。
だが雪斎禅師も勘助の案に賛成であった。
盟から外れた戸田家に我らの盟にいる他の家を潰されかねない。
だから実力でいう事をきかせる必要がある。
恐らくそれは松平家をはじめとした多くの家が納得するところであろう。
むしろ逆にここで行動を起こさなかったら不安視されてしまう。
出兵自体は誰も依存は無かった。
問題は兵数である。
本城の田原城、牧野氏から奪い取った今橋城、そして今橋城の支城
三河のだいたい五分の一を領している大勢力である。
その討伐ともなれば恐らくは遠江の半数程度を動員するほどの大戦となるであろう。
当初は五郎八郎が総大将となる事で話は進んでいたのだが、ここのところ軍功が大きすぎるとお館様に反対されてしまった。
家中の均衡の為にも別の者を総大将としたいと。
とはいえ河東郡の睨みがある為、駿河の国衆を大きく割く事はできない。
そこで総大将は懸川城の朝比奈備中守が務める事となった。
それ以外には井伊谷城の井伊家、匂坂城の匂坂家、曳馬城の飯尾家、さらに宇津山城の朝比奈下野守、駿河朝比奈家の朝比奈丹波守、亡き三浦上野介の嫡男で横山城の三浦左馬助。
これだけの兵数であればよもや敗北はありえないであろう。
一旦宇津山城に集結し、そこから浜名湖を南下して渥美半島へ攻め入れと号令をかけた。
だが五郎八郎は一抹の不安を感じていた。
五郎八郎は宗太時代に徳川家康の伝記を何度も読んでいる。
確か伝記では田原城の戸田家が裏切って織田家に人質の家康を引き渡したという事になっていた。
その後三河は織田派と今川派に別れて、ぐちゃぐちゃに争う事になり、最終的には今川家に武力鎮圧されるという流れであったはずである。
だが現状では戸田家くらいしか露骨に今川家に反抗はしてない。
そこからすると、どこかで今川家は大きなしくじりを犯すという事になると思う。
その不安は現実のものとなった。
家人たちとひるげをとっていたところに城から急使がすっ飛んできた。
「申し上げます!! 田原城の攻略に失敗! 井伊宮内少輔様討死、朝比奈下野守様他怪我人多数!」
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