ミウラ・シミラ

筆入優

三浦霞

 人間の体温は、安価なカイロに似ている。温かいが、寒さをしのげるほどのものかと問われればそうでもない。ただ、手の平だけでしか温度を感じられないカイロと、全身で温度を受けられる人間と抱き合うことの双方では、感じるモノに天と地ほどの差がある。全身で享受する温度は寂しさとか虚しさとかを紛らわしてくれるのだ。もう少し医療が発展すれば、人間の体温で精神疾患に効く薬が作れそうだとふと思った。カイロみたいな藤崎を全身で受けることで、僕は寂しさを紛らわしていた。


 体温は、僕の寂しさに効く。吐息は、幸福作用がある。副作用は僅かな羞恥心だ。息が僕に触れることを藤崎は許している。そう考えると、嬉しさと気恥ずかしさが同時にこみ上げてくる。


「私たちが付き合ってたのは、いつだっけ?」


 藤崎の囁き声が耳に触れる。


「高校二年の春から、だね」


 で、三年前に別れた。僕らは気づけば別れていた。そこには涙も感動もなかった。

 現在の僕は藤崎に向ける愛情を持っていない。また、彼女も同様だ。互いに愛情はとっくの昔に捨ててしまって、今こうして抱き合っているのは、付き合っていた頃に何度も感じた体温を二人とも忘れられずにいるからだった。


 僕の肩に回っていた手が、離れる。僕とすれ違っていた藤崎の顔がいつの間にか正面にあって、ハグが終わってしまったことを悟った。彼女の体温が僕の服に残っていたから、まだ抱き合っているのだと錯覚していた。


「こんなことは今日で終わりにしよ。こんなの、小学生が好奇心で何度もキスをするのと変わんない。私たちは、もう大人なんだから」


 ここで「なんで?」と尋ねるほど、僕は情けない人間じゃない。藤崎は理由を既に述べているし、これ以上彼女に答えられることは何もないだろう。変に尋ねて困らせたところで、今後彼女の体温を感じる機会は得られないし、むしろ今よりも突き放されるに決まっている。


 エアコンの稼働音だけが部屋を満たしている。藤崎の部屋の香水の匂いが暖房と混ざり合い、穏やかな空気を漂わせている。


 僕は頭の中で別れの言葉を紡いだ。


「まあ、藤崎が良いならいいけど。一つだけ尋ねたいことがある。藤崎はこれっきりでいいのか? ナルシストじゃないけど、もう僕の体温はいらないのか?」


 僕は藤崎をまっすぐに見つめた。


「遠くで新しい彼氏を作るよ。私、顔は良いから。それで、その彼氏と別れても、三年間もハグをするだけの中途半端でだらだらした生活は続けない」


 僕に宣言されても困るのだが、まあ、彼女の覚悟が決まっていることだけはわかった。


「就職は? 遠くっていうのがどこか知らないけど、ロボットの研究を続けられるとこがいいんじゃないか?」


「研究所は支部がいっぱいあるから就職には困らないよ。安心して」


「別に、心配してたわけじゃないんだけど」


「じゃあ好奇心で訊いたの?」


「ああ」


「小学生みたい」


 藤崎は小さく笑った。僕から言うことはこれ以上無かったので、彼女の家を出た。


  *


 色づいた落ち葉を踏みしめながら、街路樹の間を進んでいく。ぼんやりと、藤崎が研究しているロボットのことを考えた。


 ロボット制度が制定されたのはたしか五年前だった。二十五歳までに恋人を作れなかった人間は恋人代わりのロボットを買うことができる。それは大して発熱しないカイロの何十倍も高価だが、機能面は文句なしで、女性ロボットなら妊娠出産も可能だ。皮膚も人間のそれと遜色ない触感である。


 少子高齢化が進んだ日本は、ついに一線を越えたのだ。散々、そのうち日本はAIに乗っ取られるとかなんとかって人々は喧伝していたのに、国はロボットが出産できるまでに科学技術を発展させてしまい、あろうことか、それを制度として組み込んだ。苦肉の策だったことは誰の目にも明白である。世間に制度が浸透していけば、そんなこと、どうでもよくなるのだろうけど。


