第44話 馬の世話をしよう

「綺麗な馬……」


 しみじみと褒めたルカの言葉に、青毛の馬が得意げに鼻を鳴らした。


「じっとしていてね。そうそう」


 艶やかな毛並みにブラシをかけると、馬は心地よさそうに長い尻尾を左右に揺らす。


 青毛の馬は最近この厩舎に入ったうちの一頭で、辺境伯ヴィクトルの愛馬だ。

 もともとこの城の所有する馬で、ヴィクトルの長期視察に同行していたので、新たに加わったというより再び戻ってきた形になる。


 青毛とは青色ではなく、黒色の馬のことだ。胴だけではなく全身が黒く、鼻先や目元だけがかすかに褐色を帯びている。


 黒い馬は他にもいるのだが、この青毛はひときわ黒みが強く、四肢の一本一本が太い。身体だけではなく、いななく声やひづめの足音まで大きくて迫力があって、いかにもあの大柄な辺境伯の馬らしい、堂々たる風格だ。


「格好いいなぁ……」


 ルカの好意を感じ取っているのか、他の馬丁たちをたびたび手こずらせているこの馬も、ルカには不思議とおとなしかった。


 大股の足が、ざくりと藁を踏みしめる。 

 厩舎の前に広がる馬場に現れたのは、馬の主であるヴィクトルだった。


「ルカ君、ここだったか」

「辺境伯!」


 ヴィクトルのいかつい風貌を見て、ルカはぱっと目を輝かせた。

 今日も大きくて強そうで雄々しくて格好よくて、憧れずにはいられない。


「辺境伯の馬はさすがの迫力ですね。こんなに体の大きな馬は初めてです」

「いや、頼もしい相棒ではあるのだが、なかなかの悍馬かんばでな……。気性が荒くて困ってはいないか?」

「いえ、全然。とても賢いです」


 にこにこと答えて、ルカは青毛のたてがみを撫でる。


 ヴィクトルは愛馬とルカとを見比べて、物めずらしそうな顔をした。


 自慢ではないが、愛馬は日頃はヴィクトルにしかなつかず、他人が触れようとすれば蹴ったり踏んだり背から振り落としたりと容赦のない暴れ馬だ。


 騎士たちすら恐れて近寄ろうとしないほどの横暴ぶりなのだが、今は普段の猛々しさが嘘のように穏やかに、背を撫でるルカに鼻面をすり寄せている。


「ふむ……」


 ヴィクトルは顎髭をさすった。


 数か月ぶりに自城に帰ってきて以来、城の中の雰囲気が少し変わったように感じていた。良い方に、だ。


 畑のうねや菜園のあぜは、一段と整備されている。

 料理は都会の流行を取り入れて、見違えるように洗練されてきた。

 壊れた防護柵は修復され、邸内に飾られた兜や鎧や甲冑はぴかぴかに磨かれて、ほこりの付く暇もない。

 見張り台ベルクフリートも常に整備されて、城門に渡されたかんぬきに至るまで、清潔に保たれている。

 裁可の必要な書類はきっちりと期日の順にそろえられ、必要な資料もすぐに見返せるようにまとめられていて、仕事が進めやすい。


 かゆいところに手が届くような、さりげなくも細やかな心づかい。


 まるで辺境の山中に孤立したこの城に、新しくて心地よい風が吹き込んだかのようだった。


「あっ、バルー」


 塀を飛び越えて現れたのは、山猫のバルーだった。


 まるまると太った鳩を口にくわえたバルーは、まだかすかに息のある鳩をルカの足元に置いて、野太い声で鳴いた。


「くれるの? ありがとう」


 羽根をむしって血抜きしてさばいてハンスさんにあげよう──とルカはうきうき喜んで、バルーの喉元をよしよしと撫でた。


「バルーにもご飯をあげなくちゃね。先に飼い葉と水を用意するから、少しだけ待っていて」


 青毛の馬の手綱を引いて、厩舎に戻るルカの後を、バルーがしっぽを立てながら追っていく。


 扱いにくい馬と、気難しい山猫と、にこにこふわふわとした青年。


 一頭と一匹と一人が仲良く連れ立っていくのをながめて、ヴィクトルはますます感心する。


「君は凄いな……」

「え? 何がですか?」


 いや、とかぶりを振って、ヴィクトルは相好を崩した。


「どうだ? 今夜も私の部屋で一杯飲まないか?」

「はい! ぜひ!」


 ヴィクトルは照れながら、大きな手で頭を掻いた。

 クールな娘と違い、ルカが喜んで晩酌に付き合ってくれるのが嬉しいらしい。


「お父様、ルカは城の誰よりも忙しく働いているのです」


 自身の愛馬の手綱を取りながら、父をいさめたのはアレクシアだった。

 しなやかな体の線を拾う乗馬用の服を颯爽と着こなし、後頭部には結った黒髪が馬のしっぽのように左右に揺れている。


 この髪型と乗馬服の取り合わせもルカの好みすぎて、胸のときめきが止まらない。


「ルカ。無理せず断っていいのだからな」

「はぅ……!」


 はい、と言ったはずなのに、ろれつが回らなかった。


(か……か、格好良すぎる……!)

 

 乗馬服に包まれたスレンダーな身体の、美しい曲線に目がくらむ。

 艶やかな頭のてっぺんから鍛えられた腱の先まで、アレクシアのすべてが綺麗だ。


 もちろん彼女はいつだって綺麗だし、どんな服装だって全部好きなのだが、乗馬服姿のアレクシアからしか得られない栄養があるのである。


(ありがとうございます今日も生きていけます──!)


 心臓が跳ねて、顔がみるみる熱くなる。反射的に手を合わせて、ルカは彼女を拝んだ。拝みながらとっさに鼻を押さえたのは、油断すると血が出そうな気がしたからだ。


「よしよし、丁寧に手入れしてもらったな」


 綺麗にブラッシングされた愛馬のつやつやの毛並みを愛で、くらの位置や蹄鉄の状態を確認してから、アレクシアはルカに礼を言った。


「ルカ、ありがとう。行ってくる」


 一般的に女性は馬に乗らない。騎乗するとしても男性に支えられ、足をそろえて横向きに座るのが普通なのだが、アレクシアは慣れた様子で手綱をつかむと、左足をあぶみにかけ、右足で地面を蹴って鞍に跨がった。


 姿勢は安定し、重心も巧みに保たれていてぶれがない。熟練の操馬術である。


 今日は馬を駆っての実践形式の訓練らしい。アレクシアが騎馬隊を率いて前線で指揮を執り、ヴィクトルは全体の動きを俯瞰して指示を出す。


「ではお父様、先に隊形を組んでおきます」

「ああ、任せた」


 アレクシアは疾風のように、人馬一体となって駆け抜けて行った。


「……すっき……」


 のたうち回りたいほど格好いい。

 叫んで走り出したいほど格好いい。


「正義……格好いいは正義……!」


 うわごとのようにささやきながら顔を沸騰させるルカを、ヴィクトルは名状しがたい複雑な顔で見つめていた。

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