第56話 空言は得意なれど戦いは不得手
今だにヒョウに追われながら、悲鳴をあげてラティラスは廊下を走っていた。
奥に入り込むにつれ、段々と壁や床の痛みがひどくなってきた。天井が崩れて、瓦礫 (がれき)が所々に落ちていて、走りづらい。どこからか水が入り込んできているのか、廊下の隅にはコケが生えている。
後からヒョウの前脚に背中を引っ掛けられ、ラティラスはつんのめった。なんとか転ぶのをこらえて走り続ける。
「本気だったらすぐに追い付けるでしょうに! ネコがネズミをいたぶるようにするなんて、あなたさてはサドですね!」
荒い息をしすぎて乾いた喉が痛い。全力疾走と死の恐怖で、苦しいほど鼓動が早くなる。
前から強い風が吹いてきて、ラティラスは目を細めた。
廊下の真ん中が崩れ落ち、まるで適当に切った黒い布が敷かれているように、真っ黒な裂け目が行く手に横たわっていた。
(落ち着け)
ラティラスは自分に言い聞かせた。
(あれぐらいの幅なら跳び越えられるはずだ)
平常心平常心、と心の中で唱える。
燃えているタイマツや剣でジャグリングをするときは、ただの木の棒で練習しているのと同じ大胆さでやるのが大切だ。ひるんで縮こまると、逆に失敗して惨めなことになる。
それに、このヒビ割れはある意味チャンスだ。
大きく息を吸い、思い切り踏み切って跳び上がる。地面を蹴った瞬間、さっき付けられた背中の傷が痛んだ。
両足が対岸の床を踏んだ。その勢いでぱらぱらと小石が裂け目に落ちていく。下をのぞき込むと、下の階の床が見えた。落ちたらどう考えても無事ではすまない高さで、今更ながらゾッとする。
ヒョウの咆哮に、ラティラスは振り返った。もういたぶるのにも飽きたのか、目に不穏な輝きがあった。
人間のラティラスが跳びこえられたのだから、このヒョウには簡単だろう。
ガッと床を爪で掻(か)く音がして、ヒョウは跳び上がった。
ラティラスは足元にあった拳大の石を手に取った。それを思い切りヒョウに向かって投げ付ける。宙にいる以上、ヒョウに避ける術(すべ)はない。石はヒョウの鼻にぶちあたった。ヒョウは大きく仰け反った。前脚は床に触れたが、体勢を崩したせいで体を支えられるほどしっかり着地できていない。
身をよじらせ、空(くう)に噛みついてぶら下ろうとするように顎(あぎと)を開いたまま、ヒョウは落ちていった。
「ああ、あなたが機械でよかった」
背中の痛みに顔をしかめながら、ラティラスは床に落ちたヒョウへ語りかけた。
「生き物じゃないと思えば罪悪感が少なくてすみますから」
拍手の音に、ラティラスは顔を上げた。
「お見事、お見事」
もう顔を隠すつもりもないのか、フィダールが、薄闇の中に立っていた。
「これはこれは、お招きもないのに押し掛けたりして失礼を」
ラティラスは大げさに宮廷風のおじぎをして見せた。
フィダールは黒い筒をラティラスに向けた。
鏡の塔で見た物とは形が違う。どんな効果があるのか分からないが、武器である以上喰らったらただではすまないだろう。フィダールの指が引き金にかかる。
「ちょ、ちょっと待っ」
発射された光線が、廊下の裂け目を広げる。
足元が崩れ、一瞬の浮遊感のあと、ラティラスは落ち始めた。廊下の断面が真上にすっ飛んでいきそうになって、夢中で手をひっかける。体重がかかった腕の筋が痛んだ。
バラバラと瓦礫(がれき)と化した床が下へ落ちていく。下から舞い上がった埃が足先を包む。
ラティラスは床の切れ目にかろうじてぶらさがっていた。
「ほう、助かるとは運がいいな」
フィダールが薄笑いを浮かべる。
フィダールの背後から、チッチッチッと音がした。暗闇の中から、四足のシルエットが浮かび上がる。ヒョウが一、二、三、……十五匹もいるだろうか。横一列に並んで、赤く輝く目でラティラスを見ていた。
「そこで待っていろ、こいつは私が止めをさす」
フィダールは後に控えている忠実なヒョウに行った。
「死ね」
フィダールがラティラスの手に銃をむけた。
「ラティラス!」
リティシアの声がした。
一瞬、恐怖が作り出した幻聴かと思った。最期の最期に、愛する者の声が聞きたいという願望が見せた幻聴かと。
けれどフィダールが驚いたように動きを止めているのを見るとどうやら現実のようだ。
首を捻ってフィダールの視線を追う。
ラティラスの後、彼がぶらさがっているのと裂け目を挾んだ対岸に、彼女が立っている。
どこで調達したのか、弓矢を手にしていた。
その脇にはルイドバード。
「姫様! ルイドバードもご無事でしたか!」
裂け目は、さっきのフィダールの一撃で幅が広がっていて、もう人間が飛び越えることは不可能だ。
「くそっ」
ルイドバードが身分に合わない悪態をつく。
そこからではラティラスを助けられないのを悔しく思ってくれているのだろう。それが
嬉しかった。
「よかったな、ラティラス」
フィダールが淡々と言った。
