第5話


 踊りが終わった彼女に、僕は水の入ったグラスを渡した。

 彼女は疲れ切った笑顔で飲み干すと、再び抜け殻のようになって、ふらふらとホールを後にした。


「アリア……」


 僕は彼女の背中を見ながら、もうなにも言えなくなっていた。

 アリアは命を賭けて王子に尽くしていたのだ。

 王子を愛して愛し抜いて、辛い城でも耐え抜いていたのだ。

 そして最後にーー客船の中の観客全ての前で、全ての心に焼き付くような舞踏を魅せたのだ。


「強い人だったんだ。アリア」


 僕は恥ずかしくなっていた。

 僕は王子に寄り添い続けた、彼女の本当の強さに気づいていなかった。美しさに惹かれて酷い立場に同情していたばかりだった。


 実の所僕は、彼女に告白しようと思っていた。

 王子に「お下がりをもらった」と思われてもいい。アリアに侮蔑の目で見られてもいい。嫌われてでも彼女を一生守っていきたいと思った。

 この子は、幸せになるべき女の子だから。


「違うんだ。アリアは、そんなんじゃ幸せになれない」


 僕は手を握りしめた。

 アリアは絶対、幸せになるべき女の子だ。

 けれどそれは、浅ましくうわべだけで恋した僕なんかに与えられる幸せじゃダメだ。

 彼女は彼女として、自分で幸せにならなければ。



 ーー僕はその後も忙しなく働き続け、気がつけば夜になっていた。

 花嫁花婿は豪華な天幕に覆われた寝室で、今は初めてのひと時を過ごしている。同じ船で夜を過ごす来賓全てが二人の初夜の証人というわけだ。

 

 僕は北極星を見上げながらやる気のない巡回をしていた。全身の漲る感情というものが全て、アリアの血気迫る舞踏に吸い取られてしまった気分だ。

 アリアは今、どうしているのだろう…… 

 物思いに耽りながらデッキの方へと向かおうとした時。


 波のさざめきとは違う、女のはっきりとした声が聞こえてきた。


「王子を殺して帰っておいでなさい。魔女の短刀で刺して血を浴びれば、あなたは人魚に戻れるわ」


ーーー


   ーー話はここで、ようやく冒頭に戻る。


 僕は鼓動が走るのを抑えながら、そっと物陰から、甲板の方へと目を向ける。

 暗闇の中、手すりにもたれるのはアリア。彼女が顔を向ける波間には、ざんばらに髪を切り刻まれた無惨な人魚たちが、アリアに向かって短刀を捧げていた。

 人魚たちはあれを魔女の短刀と呼んだ。アリアに渡すために髪を代償にしたのだろう。


 もっとも年上らしい人魚が、岩に魚の半身を乗り上げて、アリアにさらに短刀を差し出した。彼女の声は涙声だった。


「アルツォーネ。声も尾鰭も失ってでも、初恋の王子と寄り添いたいと願った健気な娘。私たちの愛しい妹。あなたが泡になって消えるには悲しすぎる。どうか……私たちは、これからもあなたに生きていて欲しい」


 アリアは彼女に押し切られるように短刀を受け取った。

 人魚たちはそのまま波間に消えていく。

 短刀を戴いたアリアだけが、甲板に残った。


 王国の従者なら、ここで短刀を奪い取るのが正解だ。

 けれど僕はそんなことよりも、彼女の本当の名ーーアルツォーネという名を知れた感動でいっぱいだった。


 アリアーーアルツォーネはふわふわとした足取りで、王子と姫の眠る天幕へと向かう。僕もその後ろを足音を殺して追いかけた。

 短刀に何かまじないが込められているのか、花嫁花婿の寝室に向かうアルツォーネを阻む衛兵は全ていびきをかいて眠り、ドアの鍵は触れるだけで錆び付いてぼろぼろと剥がれていった。


 ついにアルツォーネは花嫁花婿ーー王子と姫の寝室の天幕まで辿り着いた。

 紫の刺繍がされた天幕をめくると、中には裸で並んで眠る二人の姿があった。霰もない姿の王子は酔いが回った幸福そうな顔をしている。


「………」


 アルツォーネは王子を見下ろしながら、短剣をぎゅっと握りしめた。

 しかし手を震わせたまま、振り下ろすことはなく、じっと唇を引き結んでいた。いつしか短剣に、涙の雫が落ちて伝う。刃を濡らす涙が王子の胸をぽつぽつと濡らしていた。

 アルツォーネは次第に、泣きながら優しい笑顔で彼を見ていた。


「……」


 唇が確かに『あいしてる』と動く。そして『さようなら』と。

 彼女は清々しい顔で振り返った。短剣を右手に持ち、天幕から出て。

 彼女は寝室の窓から、迷いなく短剣を投げ捨てようとした。


 僕は三度目の恋に落ちていた。

 自分の為に愛する人を犠牲にできない、その清らかな心が大好きだ。僕のことなんかどうでもいい。好きになってくれなくていい。

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