 マフラーがずれていた。手で位置を直しながら家路を辿る。秋でもこれだけ寒いと、ますます人の体温が恋しくなる。いや、もしかするとここ数年の僕が体温を求めすぎたせいで、神経が寒がりに変わってしまったのかもしれない。周りを見ても、この時期にマフラーとコートを着ている奴なんていなかった、僕を除いて。


 藤崎と潔く縁を切ったことを今更になって後悔し始めた。覚悟を固めても、それは徐々に溶けていく。


 ベタな話、あの時こうしておけばよかったとかあの頃に戻れれば、と思ってしまう。昔聞いた歌にも、そんな歌詞があった。アジカンのソラニンだ。ソラニンはじゃがいもの芽に含まれる毒のことだっけな。そんな歌を、僕も藤崎も好んでいた。


 帰ったら全身にカイロを貼りつけよう。そんなバカで危険なことを考えながら、僕は歩み続ける。


「バカだバカだバカだバカだ! 失敗作! 買うロボットを間違えたぜ!」


 街路樹の立ち並ぶ通りを抜けて、公園を通り過ぎて、住宅街に差し掛かった頃。この先にある家から、怒鳴り声が聞こえてきた。僕の思考を読んだテレパシー能力者かと思ったが、声の主は恐らく外に出てきていないから、それはないだろう。


 僕は声のでどころと思われる家に近づいた。


 家主は相当な間抜けなのか、窓は開いていた。網戸だけが頼りなく家を守っている。


 藤崎を全身で感じられないことで悲しみに暮れるよりは、野次馬としてここに参戦したほうが良いと思った。僕は網戸越しに家の中を見る。偉丈夫がこちらに背中を向けて立っている。彼の目の前には、か弱そうな少女。偉丈夫は彼女を殴ったり蹴飛ばしたりして、ずっと怒鳴っている。


 少女が僕の視線に気づいた。離れていてもわかるほど潤んだ目で、こちらを見ている。


 面倒なことになった。ここで助けなければ、僕は後悔するだろう。食べたこともない芽の、知らない毒の味に苛まれ続けるだろう。


 でも、弱い僕はあの屈強な男に立ち向かえない。純粋な恐怖が体内に蔓延っている。


 いや、それ以前に、二十五歳までに交際経験のある僕はロボットと関わっちゃダメだろ。それは法に触れる。


 僕が自分のことばかり考えている間にも、男は少女をいたぶり続けている。悲愴な喘ぎ声を聞いているうちに、段々僕は苛立ってきた。少女にではなく、あの男に。


「ばれなきゃ捕まらない!」


 僕は、意を決して突入した。作戦ならさっき思いついたので、問題ない。


 巻いていたマフラーの両端をしっかり持ち、男の両足に引っ掛けた。勢いのままに僕のほうへマフラーを引っ張る。男はバナナの皮で滑るような、華麗なモーションを魅せた。その直後、鈍い音が響き渡った。痛がる男を尻目に、僕は少女の手を取って網戸から飛び出す。彼女の手の温度は、カイロだった。


 靴は僕のを履かせた。おかげで足裏が痛い。家に着くころには、足裏が赤い斑点だらけになっているだろう。昔小さな石を裸足で踏んだ時のことを思い出しながら、足裏の健康を危惧した。靴下が防御を頑張ってくれることに賭けるしかない。


 全速力で駆けて、ようやく家に到着した。少女を居間に座らせ、僕はひとまず洗面所で足裏を確認する。毒を飲まずに済んだ代わりに、赤い斑点がいくつもできていた。足裏を刺激しないよう心掛けながら、居間に向かった。


