現代人のための協奏曲

451

叶《かなえ》

帰りの電車は、急ぐ必要がないのに駆け込む。

人生もそれと、同じでしょ?

そいつは、僕の人生を狂わせるだけ狂わせて、勝手に消えていった。




「『人が生きている大半は、人生ではなくただの時間だ』その通りだと思うよ」


そう言って、彼女は読みかけの本を棚に戻す。いつもの講釈タイムだ。語りかけてくるページとページの間の空白をそっと黙らせるように、本を閉じ、また明日、と棚に返し、どこぞの本、または詩、からの受け売りをまるで自分の言葉かのように解説し始める。


「誰の言葉?」

「『二千年前に担当した思想家』」

「元ネタ知らないんだけど」

「じゃあ伊坂幸太郎」

「…千葉だっけ?」

「宮城だよ」

「死神の名前」


ん、と彼女は適当に首肯する。

それにちょっと不服だった僕は、ささやかな反抗をする。


「難しい言葉をあえて使うやつは大抵馬鹿だ」

「じゃああたしは馬鹿じゃないね」

「思想家の名言の引用だけで話すやつが?」


そういうと、彼女はむっとしたようにこちらに向き直る。


「思想家の言葉は回りくどいだけで難しくないよ」

「そういうもんか」

「そういうもんだよ」

「じゃあ、回りくどいのも嫌いだ」

「君はわかっていないねえ、そんな君には美しさの欠片もないエンターテインメント小説がお似合いだよ」

「PKDとか?」

「ハーラン・エリスン」

「誰だよ」

「調べたら」


講釈タイムは実に、有意義だった。




***




翌日

エスカレータで昇り、本屋に辿り着く。

ベストとつくのに一番ではないベストセラーが並んだ入口や、カラフルなだけの旅行用雑誌の山を過ぎると、左側の、ライトノベルコーナーに彼女はいた。


「珍しいな」


そうやって話しかけるが、彼女はそれに答えずに一冊の本を差し出す。


「『死の鳥』??」

「昨日言ってたやつ。ハーラン・エリスンの」

「ああ、あれか…覚えてたの」

「忘れるわけないじゃない」

「てかこれ買ったの?」

「そんな金、あるように見える?」


制服の上に、よれよれの黒地に白いラインの入った上着。

その上、財布は見たことがないし、缶ジュースを奢ってと言う始末。本はいつも立ち読みだ。


「ないな」

「でしょ。読み終わったらSFの棚に返しておいてね」

「じゃあ買おうかな」


彼女は一瞬きょとんとしたような表情を浮かべるが、すぐに、ちょっと口角を吊り上げて言う。


「まあ、いいけど。おもしろくはないと思うよ」

「そっか」


楽しみは後にとっておいて、彼女が読んでいるシリーズの最初の巻を手に取る。

白くて明るい紙に、細いがきりりとした文字が浮かび上がる。本の世界だ。


読み始めて1時間くらいしたころだろうか、彼女がおもむろに本を閉じ、棚に戻す。

指は本から離さず、じっと前を向いて彼女は言う。


「君はさ、どこまでが文学で、どこからがそうじゃないか、わかる?」


その一言で僕はいっきに現実に引き戻される。問いの意味を何回か反芻するが、先ほどまでラブコメの世界に没頭していた僕が、わかるはずがない。


「わからないけど、じゃあ、君はどう考える?」

「質問に質問で返さないで」

「“わからない”っていうのが僕の返答なんだけど」

「君は、いつもそうだよね。観念的な話になると、考えるのを放棄する。で、“自分が理解できないもの”っていうラベルをつけた思索のごみ箱に放り込むんだ」


そうそう、こういう嫌味ったらしい言い方も彼女の特技だ。

…嫌味には嫌味で返すのが定石というものだ。


「そんだけ辛口なんなら、さぞ高尚なお考えをお持ちでいらっしゃるんでしょうね?」

「ええ。文学とそれ以外の線引きは、それがもつ主題によってなされる。これが私の考え」

「メッセージ性があるかないか、っていう単純な話?」

「うん。だから、」


彼女は超有名転生系作品を指さす。


「これはただのエンターテイメント小説。だけど、」


と、今さっきまで読んでいたラブコメ小説を示す。


「これは文学作品」

「主題は?」

「恋愛感情がいかに単純か。これに関しては他のどんな文学作品よりもよく表していると思うよ」

「なるほど。だからあんなに熱心に読んでたのか」

「あ、いや、私は単にヒロインのイラストがえっちだったから読んでみただけ」

「これが、リビドーってやつか。僕の感心を返せ」

「フロイトは嫌いなんだけど」


レジの列に並んで買ったハーラン・エリスンの本は、文学だった。




