1-5 散歩旅行記 前編

 ある朝。ミツキは母の前に立つ。

「ねえ。お母さん。明日、一人で海見に行ってくるから」

「どうしたの」

「ほんとにどうしたんだ?」

「どうしちゃったんだよ、姉ちゃん」

 母、兄、弟と三人でミツキの発言に心配される。

「だーかーらー、海を見に行ってくるのー!!」

「どうやって?」

「歩いて」

「フッ」

「姉ちゃん。ほんとにどうしちゃったの?」

「止めときなさい。どうせ行けないんだから」

「そんなのやってみないと分からないじゃん!」

「ミツキ。徒歩で二十三時間」

 ケイは持っていたスマホで現在地から伊豆までの徒歩時間を見せた。

 ミツキはドライな表情を兄に見せる。母に顔を戻す。

「私は何が何でも行くよ!」

「止めなさい。後でミツキを回収しに行くの大変なんだから」

「でも、姉ちゃん。去年の臨海学校で海に行ったのに、また海が見たいんだね」

「海はロマンなんだよ? ハヤト」

「それはなんとなく分かるけど、釣りに行った時にそこまで良いとは思わなかったな」

「なんで!?」

「だって、酔うじゃん」

「それは体質よ」

「体質の一言で片付けられたくない」

「まあ、ミツキ。とりあえず行けるところまで一人で行けばいいじゃないか」

「お兄ちゃん……」ミツキは兄の肯定的な意見に心を動かされる。

「自己責任だけどな」

「それは勿論。そのつもりで!」

 ミツキは張り切って明日の準備に取りかかる。

「はぁ~。大丈夫かしら」

「父さんの悪いところみたい」

「そう。まさに。はぁ~。ケイもハヤトも物わかりが良いから手が掛からないと思っていたけど。ミツキはアクティブな性格の度を超える時があるから」

「まあ。いいじゃん。もしあれなら、父さんの車で回収へ行けば」

「まあ。夕方にリタイアする事を考えれば八時くらいには帰ってくるかしら。はぁ~。重荷にしかならない」

 ミツキから徒歩旅行申請が出てからイングリットは暗い顔をするようになった。

 翌朝。天気は快晴。天候の事では心配はいらない。しかし、半日以上も自宅にいない彼女をイングリットは心配する。

 ミツキはリュックを背負い玄関を出た。

 両親と兄弟が家を出て彼女を見送る。

「なんか、私が一人で上京するみたいで外から見られたら恥ずかしい光景だね」

「一人で出かけるなんて言ったミツキの責任だから」

「何かあったら電話するんだぞ。父さん。夕方からは出られるから」

「はーい」

「姉ちゃん。間違っても熊と格闘するんじゃないよ」

「しないしない。するわけ無いじゃん。そんな戦って何しようとするんだよ」

「喰う」

「ちょいちょい」

「日中だけいないとは思うが、達者で」

「何を言っているの? お兄ちゃん。私は今日中に海を見に行くんだから」

「そう」

「それじゃあ。行ってくるね~」

 ミツキは石畳の敷地を歩き旅行が始まった。

 事前に調べて最初の方向はとにかく学校と家から離れる事だ。

 大学から商店街。そして、住宅街が広大に広がる。

 防災訓練などで歩いて分かった事がある。商店街を抜ければすぐに住宅地に入るが、端から端まで歩くとおよそ四十分。

 住宅の端には川が流れている。川の両脇はアパートが立ち並ぶ。

 昔あった洪水対策で川のすぐに立てるものは水深対策がされた建物でないと建設をしてはいけないという法律が執行されてから立て替えなどが一気にされるようになった。

 その法律が執行されてから六十年。耐震性も考えて立て替えもしなければならないだろうと建築年数と地震を取り扱った番組で話していた事を思い出す。しかし、ここに並ぶ建物は全て私営のアパート。どこまで手を入れるかがまだ分からない。

 ベニヤ板や簡単なプラスチック製の板が捲り上がっている部分がある。

 ここに住むのは皆、高齢者と見られている。あまりこの地域を歩く事が無い。一度だけ住んでいる住民と窓越しに目があった。ミツキを見ていたかもしれないが、その時は周りにも多くの児童と生徒が歩いていた。結局のところ、目があったとはいうのはミツキが自覚しているものの果たして自分一人だけを見ていたのか。周りを含めて小学生を見つめていたのかは分からない。

 数年前と変わらない廃墟のようなアパートを横に橋を渡る。

 住宅とアパートのエリアを超えてしまえば、広大に広がる田畑。盆地を囲う山々が広がる。これはミツキが思う田舎の風景。地平線など見たことが無い。山の頂点が彼らにとっての地平線だ。田舎の地平線は山のテッペン。そして、登山家の地平線はまだ先にある。