「君、ロボットなの?」


 僕は彼女の横に腰かけた。長いソファは寝ることくらいしか使い道を見いだせなかったのだが、まさか藤崎と別れた後に女の子を呼ぶことになるなんて、思ってもみなかった。


 少女は一言も発さない。少しして、小さく頷いた。


「名前は?」


 彼女は答えない。筆談ならできるんじゃないか、とipadを渡してみる。彼女は一秒もかけずに名前を打ち込んだ。ロボットだからなし得る早業だ。


「三浦霞」


 その名を読み上げる。彼女は自分のほうにタブレットを向け直し、新たに文章を打ち始めた。


  〈あなたの名前は?〉


「入日曇だよ」


  〈どんな漢字ですか?〉


 僕はスマホに自身の名前を打ち込む。フリック入力が早いほうだと自負しているが、目の前の高性能ロボットには劣る。


  〈入日曇〉


「いりひ くもり。霞と曇で、ちょっと不穏だな」


 この場を少しでも和ませたくて、最大限のユーモアを孕んだギャグを放った。

 結果は惨敗。重たい沈黙が部屋を埋め尽くすばかりだった。そういえば、さっきから寒いな。エアコンが稼働していないせいか、はたまた別の理由があるのか。前者のみだと信じつつ、エアコンを点けた。


「ま、まあ冗談はほどほどにして。真面目な話をしよう」


 僕が言うと、霞は手を前に突き出して待ったをかけた。ipadに何かを打ち込み始めた。


 〈助けてくれたお礼をしたいです。私にできることなら、なんでも〉


 出会って数日のロボットにお願いすることなど、すぐには思いつかない。強いて言うなら、体温を感じたいことぐらいだ。しかしそれは、霞の境遇を考えると自重せざるを得ない。今まで彼女の体に触れた手は、足は、暴力の権化だった。だから、知らない男と全身を密着させられる勇気は持ち合わせていないだろう。その上、僕の部屋は藤崎の部屋と違って、香水もアンティーク調の暖かな家具もない。そんな質素な部屋では、何をしても霞は落ち着けないだろう。ここにあるのは適当に買った家具と、同棲していた頃の藤崎の残滓と、僕の寂寞だけで、彼女の気が休まるものは何もない。


「別に、僕は良心から助けたわけじゃないんだ。礼は遠慮しておくよ」

 

  〈そうですか〉


 目の前にいる人間……いやロボットか。ロボットの彼女が声も発さずに真顔で敬語の文章を打つ様子を見ていると、彼女を構成する機械的な要素がより一層強まったように思わせられる。彼女はあの男の家で機械的な教育しか施されなかったのだろう。あるいは、教育すらされておらず、今の彼女は世界の右も左もわからなくて、手探りで僕と喋っているのかもしれない。


「それより、身体のほうは大丈夫?」


 霞の腕を一瞥する。一部、紫色に変色していた。足はロングスカートに遮られて見えないが、それを一枚隔てた先には、腕にあるものとほぼ等しい数の痣がついているだろう。


「元カノが恋人ロボットの研究所に勤めてるんだけどね、彼女から聞いた話によると、どうやらロボットの治療班もあるらしい。そこに行けば治せるかも」


 ロボットの医療体制が整っているのは、安定したロボットライフを送る上で心強い。ただ、虐待などを防ぎきれないことがロボット制度の難しいところだ。


 ロボットにはロボット権という、人権と似た権利がある。だから、本体は、プライバシーの権利などその他諸々に守られており、研究所の監視の目は無い。人と変わらぬ扱いを受けられるメリットと、虐待などの問題に対応しづらいデメリットがあるのだ。それは人間にも言えることなので、僕にとっても他人事ではないのだが。


「一人だと危ないから、僕も付いて行ってあげたいところなんだけど、何せ僕と霞は不正契約じゃないか。若い男が痣だらけの女の子を連れてくるのも、怪しいし。自己中心的なことを言ってしまったけれど、僕が変な罪に問われるのは霞も望むところじゃないだろう?」


 不正契約とは言っても、半分くらいニュアンス的な意味である。実際には、僕らは契約していない。


 ロボットは、限りなく人権に近いロボット権が認められている。働くことも可能だし、友人を作ることも許されている。ただ、『恋人契約』という制度が設けられている以上、ロボットのパートナーに無断でロボットと三日以上の関わり合いになることはニュアンス的な意味合いで『不正契約』と呼ばれていた。最近は本格的に世に浸透し始めたため、その四文字はメディアでも散見されるようになった。ロボットが世に認められつつあるとはいえ、人間とロボットを同等にしたくないプライド的なものをもった国側がロボットを拘束しているのだ。あくまでも機械は少子高齢化対策のためのものでしかない、と。


