第2話 お元気で
龍神。それは今や伝説や伝承、お伽噺の世界の存在とさえ考えられているものだ。
かつてこの大陸にも精霊や獣人、妖などが存在していたらしい。ただそれはずいぶんと大昔のことで、最早そういう類の神秘はすっかりと失われ、この時代においては神様の存在さえ曖昧になってきていた。
しかしそのなかでも、この小国が恵まれているのは龍神の加護があるからだと言われていた。かつての時代、龍神信仰は様々な宗教の始まりとなったものであり、龍はその土地の豊穣を司る神として崇められていたものだ。
とある書によれば、龍神信仰が生活の基盤となっていた頃には龍神への捧げものとして若く美しい女が龍へ献上されていたという。
「それは、生贄ってことじゃないのか」
フェイのあの発言から数日、ジンユェは部屋に篭りで書を読んで頭を抱えていた。
(フェイが龍神のものになる? それは、そんなことを言い訳に兄様を追放するってことなんじゃないのか……)
そんなことがあってはならない。そう思うのに、フェイは全てを受け入れたように笑っていた。
「明日、ここともお別れになるのか」
フェイはひとりぼっちの広い部屋でつぶやいた。
「なんだか、変な気分だな」
物心ついた頃から、記憶のなかの景色はいつもここだった。ここはひとりぼっちで過ごすには広すぎて寂しかったけれど、寂しいばかりではなかった。
異形として産まれた自分をまっすぐに愛してくれたジンユェがいつもそばにいてくれたし、身のまわりの世話をしてくれたミンシャも優しくていつも元気を貰えた。
特に弟のジンユェには苦労をかけたとフェイは思っている。『つのつき』の自分を産んだことに苦しみ続けた母は双子がまだ幼い頃に心身を病んだ末に亡くなった。フェイの心には、自分のせいで弟から母を奪ってしまったという後ろめたさがある。父も愛した人を失った。
父王は政務や外交で忙しくなかなか会える人ではなかったから、今回の嫁入りの件を命じられたのが久しぶりの再会だった。
「……怖くは、ありませぬ」
いつか、こうなるやもしれぬと思っていた。愛する人と別れなければならない日が来ると。
龍神への嫁入りが何を意味しているのかは知っている。ついに来たかと、ただそう思った。むしろここまで大切にしてくれたことへの感謝のほうが強い。
フェイとジンユェは明日、二十歳になる。
「父様、フェイが参りました」
「……フェイよ、よく受け入れてくれたな」
「いいえ。この身で果たせる務めとあらば、お与えいただけるのはこの上ない幸せにございます」
フェイは数年ぶりに王宮の外へ出る。正門ではなく裏山への抜け道を通ることは初めてだった。まだ少し冷たい早朝の陽の光が、木々の間から降り注ぐ。青々とした葉が眩しい。
「ミンシャ、ここまでで良いですよ。帰り道に気をつけて」
「……はい。フェイ様」
ここまでついてきてくれたミンシャはいつも通りの笑顔を上手く作れずにいる。
「……泣かないで。どうか私のことを悲しまないでください」
「……っ、フェイ様……」
「これまでたくさん、支えてくれてありがとう。私はあなたのことが大好きです、ミンシャ」
フェイは最後に小さなミンシャの身体を優しく抱き締めると、彼女に背を向け歩き出した。ミンシャは、言葉を返すことができなかった。
ミンシャと父王に見送られ、護衛兵とふたり山道を歩く。
山中は少し険しかったが、想像していたよりも道らしい道が出来ていた。しかし進むそこは、山を登るというよりも上がったり下がったりを繰り返す変な道だった。
「この道を抜けると、深い谷へ出ます。そこに龍神様の祠があるのです」
「そうなんですね、初めて知りました」
護衛兵は、父の側近であるはずの者だった。彼は無口だったが、フェイのことを恐れたり嫌ったりはしていないようだ。
「私が共に行けるのは谷の入り口までの決まりです。そこから先はおひとりでお進みください」
「わかりました」
山道を歩くのに、着せられた綺麗な衣装が少し重かった。いつもは広い部屋で過ごしていたから、慣れない狭い道では伸びた角が木の枝に引っ掛かる。
「……っ、いた……」
「大丈夫ですか。木々に気をつけて」
「すみません、ありがとうございます」
普通の人間にはない角をぶつけて痛がっているのを少し不思議そうに見つめはするものの、気味悪がっている様子ではない。この人も、自分を嫌わない人なのだとフェイは思った。
「もうすぐです。まだ歩けますか」
「はい、大丈夫です」
護衛兵の男は部屋に篭りきりで体力のないフェイを気遣う。そして何か考えたような間を置いて、話し始める。
「……王を、恨んでおられますか」
「父を?」
「あなたは、ずっと幽閉されていたのでしょう。そして今はこうして、城の外へと出されてしまった」
「……そうですね。今にして思えば、あれは幽閉と言うのでしょう。そして私は今、追い出されたのかもしれません」
フェイは自分のこれまでを振り返り話す。
「けれども私は、これまでの生活を幽閉だと思ったことはありませんでした。私のそばにはいつもかわいい弟と、心を許せる側仕えの者たちがいてくれましたから。そしていつかこうなるかもしれないということは、覚悟しておりました」
「……覚悟ですか」
「ええ、心の準備があるのとないのとでは、やはり違いますね」
フェイはなんでもない風に穏やかに笑う。
「……弟君は、御立派な方です。少し危なっかしいところもありますが、必ずや父王の跡を継いで偉大な王となられるでしょう」
「ええ、私もそう信じています」
「……そして陛下もまた、フェイロン様を愛しておられた。それを忘れないでください」
「…………はい」
私は父に、愛されていたのだろうか。それは今となってはもうわからない。
「私はここまでです。フェイロン様、どうかお元気で」
「あなたも。ここまでありがとうございました」
深く暗い、けれど差し込む光が眩しく美しい谷へと出た。護衛兵は深々と頭を下げ、来た道を戻っていく。
「……さて、行きましょうか」
ここまで来て、もう戻ることは叶わない。フェイは先へと進む。
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