第8話 常巖大学
明治を思わせる大きな校門の前に立つと、吾朗はちょっと気後れした。
まだ道成はいるのか、まさか教授かもしれないなどと、さまざまに思いがよぎったからだ。
校門の中の警備員小屋で、受付をするとき、試しに「道成教授」と書いてみた。
「8号館にいらっしゃいます。教授の印をもらってきてください」
受付の女性は、アポの有無も聞かず、そう言って、A5サイズの紙片を吾朗に渡した。
構内に入ると、そんなに広くはないキャンパスに10位の建物が立っているのが分かった。建物の番号を見ていくと、8号館は枝分かれした道の奥、西の端の方にあった。
授業中なのか、学生の数も少なく、吾朗はのんびりと学内を散策することができた。8号館にたどり着くと、入口は一つ。しかし、受付はなく、館内の案内図が貼ってあった。道成教授の研究室は、最上階である5階の南端だった。
勿論、エレベーターはなく、木造りの階段を吾朗は登っていった。
5階には、中央に通路があって、左右に研究室が並んでいた。研究室に挟まれるように教授室があった。道成教授の部屋は、通路の突き当たり。吾朗は、各研究室を興味深げに覗きながら歩いていった。人の気配はほとんどなく、研究室の表示も「社会現象学」や「事象学」などといった意味不明のものが多かった。
その「事象学」の隣の部屋に「道成教授室」と書いてあった。果たして、あの日に会った道成かどうか不安に思いつつ、吾朗は扉を叩いた。
「はい」と男の声が返ってきた。
「失礼します」と言って、吾朗は部屋の中に入った。
窓際のデスクに、一人の人物が椅子に腰掛けている。その人物が振り返ると、果たして、それは・・・年をとってはいる。が、道成その人だった。
道成は吾朗を見ると、一瞬視線をそらした。しかし、すぐにまじまじと見つめてきた。
「あなたは・・・昔、沼谷署で会った・・・」
それ以上言葉が出ない。というより、名前を忘れていると、吾朗は思った。
「羅村です。羅村吾朗。お久しぶりです」
「そうそう、待ってましたよ」
「本当ですか」
その言葉に吾朗の方が驚かされた。
「あなたにお会いするのは、あれから二度目です」
と言って、道成はにっこりと笑った。本当に嬉しそうだ。それにしても二度目とは・・・と吾朗は不思議に思った。
「あの後、どこかでお会いしましたか」
道成は痛く感じいった様子で、吾朗の顔をまじまじと見つめていた。デスクの上には分厚い原稿が重ねて置いてある。原稿用紙にびっしりと文字が書き込まれている。道成はその原稿に上に片手をおいていた。
「あなたは元の世界に戻ってきたという訳ですね」
「そうです。わたしの現実というより、現在に戻りました」
「それはすごい。あのときのお話は本当だったんですね」
「あなたの、時空並立もね」
「あなたはそうおっしゃったが、先にお聞きしたせいか、どうも自分にはしっくりしない。困ったものです」
「どこかで発表したんでしょう」
「八十年代の論文に書きました。週刊誌の記事にもなってます」
「最初にお話しした記事ですね」
そこで、道成は可笑しさを堪えきれないように、愉快そうに笑った。
「その記事を書いたのは、他でもない、あなたですよ」
「えっ」
吾朗は言葉に詰まった。道成はまだ笑っている。
「あなたはわたしのところに取材に来た。わたしは、最初にあなたから聞いた通りに話した。そのときは、あなたの方こそ、二度目だった」
吾朗は内ポケットの記事を思わず手で押さえた。
「わたしは、八十年代のあなたに会いに行き、この記事を書いたのか」
「まだ経験されてないことですか。でも、事実です。あなたはもう一度あの時代に行かなければならない」
「でも、どうやって」
道成はしばし躊躇した。テーブルの上の木製の黒い箱と手元のタブレットに目を落としている。
「あなたには、もう一度チャンスがある。そして、八十年代いや1985年にいくことになるはずです」
「また、あの白い霧のような現象に出くわすということですか」
「白い霧が鍵ですか」
「それと、何か懐かしい感覚・・・音楽だったり、音だったり、はっきりとはしませんが、子供の頃に経験した何かが聞こえてきたりして、懐かしい感覚になりました」
「そういう場所に行けば、時間を超えられるというわけですね」
「七十年代に行ったときは、神田の辺りで白い霧とそんな感覚に襲われました」
吾朗は、頭の中で整理がついていなかったことを、噛み砕くように話した。