 盆地が手広く見える位置でもしかすれば登っている途中かもしれない登山家に思いをはせた。

 地平線下の麓を目指して再び歩き始める。

 ここまで歩いて三十分。急がず慌てずをモットーに超長距離の目的地へ向けて歩みを進める。

 鳥の鳴き声が良く聞こえるほど車が走る音とエンジン音は全く聞こえない。

 春休み中はようやく植物や野生動物達が冬の厳しい寒さを超えて目が覚める時期に入る。ミツキが一人歩く軽自動車一車両がようやく通れる幅の小さな田舎道。両脇の田んぼと道路の間から産声を上げる小さな葉っぱ一枚一枚が体をくねくねと動かし体を大きく伸ばす。

 一年が過ぎてまた目覚める頃。植物達は生まれ変わり子供の体となり起き上がる。

 青々とした飾られる道はどこか甘い香りを漂わせて朝の澄んだ気持ちの良い空気をすわせてくれる。これだけで心が高揚する事が春の楽しみなのだろう。

 ただ、時期が進むと同じ春でも違う春がやって来る。

 人によっては早まる木々の生存戦略に巻き込まれて嫌々過ごす人もいるのだろう。

「はっ、くちゅん! んんああぁぁ……」大きく体を前のめりにくしゃみをした。

 人差し指で鼻をむずむずさせる。

「もうこんな時期か。早すぎでしょ」

 寒くは無い。これは完全に春のアレだ。言わずもがなアレしかない。

 花粉症というのも、人類にとってやっかいなものとなってしまった。ただでさえ借金が増え続ける中にもかかわらず、国の政策として花粉症対策をする時代になってしまったとなると季節は春秋と限定されるものの。もしかすれば、人類を多く殺してきている蚊と同等の影響力があるのかもしれない。

 春真っ盛りは花粉祭り。夏は酷暑。秋は野獣の蹂躙。冬はまあまあ寒い。

 とにもかくにも、そこまで花粉が活発でない今の時期にしか徒歩で海を見に行こうと思わないだろう。

 徒歩。なぜ、徒歩にこだわったんだ。自転車はある。大人も乗るようなママチャリ的なもの。

 ミツキの信念に確固たるものがある。山梨から静岡の海まで見に行く時はスポーツバイクだなと。その方がスピードも出るし、ママチャリ的な一般的な自転車で来るよりも幾分か早い気がする。あくまでミツキの感覚だ。

 しかし、衣類的な面で考えると死んでもあんなピッチピチのガチウェアは避けたい。精々、衣類だけはバイクに乗るような空気抵抗のある服を着たい。

 一人。何も耳にイヤホンや耳栓をつけていない。飽きが来ないのが不思議に思える。これもただひたすらに海を見たいからだ。去年の臨海学校で見た景色を歩いてまでわざわざ見に行こうなどよほどの物好きだ。ミツキはクレイジーな物好きだ。

 無限に続くよう見えた田畑に囲まれた直線。距離感覚がバグるのは自動車の運転手も同じ事だ。しかし、感覚ほど時間が掛からなかったように思える。手持ちの腕時計を見てみれば出発してから四十分経っていた。

 このままであれば、今日中には山梨を超えられるだろう。ミツキは黙々と足を進める。

 静岡の海へ行くと徒歩で家を出たところで山越えというのは必然的にすることになる。だが、ミツキは楽をしたかった。山越えは山を上に登り下っていく方法しかないという訳ではない。世の中にはトンネルという第二次産業革命的なビッグバンによって自動運転交通システムの発達に伴って、多くの物資を運ぶ大動脈として欠かすことの出来ないものになっている。

 高速道路は自動車しか通ることが無い。しかし、下道。県道や国道であれば自転車や歩行者も通れる。

 橋の上で見えたあの山を目の前にして先にはトンネルなどない。しかし、左側に続きが伸びている。大学や住宅地があるエリアが盆地地帯であるようにこの先に伸びる地域もその一部。川が流れている両脇の平地は広くはない。

 ミツキは足を踏み出す。先には曲がった山を登れば静岡には近くなるはずの南へ向く道が続く。ほとんどの人間は日本一高いという富士山を中心に進路を考えるのだろう。運転手と言い旅行客と言い。目の前に山があればどうだろうか。目印の富士山を探してもおそらく何も見えないだろう。

 ミツキは分かっていた。目印なんて自分がどこかへ行ってしまえば消えてしまうことを。だから、野生の勘だけを頼りにミツキは開けた地を歩き目標としている静岡の海を見に行く。

 川は幅が広がる。堤防には畑が広がる。のどかな景色が広がる。

 家々は一軒家ばかり。大学近くにあるマンションやアパートなど一軒も無い。左右交差する道路は自動車、自転車なんてまばら。数十秒に一車両が通り過ぎればそれなり賑やかに時間だと思うほど。通り過ぎる歩行者なんて一人しか見なかった。

 カーテンで閉じられた建物。商店の名前が貼られた窓ガラスとボックス型の白い看板。ペンキが剥がれている。

 この道のりは何も無くはない。これ以上に過酷な道が待っているに違いない。山越えというのはそこまで旅人には優しくしてくれない。

 ほぼ無心に近い状態。だが、海へ向かって歩みを進めていた。

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