***




その日は、曇りだった。

雨のようなセンチな気分になることもできなくて、青空を仰ぎ見ることもできない。その上、雲に美しさがない天気。そして、そんな日。

屋内だって、色彩が欠けている。

電車の駅だって例外ではない。濁った沼の底のような深い緑色をしたタイルたちは、濡れてもいないのに光っている。冷たそうだな、と思って触れようと手を伸ばす。が、同じ学年のやつらの談笑する声が聞こえて、やっぱりやめる。

目立ちたくない。変人だと思われたくない。例えそれが事実だとしても。

人の眼を気にしてしまうわりに、考え事をして上の空。

自分の考えていることが周りの人にばれてしまうのでは、と妄想してしまうし。


「あれー、久しぶりじゃん」


聞き覚えのある声が、肩越しに聞こえてくる。僕には再会する人はいないんだよな、別れるころには嫌いどうしだから。

しかし、


「おーい、ゆうと、だよな?」


いきなり名前を呼ばれ、ぞっとする。僕を呼んでいたのか。

この声はたぶん、小学校のころ同じだった、高野だ。


「ひさしぶり、高野か」


振り返って応える。


「おお、ゆうとじゃん!同じ学校なのに全然話せないきがする」

「たしかに」

「そういえばさ、最近2組のやつらと仲良くなったんだけどー」


会話は続いていくが、最初にちょっとだけ擦れてしまった声の不自然さが拭えない。

電車が来る。

剽軽な笑顔を浮かべた高野は、当然のように一緒に乗り込む。

僕は、視界の端にちょっとだけ映ったタイルに、触れられなかったことを後悔する。明日はまた別の僕がいるから、同じことはできないのに。


「テストとかどうなん?やっぱ難しいよなー」


話を繋げながら、一つだけ空いた席に座る高野は、隣に座った女性にリュックを少しだけぶつけてしまい、小声で謝る。


「あ、すんません」


髪先を天鵞絨びろうどに染めた彼女は、無言で会釈し、なにをするともなくぼーっと広告を見ることを続ける。高野はそんな人間のことは気に掛けることもせず、こちらに向き直る。

それにしても、と前置きをして、高野は挨拶と同じ調子で言う


「前より真顔になること増えた?笑顔が少ない感じするけど」

「そう?」

「うん。まあ小学校の時よりは」

「そりゃそうだろ、勉強とか、部…いろいろあるからな」


適当な返事をするだけだが、会話というのはそれなりに楽しい。

しばらく、中身のあってないような会話をしていると、僕のポケットに着信が来る。


「あごめん。連絡きた」


自分の携帯を取り出し、通知のメッセージを見る。

数少ない親しい知り合い、それも同じ部活の、からいつものように連絡が来ている。


『出席表にまるつけといた』

『おけ』


申し訳程度の相槌を送信する。

実は、僕は部活をサボっている。しかも、この半年間ずっとだ。しかし、知り合いに頼み込んで、出席表に印をつけてもらっている。そして、残りの時間は本屋で立ち読みをして時間を潰す。部活に行くことがどうしようもなく面倒で、耐えがたいのに、親には言いだせないままだ。


『そういえば後輩に会わなくていいの?』

『今更先輩にはなれないし』

『お前のこと覚えている後輩いるよ』

『記憶力がいいんだろ』

『モーツァルトのバイオリン協奏曲第五番の愛称も忘れるようなやつだぞ』

『そもそも知らない』

『聴け』


面倒になり、僕はそこで画面を閉じる。

話している相手がいるのにもかかわらず、携帯をいじるのは僕のなかでは渋滞と同じくらい悪いことだ、と思いつつ、ポケットに封印する。


「もういいん?」

「おわった」

「てかゆうとってスマホ持ってるんだな」

「一応な」


そう言ったところで、最寄り駅につく。


「じゃあ、僕はここで」

「ああ、俺は次だから、じゃあまた!」

「じゃあな」


そういって降りる。

後ろで扉が閉まり、一気に虚無感が押し寄せる。まるで寒々としたホームで独りぼっちかのような気がしてしまう。

先程まで同じ列車に乗っていた、青漆せいしつの髪をした彼女がいるな、と思いつつ、僕は高野に言われた言葉を口に出す。


「前より真顔になること増えた?か…」


それがどこかに引っかかったまま、ぶら下がったまま、僕は本屋に向かう。

これからは名前で呼ばないでほしいな、と言うのを忘れていた。




***




ガタン、と音がして、ゲートが閉まる。心の中で悪態をつきながらパスケースを握りしめ、改札機に叩きつける。周り、特に駅員の人、からの視線を感じて、逃げるように外に出る。

