呼ばう声

「あ〜あ、飲みすぎちゃった〜」

 真夜中のネオンが輝く歓楽街を、ふらふら歩きながら太宰は笑っている。

 酒精の上った頬に当たる夜風はひやりと冷たく、いつの間にか秋が来たのだと告げている。

 今日は敦とくだらないことで口喧嘩になり、むしゃくしゃしたのでとことん飲んでやろうと思って一人でここまで来ていた。

「もう一軒行くかな」

 一人でつぶやいて、雑然とした人混みの中を歩いていく。

「……?」

 ふいに自分の名を呼ぶ声があった気がして、太宰は路地裏の方へ目をやる。

 ――太宰……太宰。

 どこか聞き覚えのある低い声に、太宰は朦朧とした頭の中で答えを導き出す。

「織田作……?」

 相変わらずその声は太宰の名を呼んでいて、太宰はそちらへと歩を進めてしまっていた。

 その昔に織田作は死んだ。この腕の中で息を引き取る瞬間を見届けたのだから、間違いない。だのに、太宰は声のする方へと進む歩みを止めることはできなかった。いつの間にか自分が歓楽街を外れて海辺の方へと来ているのにも気づかず。

「織田作、おださ、」

 ざぶん。太宰の声が途切れたのは、足を踏み外して水の中に落ちたからだ。織田作、と呼ぶ声は水の泡となって消えていく。肺腑の中に空気の代わりに冷たい水が入り込んでくる。

 ――嗚呼、私もここまでかぁ。

 そう思って太宰は静かに目を閉じる。

 思い残すことがないと言ったら嘘になるけれど、悪くない人生だったな。

 しかし、突然なにかに腕を掴まれると、体を抱えられる。なんだろうと思っている間に水の浅い方へと連れて行かれた。

 ざばっ、と水から出て聞こえてきたのは、「太宰さん!」と云う声だった。

「太宰さん! 大丈夫ですか!?」

 敦だった。太宰は地面に手をつくと、その名を呼ぼうとして盛大にむせた。肺の中の水を吐き出してから息を整える間、ずっと敦がその背をさすってくれている。

「あつ、し……くん?」

 すっかり酔いも醒めた太宰は、口の端に笑みを浮かべる。そして天を仰いで大笑いした。その様子を、不安げに敦が見守っている。

 ――酒に飲まれるなんて、私もまだまだだなぁ。

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