「じゃあ、その過去への入り口がどこで開くかが分かれば、いいんだ」
道成は少し迷いつつも、そう言った。
「そうです。なんか方法はありますか」と吾朗は問うた。
「・・・ない。・・・訳ではない」
「微妙ですね。その言い方」
道成はテーブルの上の黒い木箱を触りつつ、
「昔、戦時中のことだが、旧日本軍がある実験をやっていた。波動に関する実験だったという噂だ。この大学の関係者に知り合いがいてね、振動発生器の仕組みと構造を教えてもらったんだよ」
「作ったんですか」
「工学部の先生に協力してもらって、見よう見まねでね」
吾朗は、さっきから道成が触っている木箱が気になって聞いた。
「それですか」
道成はちょっと照れたように、「そうだね」と答えた。
「それで、過去への入り口が開くんですか」
「まさか、話が飛びすぎだよ。これもいる」
と言うと、道成はタブレットPCを持ち上げた。
「こっちで受信する。白黒だけど、色の濃淡で表示される。色の濃いところが怪しい」
吾朗は急に道が開けた感じがして、すぐにでも稼働して欲しかった。道成は、まだ迷いがある様子で、そうしない。
「今、実演できますか」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。心の準備が要る」
「失敗しても、気にしません」
そこまで急かしても、道成が木箱を起動させるのには、三十分ほどかかった。道成は、木箱の蓋を開けて、中の機器のレバーを押した。複雑に組み合わさった回転体がガタガタと動き始める。音がうるさくなりそうだったので、道成はすぐに蓋を閉めた。木箱の中でくぐもったような音がしている程度になった。よく見ると、木箱の下に足がついており、振動が直接床に伝わらないようになっていた。
道成は、タブレットPCを手にとって、表示されていたソフトの一つを起動させた。同心円がいくつも現れた。
「中心がここ、異常があれば色の濃淡で表示されます」
「移動すると、どうなるんですか」
「中心も移動します。ただ、振動の発生源はこの研究室なので、研究室から遠く離れてしまうと反応しなくなります」
「何か出てますか」
「いや、今のところ何もないですね」
「前回は神田辺りでした」
「ここからはちょっと距離がありますね。少し外を歩いてみますか」
道成はタブレットを持って、吾朗と一緒に研究室を出た。大学の敷地は都内にあるせいか広くはない。江戸時代の大名屋敷跡がそのまま利用されているケースも多いので、ここもそうかと思い、吾朗は道成に聞いた。
「ここは、どちらの大名屋敷跡だったんですか」
「紀前藩と聞いています。譜代でも旗本でもなかったようで、関西地方の小藩だそうです」
道成はタブレットを見ながら、「神田方面に近い方に行ってみましょうか」と言って、歩いていく。八号棟校舎から更に端の方に向かい、雑木林の小道に入って行った。
「ここは、初めてだ」と道成が言って、すぐにタブレットに注目した。
「何か」と、吾朗は聞いた。
「見てください」
道成が指差すタブレットの画面に色の濃い部分が表示されている。
「我々がいるのは、どの辺りですか」
「ここです」
道成が指差すところは、色の濃いところの近くだ。
「どっちに行けば、いいんですか」
道成はちょっと迷ったが、「あっちです」と指差すと走り出した。
吾朗もすぐに後を追う。周りには白いものが増えてきた。吾朗の耳には、幼い頃に聞いた祭囃子の太鼓の音が響いている。「近い」と吾朗は思った。その矢先、先を走っていた道成が急に立ち止まった。吾朗はぶつかりそうになって、横に避けた。
道成の前方には、小さな通用門があった。木造りで、かなり古そうだ。周りは白い霧に覆われてきている。
「どうしたんです」と吾朗が道成に聞いた。
「いや・・・」と口ごもり、道成は立ち尽くしている。
「行きましょう」
「いや、わたしにはその勇気は・・・」と言うと、道成は後ずさった。
「あなたは行ってください。わたしには、まだここでやることがある」と道成は吾朗に言った。
そう言われては、仕方がないと吾朗は思った。もともと捨てるもののない人間は自分だけだ。道成には捨てられないものがあるのだろう。吾朗は、そのまま通用門に向かった。
「どの時代に行くか、分かりませんよ」
道成の言葉が追いかけてくる。
「きっと、1985年です」
吾朗は、通用門を通り抜けた。
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