外に出て、空に少し目をやるが、相変わらずの曇り雲だ。秋の少し冷たい空気を吸いつつ、横断歩道を渡り、すぐ近くのショッピングセンターに入る。幸せそうな雰囲気を振りまく一階を後にして、最上階までエスカレータにのる。

ひどくゆっくりとしたエスカレータの歩みに少し退屈さを感じながら、3階分の高さを昇る。

着いた先は本屋。店内に入り、赤本を横目でみつつ、SFコーナーに行く。目当ての本の場所は、ここ数日間通い続けたので覚えている。ジェイムズ・ホーガンの『星を継ぐもの』とその続巻だ。読む前から、僕自身がセリオスの民だと云う錯覚に陥るほど素晴らしい作品で、SFとしての完成度が高い。

ちょっぴり迷路じみた店内を進み、見慣れた棚に着くと、

先客がいた。

いや、本を物色している他の客なら他にもいるのだが、そうではなく、『ガニメデの優しい巨人』―シリーズ二作目―を読んでいる、先客がいた。ちょうど、僕が読んでいる途中の巻だ。しかも僕と同年代くらいの女子。少しよれた上着を羽織った、制服姿の女子だ。髪先を深いくすんだ青に染めているのも、特徴だろうか。

幸い、不朽の名作ということもあって何冊か同じものが用意されているのだが、その彼女は棚の前に陣取って立ち読みをしているので、取ることはおろか、近寄ることもしがたい。僕は人見知りである以前に、思春期の男子であり、異性が苦手だ。はっきり言って、苦手だ。それに、そもそも髪を染めるという行為自体、僕はあまり好きではないから、そのことも相まって近づくことができずにいた。ようはコミュ障の人見知り、なのだ。

少し悩んだ挙句、帰ろう、と決めた。こういう時には回れ右だ。

しかし、


「久しぶり!元気してた?」

「え」


後ろから話しかけられる。

振り向くと、先ほどまで熱心に読書をしていた、その女子がこちらを向いている。もちろん、彼女のことは一切しらないし、なんなら今日初めて出会ったし、相手も知っているはずがないのに。

頭が真っ白になる。が、思考をフル回転させる。

人違い?忘れているだけ?だったらどう対応する?


「え、もしかして覚えてない、とか…?」

「え、いや、その」


彼女は本を棚にそっと戻し、近づいてくる。

そして、僕の目の前に立つと、不安げにもう一度、聞く。


「本当に、あたしのこと、覚えてないんだ?」

「いやちょっと、わかんない、です…」


居心地がとても、とても悪くなり身じろぎする。周りの客からの視線も少し集まっているような気もする。イマジンブレーカーをもっているわけでもないのに、知らない女子に絡まれるなんて、不幸だ…


「そっかそっかー」

「どこで、会ったんですか?す、すみません本当に覚えてなくて」

「それは言ったら面白くないじゃん」


緊張して早口になる僕とは対照的に、彼女はあっさりと言う。


「あ、あのさ、名前は?」

「叶、だよ」

「じゃあ、たぶんなんだけど、知らない…です」


敬語とため口が入り混じった不自然な口調になりつつ、そのことを伝えると。


「ゆーと君、私のこと、忘れちゃったか」


今度こそ、本当の意味で頭が真っ白になった。

これが、彼女―叶―との、ある意味で最悪の、出会いだった。


***


一か月後。

僕は、初めて出会ってから毎日、彼女と会っていた。

今日も唐突に、彼女は問う。


「今日は雨?」

「いや、今日の“天気は”雨だ」

「うーん、あと一歩かな。君は知らないかもしれないけど、私の文法も間違ってはいないよ。レトリックとしても使い勝手がいいし」

「そういうもんか」

「そうだよ。偏見だけど、君ってさ、広告の文章とかの文法間違いを見つけて喜んでそう」

「校正は得意だとは思うけど」

「今、見落としたね。今日の“天気は”っていう短縮を指摘するのなら、“あたしの”偏見っていう部分も校正してくれなきゃ」

「揚げ足取ってごめんって…」

「最近は文法に気を遣う人も減っているし、むしろいいんじゃないの。ほら、“大きな木”か“大きい木”、それとも“大木”かなんて詩人以外は誰も気にすることないじゃない?」