 ロボットと友人(あるいは三日以上の関わり合い)になる人は書類にサインをしなければならない。それはロボットのパートナーが所有している。それだとロボットの交友関係をパートナーが制限できるじゃないか、と指摘されそうだが、無問題だ。『パートナーはロボットの交友関係を制限できない』という決まりを国が定めている。しかし、霞のパートナーに書類を寄こしてもらうことは難儀な話だ。いくら法律があるとはいえ、次あいつに会ったら殴り飛ばされるに決まっている。


  〈痣は、私がどうにかします〉


「いや、そういうわけにもいかないだろう?」


  〈どうしてそこまで優しくしてくれるんですか……? 知り合って一日も経ってないのに〉


「後悔したくないからだよ。僕は優しい人間じゃない、ただの自己中だ」


 藤崎と完全に別れてしまったことを僕は後悔した。彼女に迷惑をかけないために別れたあの時の僕は、間違っていたんだ。道徳的には正しくても、僕の気持ちに反していた。霞を助けなかったら、きっと同じ轍を踏むことになる。それだけは避けたかった。ただ、それだけの理由である。


  〈後悔って、良心があってこその感情だと思います〉


 笑みが零れた。三浦霞という高性能ロボットは、僕よりも人間らしい。


「じゃあ、僕は優しいのかもしれない」


 霞は、初めて笑った。ぎこちない微笑みだった。


  *


 深夜に鳴るにはうるさすぎる着信音が部屋に響き渡り、眠っていた僕は飛び起きた。ソファーで寝ていたから体が痛い。ベッドで寝ていた霞も起きたらしく、眠そうにこちらを見ていた。


 着信は、久しく連絡を取っていない大学以来の友人からだった。


 霞に「寝てていいよ」と小声で告げ、ベランダに出た。数週間前までは生温かった夜風が、今ではすっかり冷たい。部屋に上着を取りに行き、またベランダに戻った。空には星が点在している。闇に溶け込む星たちは、今日は早寝をしたい気分なのだろう。夜更かしをする星だけが、僕の頭上で輝いている。


「久しぶりの友人に電話をかける時間じゃないだろ」


『いや、仕事がなかなか終わんなくてさ。今しか時間が取れなかったんだよ』


 電話口の向こう側、友人の田口は不満げに、そう零した。


「わざわざ時間を作ってまで、僕に話したいことがあったのかい?」


 当り前さ、と返ってきた。体温をただただ求めるだけの肉塊になり果ててしまった僕とは正反対の、素晴らしい人生を送っているのだろう。今の僕は、とりわけ誰かに伝えたい話を持っていない。霞を助けたこととか、そのせいでちょっと困っていることとかは、話さなければならないことではないし、話したところで誰も解決できない。研究者の藤崎なら解決できるかもしれないが、今は、彼女に頼りたくなかった。もう彼女に縋るのは許されない。僕と彼女の関係は体温で繋がっていただけなのだから。今後ハグができないのは、繋がれないことと同義だから。


