第2話 懺悔
私はもう一口だけコーヒーを口に含むと、気持ちを落ち着けるために一つ息をした。
「彼が、弟がうちにやって来たのは私が十歳の時だったわ。小さくてかわいくて。念願の弟だったからすごく嬉しかったの」
そして思い出す。
弟は本当に小さくて、温かくて。
よちよち歩きながら頑張って歩く姿は愛くるしくて、ずっと見ていられた。
撫でれば気持ちよさそうに目を細め、嬉しそうだった。
「本当に可愛くてね。いつも一緒にいたものだったわ」
弟はすぐに大きくなって、私は小学校から帰るとすぐに彼と遊んだ。
紐を引っ張り合ったり、おもちゃを転がせば弟はそれを追いかける。
おもちゃを右に転がせば、それを追って右に跳ねる。
左に転がせば左に跳ねるようにして追いかけた。
遠くに投げると一生懸命それを追いかけて、そしておもちゃを取って来ては私に差し出してくれた。
真っすぐに見つめてくる目が愛らしくて、私は良く彼に頬ずりしたものだ。
「散歩も良く行ったわね。父と行くことが多かったけど、たまに私もそれについて行ったの」
近くの公園をのんびり歩く時間が好きだった。
夕方に薄紫に染まっていく空を見上げつつ、ヒグラシの声を聞いて歩く。穏やかな時間だった。
冬は雪の中もどんどん歩いて、足に雪がくっついて重そうにして歩いていたけど、文句ひとつも言わなかった。
「彼は成長していって、そして私も中学になったんだけど。中学に入ってから私は部活や勉強が忙しくなってしまって、弟に全く構わなくてしまったわ。両親も仕事なんかが忙しくて、大きくなって手のかからない弟を放っておくようになった。彼はそれに対しては何も言わなかった。そして彼は一人で大人しく過ごす時間が多くなっていた気がする」
やんちゃだった面影が消え、大人しく部屋でじっとしていた弟。
私達がいても、だんだん距離を取って近づくことが少なくなったのは大人になって冷めた性格になったからか、それとも心を閉ざし始めたからか…
「私が大学に入った頃には彼と関わることは殆どなくて、そんなうちに弟は心臓病になったの」
咳が止まらなくなって、病院に行ったら心臓の病気だった。
何とか助けたくて病院も何か所か巡ったけど、結論としては薬を服用して進行を遅らせるだけだった。
その後はだんだん発作の回数が多くなり、病院に行く回数が増え、最後は毎日のように通院した。
「でも私はそれに対してはあまり気にしてなかった。弟の世話をするのは一緒に住む両親の仕事だと思っていたし、私は大学が県外で一人暮らしをしていて、ほとんど家に帰らなかったから」
母親が手紙に弟の話を書いても「ふーん」としか思わなかったし、返事も書かなかった。
でもたまに帰ると喜んでくれたのは分かって。
だから弟は私のことを信頼してくれていると思っていた。
そうして私は弟の病気が進行しているのにも気づかなかった。
「最後に家に帰った時にはもうほとんどご飯を食べなくなって、それでも両親は弟に生きて欲しくて無理にご飯を食べさせてた。嫌がっても口に突っ込むようにして食べさせたわ。そして…私は彼に酷いことをしたの」
そこまで言ってやっぱり私は最後まで言うことができなかった。
自分の罪をさらけ出すことにわずかばかり抵抗があったのもそうだし、それよりもその罪の重さを感じて嗚咽が出そうだったからだ。
だけど絞り出すように私は言った。
「私は、食事をとらない弟を叩いた。そして間もなくして、彼は死んだわ」
最後は楽しい思い出を作ることはなかった。
なんで食べないの?食べなさい!
そう言って叩いてしまった。
彼は何も言わなかった。ただ、ひどく傷ついた気持ちになっていることは雰囲気で伝わって来た。
そのまま私は実家から自宅へと戻って、それが最期になった。
次に彼と再会したときには冷たくなって動かなくなった姿だった。
「うっ、うっ。私には泣く資格もないのに…それでも、もう一度会えたら謝りたい!ごめんねって。もしあの世があるなら、一番に会って謝りたいの!」
全ての後悔を吐き出すように。
今まで溜まっていたものを流すように、涙が溢れた。
そんな私の背を何かかそっと触った。
見れば青年が優しく私の背中を撫でている。
そして私の顔を覗くようにして見ている青年は、少しだけ泣き笑いしているような表情になった。
「でもね。彼は人間のように、弟と思ってくれていて嬉しいと思っているはずだよ」
「えっ…?」
青年の言葉に私は自分の耳を疑った。
どうして弟が人間ではないと分かったのだろうか?
「なんで…それを…」
だって今の弟は私の愛犬の話だったからだ。
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