そう言って、彼女は本を棚に戻す。

店員も、二人で話しつつ立ち読みしていると、あまり話しかけてこないから楽だ。それに僕の場合はたまに買ったりもするので、居座ることを許されている。

もうそろそろ帰ろうかな、と思って立ち去ろうとすると、


「待って」


と言って、彼女に左腕を掴まれる。


「あっ」


刹那、鈍痛と共にその腕を、ばっと振り払う。

彼女は後ろに少しよろけ、でもそれ以上に驚いた表情をしている。しかし、すぐに申し訳なさそうな顔で謝る。


「あ、あたしに触られるの、嫌だった、よね。ごめんなさい」

「あいや、そういうわけじゃなくて、今、腕痛めてるから触られて痛かっただけで。こっちこそいきなりごめん」


心の中では、やってしまった、という念でいっぱいだった。

ああ、こうやって人に嫌われていくんだな。ちょっとした動作、たった一言、そういうことが相手に不快感を与えて、それが積もって喧嘩して、最後には別れるんだろうな。

誰が、リスカ痕の残る腕を触られてキレるやつと一緒にいたい?

心の中が搔き廻されたみたいにぐちゃぐちゃに歪んでゆく。


「ごめん。本当にごめん」


謝罪の気持ちより、嫌われることへの不安の意味合いのほうが強い、謝罪の言葉が口をついて出てくる。

いつも飄飄としている彼女がうろたえる。


「本当に、本当に大丈夫だから。謝らないでもいいよ」

「でも」


でも、の後は言葉にはならない。思っていることの千分の一さえも僕は口にすることができないんだ。


「…帰ろっか」


彼女の呟きに、同意する。


「そうだね」


僕たちは本屋を出て、ショッピングセンターも出る。

自動ドアが、先導する彼女の進路から退くように開く。涼しい、と寒い、の中間の温度がそっと触れてくる。


「エジプトって意外と寒いらしいよ」


唐突な話題。


「なぜいきなりエジプト?」

「ごめん、関係ない」


彼女は少しだけ顔を俯けて話し続ける。


「もしかしてだけど。君、切ってたりする?」

「なんでもわかるんだな。名前も、やっていることも」

「だって私、」


そう言って、彼女はそっと体を寄せてくる。


どきっ、とする。


別に、恋愛関係ではない。別に、好きなわけじゃない。

ただ、刺激が強すぎる。

近づかれても甘い香りとかも巷で言われているようにはしないし、性的な意味合いがあるわけでもない。

ただ、僕の腕をそっと掴んで、自分の袖の中に引き寄せる。

指は冷たいが滑らかで、女性特有のきめ細やかさがある。

でも、引き寄せられた先の手首は、そうではなかった。

これは、深く切った痕。触れた瞬間、そう直感的にわかった。しかも、それが幾筋も。

ああ、そういうことなんだな。


「私も、同類、だから」


彼女はじゃね、と言って、そっと離れる。


が、僕は呼び止める。


「なあ」

「うん?」

「“高い木”」


不思議そうな顔をする彼女に、告げる。


「“大木”か“大きい木”か、っていう話」

「ああ」

「“高い木”っていう選択肢もあるんじゃない?」


彼女は表情を変えずに言う。


「それは、言葉の意味が違うなあ。それに連想する情景も」

「そっか」


まだ少しだけ夏の明るさを反射した道路を遠ざかっていく彼女。僕はそれを無言で見送りながら、まだ感触の残る指で、そっと自分の手首に触れる。

ずっと傷痕は浅かった。




***




一週間後。


「やあ」


いつものように本に集中している彼女に挨拶すると、彼女はびくっと肩を震わせる。


「あ」

「ごめん風邪と用事で休んじゃってた」

「そ、そっか」


いつもより元気がなさそうな彼女は、お決まりの皮肉を言うでもなく、読書に戻っていった。


「今日は、科学系の本なんだな」

「分子生物学、おもしろいから」

「僕は、そうだな…天文学で」


そう言って、二人して読書に浸る。

久しぶりの心休まる時間だった。足は相変わらず疲れるけれど、本に集中してれば、大丈夫。

彼女は二冊目を読み終わると、いつもの習慣を始めた。


「一日たった30分。ただリラックスして本を読んで、好きな音楽聞いて。そういう時間を作るだけで、自殺は大分減ると思うんだ」

「誰の言葉?」

「私が考え出したの」

「珍しいな」

「そう、かもね」