 離れていても繋がれる『愛』なんてものは、二人とも持ち合わせていないのだから。


『聞いて驚くなよ? 俺、ロボットの彼女と結婚することになった』


 僕は「はあ」と間抜けな声を返した。田口は『それだけ?』と言った。


「だって、田口は浪人して入学しただろ? 僕と同じ年齢だったらさっきの話にはそりゃ驚くし、まず法律的にだめなんだけど」


『そうかー、いや、大学時代にロボット制度を批判していた俺がロボットと結婚した、ってとこに驚いてほしかったんだが』


「人の思想なんて変わるもんだから、それも驚かないよ。まあ、おめでとう。おやすみ」


『相変わらず冷たい』


 嘆く友人を無視して、僕は通話を切る。積もる話も無かった。こんな冷たい性格だから、彼女ができないのだろう。でも、変わる気力も無かった。


 ロボットと結婚するのは、今の社会じゃ普遍的だ。田口はその風潮に流されただけだろう。流され、いつの間にか思想も変わってしまった。


 結婚とかその類の話は、僕には遠いものだと思う。いつの間にかただの肉塊になっていた僕にとって、愛情は二の次だった。きっと僕は霞と付き合っても上手くいかないだろう。いや、上手くいかないと断言できる。僕は、藤崎に向けたものに限らず、『愛』そのものを喪失してしまったのだ。今の僕は、体温を感じられるなら相手は誰でもいいただのゾンビだ。


 部屋に戻ると、眠る前に消したはずの明かりが何故か点いていた。


「霞?」


 ふとCDラックのほうを見ると、霞が立っていた。


「ひっ!」


 僕に気づいた彼女は、しきりに「ごめんなさい」と唱えながら後退し始める。


「ど、どうしたの?」


 僕が尋ねても彼女は答えないし、後退を止めない。僕が止めようとして近づくと、彼女はより一層怯えた表情になった。


「ごめんなさい、勝手に部屋の中歩き回って」


 掠れるような声で、そう謝る霞。何故そんなことで謝るのか、僕には理解できなかった。


 彼女は後退の途中で尻餅までついてしまった。


「なんで謝るんだよ? 霞は、何も悪いことはしてないじゃないか」


 僕は肩を竦めた。


「……?」


 霞は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。本当に自分の無実を理解できないらしい。


「CDラックなら、好きに見てくれて構わないけど」


 僕はベッドに腰を下ろす。


 立ち上がった霞は、戦々恐々とした表情は崩さないまま、震える足で僕の横まで来た。


「す、座っていいよ?」


 僕は困ったように笑う。


「あの、なんで怒らないんですか?」


 霞は震え声で言う。さっき反射的に声を発してしまったから、筆談に戻りづらいのだろう。


「部屋歩いたくらいで怒る人なんて、いないよ」


 僕はベッドの上に置いてあったipadを霞に渡した。


  〈千原さんは、それで怒ってきたから〉


 僕はハッとした。そうだ。彼女が僕の元で暮らし始めたのは、今日が初めてだった。今までは暴力の下で暮らしていたんだ。


「ごめん」


 〈曇くんこそ、なんで謝るんですか〉


 僕が怒らないと知ってすっかり気を許したのか、呼び名が入日さんから曇くんに変わっていた。ここはからかうべき場面ではないので、それについては言及しなかった。


「霞の境遇を考えられていなかったんだ。ここまで鈍感だと、僕が怒られそうだよ」

 僕はため息を吐いた。


「それで。CDが気になるの?」


 僕はCDラックに目をやる。それは五段で、そこそこ幅もあるが、埋まっているのはたったの一段だけだ。僕が何度も同じCDを聴く質であることと、二、三段目を埋めていたCDは全て、藤崎のものだったから。


  〈ソラニン、ってどういう意味ですか?〉


 ロボットの知識は、ある一定の基準を守ってプログラムされている。知る喜びを知ってほしいという、ロボット第一号を開発したシミラー社の意向によるものだった。霞が『ソラニン』を知らないのは当然のことだった。


「じゃがいもの芽のことだよ。芽には毒があるんだ」


  〈より気になってきました。聴かせてもらえませんか?〉


 霞がそう言うので、僕はラックにCDを取りに行き、プレイヤーで再生した。

「元々は、同タイトルの映画の曲なんだ。でも、色々解釈できて面白い」

 それだけ言って、後は曲が流れ終わるのを待つ。


『たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする』


 サビに入る。この歌詞を聞くたびに、僕と藤崎の中途半端な日々を思い出してしまう。あれは中途半端な関係でありながらも、確かに僕と藤崎は繋がっていた。愛を失った僕は体温さえ感じられたらそれで良かった。良かっただけで、幸せだったかどうかはわからないけど。


