第57話 奈落
だが、銃の威力を考えれば、これだけですんだのは奇跡だろう。
(ああ、手でなくてよかった。両手があれば手品や腹話術ぐらいならできますからね)
ラティラスは這いつくばりながら、左肘を床につくようにしてなんとか上体を起こす。
霞み始める視界の中で、銃をフィダールにむけて構える。体が冷たくなり、凍えているように震え始める。
ラティラスは引き金を引いた。だが、銃には何の変化もない。
「どうした、痛みで惚(ほう)けたか」
あざけるようにフィダールが言う。
肩に蹴りを入れられ、ラティラスは上向きに転がった。
たったそれだけの動きでも足の傷から全身に痛みが走る。
「忘れたか? 神の武器とはいえ、これがなければ玩具同然だ」
フィダールはこれ見よがしに小さな赤黒い宝石を掲げてみせた。
引き金の爪に、小さな凹みがあるのにラティラスは気がついた。
本来は、そこに血でできた宝石がはめこまれていたのだろう。もみ合うすきに、フィダールはそれを取ったというわけか。
いい加減お預けは飽きたというように、ヒョウの一匹が鳴いた。
「ラティラス!」
リティシアが悲鳴のように自分を呼んだのが聞こえた。
最期に愛しい姫の顔を見ようと顔を対岸にむける。
だが視界はぼんやりとしていて、おぼろな人影が三つ見えただけだった。
「ラティラス、この布を!」
ゆるく射られたリティシアの矢は、ラティラスの顔近くに落ちた。その先に、血で染まった布が結び付けてある。
ラティラスは、リティシアの言葉の意図も分からないまま、その矢を手に取った。矢の軸から外しもしないまま、赤い布を引き金に乗せ、その上から指をかけた。
「馬鹿め! ただリティシアの血をつければいいというわけではない! それだったら苦労して人工血液など造る必要などなかったわ!」
フィダールはヒョウに命じる。
「喰え!」
ヒョウが一斉にラティラスに襲いかかった。
「フィダール、一つあなたは思い違いをしています」
ラティラスが見た三人目の人影……ファネットが言った。
「その布に付けたのは、リティシアのではなく私の血」
銃から光の帯がほとばしり出た。
ラダットは弧を描くように銃を振り回す。悲鳴すら上げず、ヒョウは上下真っ二つに断ち切られていった。もうもうと煙が上がり、視界を遮(さえぎ)る。
(一体、なんで……)
そう思うが、呟く力もない。
上体を起こす力も尽きて、ラティラスはその場に倒れ伏(ふ)した。右手だけをなんとか動かし、銃を床にすべらせ、廊下の裂目に落とす。これで万一フィダールが生きていても、銃で止めを刺されることはないだろう。
「思い出したのです、自分が何者だったのか」
ファネットの言葉はどこか威厳のある口調で言った。
ルイドバードはぽかんと口を開けている。
「私の正体は……」
ファネットの言葉を遮るように、うめき声が響いた。すぐ背後から。
肩ごと右腕を落とされたフィダールが立っていた。ヒョウが焼かれた黒い煙の中、口の端(は)から血を流すその姿は化物じみて見えた。
フィダールは片手でラティラス襟首をつかみ、持ち上げる。服を捻じってラティラスの喉を締め付ける。
「ぐ……」
ラディラスはフィダールの両手を引き剥がそうとする。しかしほとんどの力が血と流れ出てしまったラティラスに、その力はない。
フィダールがふいによろめいた。体をささえようと後に足を引く。その下に、もう床はなかった。
二人は裂け目から闇の中へ落ちていった。
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