「それにしても、音楽嫌いじゃないのか?」

「あたし?カントリーとヘビメタ以外なら好きだよ。特にヘビメタは耐えられないけど」

「『モーリタニアン』のスチュアート・カウチ?」

「映画も知っているのか、君は」


そういうと、いつになく優しく微笑んで続ける。


「この言霊、君に伝えられてよかった」

「いい言葉、だとは思う」

「んん、君はまだ、休養の大切さを理解してないんだよ」


そうなのかな?と確認しても、彼女はそうだよ、としか言わない。そういうやつなんだ。


「あたしさ、この言葉を考え付いた後に、どうしても人に伝えたくて。でも君は翌日もそのまた翌日も、そのまた翌日もいなくて。不安だったよ」

「ごめんって。今度からちゃんとれんら、く…」

「「あ」」


二人分の声が重なる。


「連絡先、交換してないね」

「住所ならむり」

「メッセとか電話とか」

「ないよ。だって携帯もってないもん」


それは、まるでナンパを断るのが下手くそな女子の言い分だったが、彼女はマジだった。


「本当に言ってる?」

「うん。それに、君なら手紙の方が好きでしょ」


それは、その通りだが。


「でも住所もないから、連絡はできないかな…」

「どういうこと?住所がないって…」


彼女は真顔で、静かに拒否する。


「それは、秘密」

「わかった」


僕は、彼女の連絡先ももっていないし、どこで会ったことがあるのかも思い出せないし、謎は多くなるばかりだ。

それでも、彼女のちょっとミステリアスで、まるでぴんと張った糸のような不安定さに惹き込まれるのは、なぜなのだろう。




***




その日、家に帰ってから。

ピロン、と珍しく通知が来る。誰からかと思えば、僕の部活の知り合い―出席表にしるしをつけてくれている、件の―だった。


『後輩と付き合うことになった』

『よかったな』

『いい人だよ、ほんと』


惚気か、と思い適当に肯定的なスタンプを送っておく。


『そういえば、古典の範囲ってどこだっけ』

『小テストなら、徒然草の第七段』

『どんなやつだっけ』

『命長ければ辱多し』

『ああ、四十歳くらいで死にたい、っていうあれか』

『それ』

『俺の彼女と同じようなこと言ってる』

『達観しているんだな』

『そうともいう』


それっきり、会話のネタがあるわけでもなく。会話は終わった。

しばらくして。


「いや、あいつの彼女ってどんな思考してるんだよ」


久しぶりに徒然草を読み直そうかな、と思った。




***




「全ての行動は、自己満足で終わらせられるべきである。だって、人生は60点くらいでいいんだから」


今日の講釈タイムはこの言葉から、か。


「…それも、自分で考えた言葉?」

「半分はそう。半分は受け売りかな」

「どこからの受け売りなんだ?」

「とある、あたしが好きな曲の歌詞」

「前、歌詞なんてのは形骸化した意味を載せただけの詩、とか言ってなかった?」

「笑止の沙汰だね、我ながら」

「人間だれしも間違いはあるさ。40点分の減点くらいなら」

「馬鹿にしてる?」


自分の考えた格言を使われるのが気恥ずかしいらしく、彼女はジト目を向けてくる。


「そんなことないって」


頬をちょっとだけ赤らめた彼女が無性に微笑ましく感じて、僕は少しだけ笑う。


「あ」

「なに?」

「君の笑顔、初めて見たかも」

「そう?」


言われてみれば。


「笑ってればちょっとは話しやすそうなのに」

「それができれば苦労はない」

「そっか。そうだね」

「今日は珍しく素直なんだな」

「いつもは厭味ったらしいって言いたいんだね…否定はしないけど」


2人して笑いあう。周りの人たちの邪魔にならないくらいに、静かに。


「あ、そろそろ帰る」

「ん、じゃあ」



ぎゅっと抱きしめられる。


ダイレクトに、何の躊躇もなく。

手を触れただけではわからなかった、生々しい柔らかさを制服越しに感じる。それに何よりも、首筋にかかる彼女の吐息が、どうしようもなく現実味を帯びている。

思ったより華奢な躰は、抱き締めかえしたら壊れそうで、とても…


彼女は、抱きしめるのと同じくらい唐突に離れる。

そして、言う。


「ハグってリラックス効果あるらしいよ?」