 唐突に、胸の内から湧き上がるものがあった。きっと、愛を忘れることを代償に死ぬまで覚え続けることになった体温の味だ。それはやがて行き場を無くし、ベランダに出て、飛び降りようとする。けど、躊躇して、結局僕の体内に戻って来て、気づけば、僕もそれも霞にしがみついていた。


「曇くん——」


 霞が短い声を上げる。ロボットとは思えないほど彼女は温かい。少し顎を引いて首筋を見る。雪をフライングして見た気分にさせられた。それくらい、彼女の首筋は白かった。僕はゾンビの黒さを彼女につけてしまうのが怖くなり、肩に回していた腕を解いて離れた。ソラニンは終盤に差し掛かっていた。


「あの……」


 霞が俯きがちに言う。感情の赴くままにとった行動を後悔した。これじゃ、千原と変わらない。感情のままに生きた結果が彼なのだ。そして、いましがたの僕なのだ。さっき自重した意味が無い。


「もう、曲、終わっちゃいましたよ?」


「怒ってくれよ。僕がやったことは、暴力と同じだ」


「私が受けてきた暴力とは、違います」


「そういうことじゃないんだ」


 僕のせいで悪い芽が出るかもしれない。いずれ霞は暴力の概念が一つだけじゃないことを知って、今日のことを思い出して、僕のことを嫌いになるかもしれない。愛もないし恋人じゃないし友人でもないけど、人に嫌われるのは怖いのだ。世界の一部から突き放された気分になってしまうから。


「人の優しさに包まれたような気分になったのは初めてでした。すごく心地よかったんです。だから、怒る気力も湧かないというか」


 霞は二度目の笑顔を見せた。三日経てば会えなくなるかもしれない相手に向ける笑顔にしては、少し明るすぎた。


  *


 ロボットに体温があること。ロボットにも感情があること。ロボットを扱った物語では、それらがやれただのプログラムだの偽物だのと非難されるが、僕はそうは思わない。だって、プログラムとは人間で言うところの遺伝子で、ロボットの体温や感情は、ロボットなりのそれなのだから。僕らだって人間なりのそれを持っているくせに、世間はロボットだけやたらと批判したがる。ロボット権が認められた今でも差別は続いているので、藤崎以外に霞との同居は伝えなかった。


 いや、まさか、コンビニに行く道中に通りかかった公園前で彼女と再会するとは思ってもみなかったが……もう二度と喋ることはないと思っていたのに、この狭い町では事実上の縁切りは意味を為さないらしい。


「藤崎?」


 彼女とすれ違った時、思わず振り返ってしまった。彼女も反射的に振り返り、僕らは近くの喫茶店に入って他愛もない話をした。藤崎が引っ越しの準備に時間がかかっていることとか、どうでもいいニュースの話とか。


 僕が霞のことを打ち明けたのはそれが終わった後だった。前置きとして、藤崎を頼るつもりはない意志を伝えてから話した。


 一連の流れ(いきなり抱き着いた話はカットした)を聞いた藤崎は、目を細め、「今日で霞ちゃんと出会って四日目って、入日くん、それ……」


「僕と霞が、上手くいくかどうか、予想してほしい。捕まるかどうかなんて話は置いといてさ」


「……ほんと、入日くんって危機感ないよね。ま、いいよ。秘密にしといてあげる……で、私の予想が聞きたいんだっけ?」


 僕は頷く。これは決して、彼女を頼っているわけじゃない。予想してもらったところで、問題の根本的解決には至れないのだから。


「そうね……霞ちゃんが入日くんと同じだったら長続きするんじゃない? もちろんそれは、数日前までの私と入日くんの関係の模倣になるけど」


 少なくとも、あそこのカップルみたいにはなれないと思う。藤崎はそう言い、店の奥に席を取っている仲睦まじいカップルを顎で指し示した。


 まるで参考にならない回答だった。


「あまり参考にならないな」


「今までの私たちもおかしかったからね。おかしな奴にありきたりな質問をしてもおかしな答えしか返ってこないわよ」


 僕はずいぶん前に運ばれてきたコーヒーに口をつける。冷めきったホットコーヒーは寒さと似ている。飲むと、なんだか虚しくなるのだ。そのくせ体温ゾンビの熱だけは上げるのだから、寒さは虚しさを熱するんだな、などと洒落たことを思ってしまった。