「自分の死に際を愛しいリティシアに見届けてもらえるのだから」
フィダールは引き金に指をかける。
「ちょ、ちょっと待ってください。取引しましょう」
「取引?」
フィダールは少なからず興味を持ったようだった。
「ここに眠る神々の道具を動かすために、王家の血が必要だった。けれど、リティシア様の血を、そのまま使ってもダメだった。加工すれば使えたようですが……そうですね?」
ラティラスは必死で舌を動かす。
ルイドバードの武器が剣ならば、自分の本来の武器はこの言葉なのだ。人を喜ばせることも、その心を手酷く傷つけることも、惑わすことだってできる言葉。
「動くはずの仕掛けが姫様の血でまともに動かなかったのが不思議だったでしょう?」
フィダールは、しゃべりながらよじ登ろうとするラティラスを手伝いはしなかった物の落としたりもしなかった。
「不思議だとは思いませんでしたか? 神の子孫たるリティシア様が、なぜ神のために作られた武器を使えないのかと」
なんとか這い上がり、床に座り込む。不安定な体勢から体を持ち上げるのは身の軽いラティラスにも結構辛くて、しばらく呼吸を整えた。酸欠状態の頭を使って、必死にフィダールが食い付きそうなホラ話を組み立てる。
襲いかかろうとしたヒョウを、フィダールは身振りで抑えた。
黙っているフィダールに、ラティラスはクックッと喉の奥で笑い声をたてた。何気なくズボンのポケットに触れ、目当ての物が確かに中に入っているのを確かめる。
「こうなってみれば、姫様と一緒に私もさらわれていればよかったですね。 私なら原因をお教えすることができたのに」
「何?」
フィダールは眉をしかめる。
二人の会話を聞きながら、ルイドバードが囁いた。
「リティシア、その弓でフィダールを!」
「ダメだ。フィダールを撃ったとしてもヒョウがいる。むしろフィダールがヒョウを抑えている可能性が高い」
リティシアはキュッと唇を噛み締めた。
「……姫様の血は、半人前なのですよ」
語りながらラティラスはゆっくりと立ち上がった。
「リティシア様には、双子の妹君がおられたのです」
「な! そんなこと私は知らないぞ!」
今まで黙っていたリティシアが初めて焦った声をあげた。
(そりゃ驚くでしょうねえ。ワタシのでっちあげですから)
フィダールはぴくりと肩眉を動かした。ラティラスの言葉が本当かどうか、計りかねているというように。
それとなくラティラスはフィダールに近付いていく。
「リティシア様も知らなくて当然でしょうね。ワタシも王様と大臣様が内密な話をしていたところをたまたま立ち聞きしてしまったわけでして」
チラリとリティシアの顔をのぞき見たラティラスは、またフィダールに視線を戻した。
「その妹君は、産まれつき体が弱かったらしくて。とある村の農民に預けられたんでさ。策謀渦巻く王族達の中で育ち、嫁ぎ先に邪険にされて淋しく死ぬよりも、いっそ農民の子として刺繍でもしてのんびり暮らした方が幸せだろうという父王の御意向で」
手を伸ばせば触れられるほど、ラティラスはフィダールに近付いた。
「まあ、姫様の前であれですが、はっきり言ってしまえば捨てられたんですな」
ポケットに手を突っ込み、猫背のように軽く身を屈め、フィダールの耳に囁く。
「あなたも聞いたことがあるでしょう。双子とは、本来二人で一人、一つの魂を二つに分かち合った者。つまり、その妹君の血と合わせて使ってみれば、あるいは無理に加工したものより神の武器から力を引き出せるかも知れません」
「で、その妹の居場所は?」
「ええ、それは……」
話の途中で、不意にラティラスはポケットの中からハンカチを取り出した。
「そこまで考えてないんです!」
ラティラスはハンカチを首に巻き付けようとする。
「くっ!」
一瞬早く企みに気付いたフィダールが、首に触れたハンカチをつかみ取り、投げ捨てる。だがその行動で、銃を握る手がゆるんだ。
ロープならともかく、首に巻いて力を入れるには短すぎるハンカチで絞殺できるとは思っていない。ラティラスの狙いはまさにこの瞬間だった。
ラティラスはフィダールから銃をもぎ取ろうと掴み掛かった。
フィダールは、ラティラスの背をむけて銃を守る。
ここで引いたらもうスキを突くことはできないだろう。左の腿に痺れが走ったが気にしている余裕はない。フィダールの持っている銃を力づくで奪い取る。
やった、と思った瞬間、払い除けられるように、ラティラスはあっさりと床に転がされた。起き上がろうとして足に激痛が走り、その場に崩れ落ちる。びしゃりと左足がぬるい液体に濡れた。足元に、小さい血溜まりができている。
どうやらもみ合ううちに銃が発射され、左足を掠めたらしい。左足がふともも辺りに、大きな半月状の穴が空いている。焦げ臭い匂いがした。自分の肉が焼ける臭いだと気付いたとき、吐き気に襲われた。
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