「どきどきしかしなかった」

「…あたしも」




***




夕陽で明るく照らされた屋外に出る。目の前の横断歩道の赤信号が、緑に変わるのを待ちつつ、彼女と話す。


「っていうか、なんでさっき、あんなことしたんだ?」

「あんなことって?」

「言わせないでくれよ…思い出すだけで恥ずかしいんだから」

「ごめんって。まあ、理由としては、興味が湧いただけ」

「んな適当な」

「あたしは、適当なことは言わないよ。言葉は現実になるから」

「言霊の力を信じてるのか」

「そう」


信号が、碧色に光る。


「じゃあね、また」

「じゃあ」


彼女が歩き出すのを見て、僕は別方向に向く。


「ゆーと!!」


大声で呼び止められて振り向くと、横断歩道の中ほどで立ち止まった彼女が大きく手を振っているのが見える。

気恥ずかしさを感じながらも、手を振り返す。


「またねー!!」


僕は大声を出すことなく、見送




***




彼女が亡くなってから、一週間以上が経った。

ようやく登校できるようになった僕は、花束を道端に手向ける。

「言葉は、現実になるんじゃなかったのか?」

周りの人は、事情を知ってか知らずか―知らないわけがない、ここで交通事故が起こったことは周知の事実だ—視線を逸らしつつ通り過ぎていく。あの日、彼女は、立ち止まった横断歩道で、居眠り運転のトラックに撥ねられ、そのまま死んでしまった。僕の、目の前で。


「なあ」


先程より大きな声で呟く。


「またね、って言ってくれたじゃねえか」


地面は沈黙する。

彼女は言っていた。「墓参り、というのはその人がまだ死んでいる、ということを確認する行事」だと。

確認して何が悪い。実感して何が悪い。

彼女は言っていた。「ものに意味なんてないんだよ」と。

死に意味を求めることだって人の性だろう。彼女が死ななきゃいけない、その、意味を、考え。

考えたくない。

もう、なにも考えたくない。

考えるといつも、彼女はそこにいる。

僕の思考は彼女のものだ。彼女の言葉、その一言一句が、僕の哲学となり内面となっていた。

全て覚えているし、全てに宿った言霊は今も僕を依り代として生きている。

でも、それは違う。

彼女では、それは叶ではない。

叶はもっと摑みどころがなくて、もっと特別なんだ。

死なんかに穢されるわけがないんだ。

頭の中は言葉でいっぱいだったのに。ショックで学校を休んでいる間自問自答したその答えの、価値のある言霊が脳内では渦巻いているのに。

なのに、出てきたのは、一言だけだった。


「寂しいんだ」


涙が、溢れる。

洩らす嗚咽は、誰も抱きしめてくれない。




***




冬が過ぎ、春が来た。

その間片時も、僕は彼女のことを忘れはしなかった。しかし、世界は回っていく。こういう時、彼女ならPKDの『偶然世界』の最後の一文を引用するんだろうな。

「前進あるのみ…」って。

結局、僕は何も変わらず、学校に行き、部活をサボっている。

一つだけ変わったことがあるなら、本屋に行くことをやめて、公園でぼーっと休んでいることだけだろう。

彼女も「休息は大事」と言っていたし。

夏の暑ささえ感じ始めるような気温の中、登校する。


前から、女子生徒が歩いてくる。


通り過ぎる。


「また、会ったね」


まぎれもない彼女の声だった。


その瞬間、僕は昇華する。

振り向いても、恐らく彼女はいないだろう。でも、僕にはわかるんだ。彼女は死んでいない。


そのまま、駆け出す。


そうだ。学校についたら、クラスのみんなに叫んでやろう。

「僕と一緒に、死人を探さない?」って



_____________________



燃える家。

あたしは別に悪くない。

料理のミスは怒られないのに、勉強のミスは怒られる。

そんなのは人間性に関わらないのに。みんなそれに動かされている。

ただ、ちょっとだけ家を飛び出しただけなのに。

なのに、火事だなんて。


あたしは、背を向ける。

こんな名前なんて捨ててやる。

警察からだって逃げ延びてやる。

私の名前は、今日から、そう”かなえ”だ。

火から生まれるのは、不死鳥。

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