第14話 ラゴス

 京子は少し記憶にある様子で、「ああやっぱり」と声に出した。

 状況が読み取れず、吾朗は二人の顔を交互に見比べた。京子はその吾朗の様子を見て、

「まだ、気づかないの」

と言う。

「えっ、どういうこと?」

 年配の女性はますます面白がって笑い出した。

「角田花江さんよ」

 痺れを切らした京子が、そう言った。

「ええっ!」

 吾朗はまじまじと年配の女性の顔を覗き込んだ。歳をとり皺は増えている。しかし、その目や口元に何となく面影がある。

「本当だ。・・・でも、何故」

 京子が思い出したように語った。

「1985年の最後の頃かな、年の瀬ではなくて、わたしがあの時代にいた最後の時に、自分の店も閉めてしまい、巴集団か解散してしまったことで行き場をなくした花江さんを、この家に連れてきたの」

「就職の斡旋ということか」と吾朗。

「わたしは、八〇年代のこの家にも来たことがあったの。人の姿もなく、寂しいものだったわ」

 そこで花江が口を挟んだ。

「時代の流れというのかな、ここは京子ちゃんの息子さんとお婆ちゃん女中ばかりの家になりつつあったわね」

「そう。だから、花江さんがまだいてくれて、よかった」

「延彦さんに会いに来たんですよね」

「まだ、元気ですか」と京子が聞いた。

「ずいぶんと歳を召されたようですけどね」と言って、花江は微笑んだ。

「幾つになったの」

 京子が心配そうに聞いた。

「八十三歳です。でも、まだまだお元気ですよ」

「そう・・・今日は、話せるの」

「ええ。こちらにどうぞ」

 と言うと、花江は先に立って歩いていった。

 広い取次を通り抜け、廊下を奥に進むと縁廊に出た。その先に延彦の書斎があるそうで、花江はその書斎に案内した。

 延彦は大きな肘掛け椅子に座っていた。身体はさらに恰幅が良くなり、今では動かしづらそうに見えた。

 そして、若い母親と老人の息子の取り合わせは、吾朗にとってとても奇妙なものに感じられた。

「延彦」

 それでも、京子は母親らしく息子に声をかけた。延彦は、老人特有の鈍さから反応が薄い。しかし、目の輝きは衰えていなかった。その目が驚きで大きく見開いている。

 延彦は、指差して目の前のソファに座るように指示した。花江が一旦退室し、障子を閉めると、延彦は徐に口を開いた。

「ずっと死んだと思っていました。お母さん」

 京子は戸惑いとも悲しいともつかぬ微笑みで、「あなたにとっては、何十年ぶりかしら」と言う。

「八三歳になりました。六二年ぶりです」

「そうね。あなたが二十一歳のときだったわね」

「はい。今でも昨日のことのように覚えています」

「あのとき話したことも覚えていてくれたようね。ありがとう」

 そこまで黙って聞いていた吾朗は、そこで口を挟んだ。

「何ですか? 何か約束されたのか」

「一九八五年のことよ。女学生だったわたしがこの家を尋ねたの。花江さんを連れて、ね」

 延彦は大きく頷いた。

 そのとき障子が開き、お茶と茶菓子を盆に載せて、花江が入ってきた。延彦は困ったような顔になって花江に言った。

「そういうことは他の者にさせて、ここにいてくれていいんだよ」

「ありがとうございます。でも、他のみんなも年寄りだし、わたしがいない方が話しやすいこともあるでしょう」

 お茶とお菓子を並べながら、花江がそう言った。

「花江さんとの間に隠し事はないよ」

と延彦は応えた。

 そして、しばらく昔話に花が咲いた。衰えたかに見えた延彦も、少しずつ元気を取り戻しているように見えた。何気ない話が尽きかけたときに、延彦の方から吾朗に聞いてきた。

「して、今日の用向きは、世間話ではあるまい。何が望みかね」

「力になって欲しいの」と京子が応えた。

「ほう?」と延彦はため息ともつかぬ声を出した。

 吾朗も何か言おうとしたが、京子の方が先だった。

「この人は今、失業中なの。職を探してもらうというよりは、会社遠起こすのを助けてあげて」

 延彦は改めて吾朗をじっと見た。

「羅村吾朗さん・・・でしたな。若い頃に母から聞いてます。母がいろいろと世話になったそうですな」

「今も、よ」

 延彦は京子の顔を見て、頷く。

「どんな会社ですか」

 と言われると、吾朗も迷ってしまう。

「いや・・・出版社を辞めたばかりで、まだどうしたらいいか」

「警察と学術の世界には、多少顔が利くから、代理店でもやるかね」

「代理店と言いますと・・・」

「イベントをやるのもいいし、タレントをマネジメントするのもありかもな。意外かもしれんがね、警察関係も大学も結構イベントをやってるんだよ。町内会や自治体と組むこともある」

「それいいかも」と京子が賛成する。

「仕事は紹介してやるよ」

「わたしが事務をやってあげる」と京子。

 京子と延彦親子のノリで、吾朗は代理店を始めることになった。カッコよく言えば、エージェントだが、吾朗自身は伝手はない。全て、延彦頼りだ。

 延彦は「任せておけ」と胸を張った。

「名前は何にする?」と京子も楽しそう。

「何でもいいんじゃないかな」と投げやりな吾朗。

「じゃあ・・・」

 京子はちょっと考えて、「ラゴス。羅村吾朗だから、ラとゴを取って、スは複数形」

 会社の名前まで、勝手に決まってしまった。

「それでいい」と延彦も乗り気だ。

 花江までもが、「じゃあ、名刺とかロゴとか、事務所も要るわね」と悪ノリしている。

 延彦が出資してくれることになり、しばらくはこの高辻家の一室を貸すとまで言い出した。寝泊まりする部屋も貸すと言う。しかも儲けが出るまでタダでいいそうだ。信彦にしてみれば、母親である京子が身近にいてくれるだけでも嬉しそうに見える。

 必要なものや日用品をまとめるため、吾朗と京子は、一旦、吾朗のマンションに戻ることにした。その途中で、吾朗が京子に「全て過去の仕込みかい」と聞くと、京子は、

「まさか。だって、わたしはこの時代に始めてきたのよ。何が起きるかなんて、知らないわ。わたしがやったのは、八〇年代に花江さんを延彦に紹介したことだけよ」

「1945年の時は?」

「あなたのことも話したかな。でも、今日のことは知らないから、話せないでしょ」

 確かに京子の言う通りだと、吾朗も納得せざるを得なかった。

 そして、とにかく、吾朗の新会社は船出した。

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