  *


 虚しさを飲み干し、虚しさが蔓延る外気に触れながら帰宅した。霞は居間でぼうっとしていた。


「霞?」


 僕は様子を窺うように喋りかけた。


「私、やっぱり千原さんのところに戻るべきなんじゃないかって思いました」


 だしぬけにそんなことを呟くので、僕は気の抜けた返事しかできなかった。


「私がここにいる理由が、見つからないんです。これ以上曇くんに迷惑はかけられないですし。今朝起きてから、ずっと悩んでたんです。過度なストレスはバグの原因になるので、早いうちに自分がどうしたいかを決めなきゃならないんですけど、それを考えてる間もストレスで、もう、今にも壊れてしまいそうで」


「千原のとこに戻っても、またストレスがかかるだけだ。それ以上は何も言えない。僕には、霞のことが何もわからないから」


 僕はコートを脱ぎ、霞の横に座る。


「今まで、千原に散々迷惑かけられてきたんだ。霞が僕を頼るくらい、迷惑でも何でもないよ。そもそも、助けたのは僕だし」


 彼女の難しい表情は綻ばない。人は、「気にしないで」と言われても自分が迷惑をかけていると思ってしまう生物なのだ。例えば、祖父や祖母に物を買ってもらった時とか。彼らは「これくらい安いからいいよ」と優しく微笑みかけてくれるが、買ってもらった側の僕は「そういう問題じゃなくてさ」と内心でため息を吐く。値段関係なく、『買ってもらう』ということが申し訳ないのだ。今の霞はまさにそれだ。居候すること自体を、彼女は良しとしていない。


 僕も僕で頭を悩ませていると、インターホンが鳴った。壁に備え付けられているモニターで訪問者の正体を知り、脳内をあらゆる回避手段が駆け巡った。


 映っていたのは、警察と白衣の男だった。白衣の顔は喫茶店で見かけた覚えがある。あのカップルの彼氏のほうだ。


 大方、状況は掴んだ。僕と藤崎の会話を聞いていた白衣が警察に通報。そして今に至る。それだけの話だろう。僕の自宅は、喫茶店の帰りに尾行して知ったと考えるのが自然だ。単純明快過ぎる。やはり、自分の犯罪話など、喫茶店でぺらぺらと喋るものじゃない。


 今更自嘲しても遅いし、逃げ場はない。ベランダから逃げたって捕まるのがオチだろう。悠長にあれこれ悩んでいる時間もないし、大人しく捕まる他なかった。


「霞」


 僕は霞のほうを振り向く。


「どうしました?」


「終わったよ、全部」


 僕は苦笑した。


 この四日間はそこそこ楽しいものだった。まさに、ゆるいしあわせがだらっと続いていた。互いに体温を求めあうほど僕らの関係は完成されたものではなかったが、霞が居ればたしかに寂しさは紛れて、紛れた寂しさは幸せに変わっていた。けれども、じゃがいもの芽をちゃんと抜かなかった僕のせいで——。


「僕のせいで、ね」


 玄関に向かう。霞は着いてこない。当たり前だった。幸福の絶頂を味わうことなく終始ゆるく暮らしただけの相手を追いかける理由など、無いのだから。たった四日間の絆しかない相手の喪失を悲しめる奴がいるのなら、そいつはきっと余程の感傷中毒者か、はたまた偽善者か、ただの薄っぺらい奴だ。


「曇くん!」


 僕がドアのカギに手をかけた時、霞に呼び止められた。彼女は薄っぺらい奴だったのかもしれない。


「霞は、四日間しか一緒に居なかった奴が居なくなるのが悲しいの?」


 僕は呆れた。


「それはね、人間でいうところの『薄っぺらい』なんだ」


「違う」


 霞は、涙は零さない。ロボットだから。でも、感情の全てが表情に出ていた。ひどく顔を顰めていた。怒っているとも悲しんでいるとも取れない表情だった。


「何が?」


「初めて私のことを大切にしてくれた人を、手放したくなかっただけです。厚みなんて関係ないです。重みが違うんです」


 ドアの向こうで怒鳴る人間がいる。そんなに怒鳴らなくても、僕はヤクザじゃあるまいし。


「そっか」


 無駄な感情が芽生えないうちに、じゃがいもの芽だけが顔を出しているうちに、僕たちは別れるべきだ。藤崎とゾンビ的関係を断った時もそうだが、僕は関係を断つときは相手に迷惑をかけないことを第一に考えていた。霞まで面倒ごとに巻き込まれないように、僕だけが警察と対面する……いやダメか。霞が逃げれば、逃亡者として追いかけられる。なら、もう打つ手は無い。僕が迷惑をかけないように心掛けても、警察や研究者の手は霞に纏わり続けるのだ。それは僕の力じゃ振り払えない。


 ドアを開くと、警察手帳を見せられた。白衣のほうは、藤崎とは別の支部で働いているロボット研究者らしい。専門知識などを有するので同行してもらったとのこと。やはり喫茶店で見た顔だった。


 部屋の暖気と外の秋が絡まり、僕は中に居るのか外に居るのかわからなくなってしまった。ドアを開いたままにしていると、季節が部屋に入り込む。そんな曖昧な空間になるのが嫌で、昨日ベランダに出たときも窓を閉めていた。


「署までご同行願えますか?」


 僕は「はい」と言いかけた。けれど、背中に飛んできた鋭い「待ってください」に会話のイニシアティブを奪われてしまった。


「……霞」


 僕は若干怒気を含んだ声で、その名を呼ぶ。


「私がバグってしまったから、セーフです」


「意味がわからないんだけど」


 会話が成立していない。彼女は壊れてしまったのだろうか。


「研究員さん」


 霞は、僕を挟んだ先に見える白衣に呼びかける。


「私のバグを検証してください」


 白衣は警察と顔を見合わせ、悩む素振りを見せた。やがて警察が頷き、白衣が「こっちに来なさい」と霞を手招きした。


 白衣は、グリップの先に小さな長方形のモニターが付いた機械をポケットから取り出し、それを霞に当てた。しばらくすると、機械が高音を上げた。白衣がモニターを自分のほうに向けて、そこに書かれた内容を読みあげる。


「三浦霞と入日曇の契約成立バグ……いや、さすがにそんなことあるわけないだろ。だって、契約は一度書類を提出してからロボットの承認があって初めて成り立つんだぞ。その承認も、ロボットが書類を読み取った後じゃなきゃ不可能だ」


 白衣は二、三度目を擦ってモニターを見る。結果は何度見ても同じで、彼は衝撃のあまりその場に膝から崩れ落ちた。ギャグマンガのワンシーンみたいだった。


「ストレスはバグを引き起こす——」


 僕は呟く。霞にとっては最悪のストレスが、僕たちにとっては最高のバグを引き起こした。思わず口角が上がった。


 警察と白衣は悔しそうに退散した。僕と霞はまた二人きりになる。


 友人契約が成立したということは、僕らは一緒にいてもいいということだ。それが体温だけの関係になっても構わない。藤崎と僕の三年間は別れた後にだらだらと続いたものだったから中途半端な関係だったが、僕と霞の関係はそうじゃない。事実上の——契約上の友人でも、僕と彼女の間にある見えない糸にはまだ名前がついていないのだから、だらだら続くどころか何も始まってすらいない。僕らは始めから体温の関係を取ることもできるし、改めて友達としてやっていくこともできる。


「霞」


「何ですか?」


「これからも、僕の身勝手な優しさを受け止めてくれる?」


「……もちろん」


「じゃあ決まりだ」


 僕は霞に歩み寄り、肩に手を回した。


 次はだらだらと続く関係ではなく、体温を交わすだけの、あるいは交わすための関係だ。それが互いにゆるいしあわせだと認められるのなら、それで良いと僕は思う。歪んでいたとしても、愛が欠けていたとしても、ハッピーエンドなら、それでいい。

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