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はじめてあの夢をみたのは今から一カ月ほど前のことです。
その日は残業で帰りが深夜になってしまい、家に帰ってすぐベッドに倒れ込むようにして眠ってしまいました。同棲している彼女にはスーツのまま寝るなとよく怒られていたんですが、どうしても眠気に抗うことができなかったんです。
ふと目が覚めると僕は殺風景な部屋の中で一人ぽつんと座っていました。
すぐに夢だと分かりました。
六畳ほどの空間で家具や家電の類は一切なく、床も壁も天井も一面真っ白。ただ左右の壁には、掃き出し窓に掛けるような黄緑色の長いカーテンが掛かっていました。
カーテンは閉じられていたし、わざわざ開けて外を確認することもなかったので、その先に何があるのかは分かりません。
そんな奇妙な空間の中に、黒のボールペンが一本だけ転がっていました。
拾い上げてみると、それは僕の愛用のボールペンだと分かりました。インクの減り具合や傷のつき方まで克明に再現されていて、ずいぶんリアルな夢だなあと我ながら感心したのを覚えています。
夢はそこで終わり、目を覚ますと日が昇っていました。
「またスーツで寝たの?」と顔をしかめる彼女の小言を聞きながら、僕は朝食を食べて会社に向かいました。通勤電車に乗る頃には夢の内容などすっかり忘れていました。
その日の夜も昨日と同じ夢をみました。
真っ白な部屋、黄緑色のカーテン、床に転がっているボールペン、そして僕。昨日と違っている点といえば、ボールペンの隣にテディベアが置いてあったことでしょうか。
それは彼女と遊園地デートに行った時に、彼女からプレゼントされたものです。
その茶色いクマのぬいぐるみを彼女はいたく気に入っていました。ヘッドボードの上に置かれたクマに毎日おはようとおやすみを欠かさず言っていましたし、クマと一緒に自撮りした写真をメールで送ってくることもありました。
持ち主の僕よりも彼女の方がそのクマをかわいがっていました。
ぬいぐるみを抱き上げてみてみると、やはりそれは彼女から貰ったクマでした。ふわふわの毛、少し色褪せた洗濯表示、彼女がクマのために作ったお手製の赤いリボン。毎日見ている物ですから間違えようがありません。
僕は自分の夢の精度の高さに驚きつつ、少し明日の夢が楽しみになりました。だって昨日はボールペン、今日はぬいぐるみ、明日にはいったい何が出てくるか気になるでしょう。
読みかけの小説やゲーム機だったらいいのにな。そんなことを思っているうちに、いつの間にか朝が来て、目覚まし時計が鳴りだしました。
僕は朝食の席で今朝見た夢の話を彼女にしました。きっと彼女も驚くだろうと思って。
だけど彼女の反応は違っていました。
「クマのぬいぐるみって何のこと?」彼女は首を傾げます。
「遊園地に行った時に君がくれたテディベアだよ。それが夢に出てきたんだ」
「…意味わかんない。前の彼女と勘違いしてるんじゃないの」
「だから、あそこに置いてあるクマの──」
僕はそう言ってベッドの方を指差し、そして固まってしまいました。
ヘッドボードに置いていたはずのクマの姿がありません。
あそこには写真立てとテディベアと時計が並んでいたはずです。それなのになぜかテディベアが、不自然な空間の余白を残して消えていました。
「ねえ、気分悪いんだけど」
彼女の棘のある物言いに、僕は思わず口をつぐみました。
昨日までは確かにそこにあったんです。一瞬、彼女がイタズラで隠したのかとも思いましたが、どうもそんな雰囲気ではありません。本当に心当たりがないといった様子なんです。
だけどそんなことあり得るでしょうか。あれほどかわいがっていた存在をたった一晩で忘れてしまうなんて。
僕は慌てて携帯の画像フォルダを漁りました。彼女がクマと自撮りをしている写真があると思ったからです。だけどそんな画像はどこにもありませんでした。
なぜ、どうして。自分の身にいったい何が起こっているのか、わけが分からずしばらく呆然と立ち尽くしていました。それから僕は彼女の冷たい視線から逃げるように家を出ました。
会社にいる間もなんだか気もそぞろで、ささいなミスを連発して上司に怒られてしまいました。
その夜、夢に出てきたのは本棚でした。
僕が好きなサスペンス系の小説と、彼女が集めている少女漫画が並んでいます。
そして朝目が覚めると本棚が無くなっていました。
彼女に聞いてみると、「本棚なんかこの家には無いよ」と言われました。「あなた、昨日からちょっとおかしいわ。具合でも悪いの?」とも。
僕は気がついてしまいました。
あの夢に出てきたものは現実世界から無くなってしまう。それもただ無くなるのではなく、そこに存在していた事実すらも消されてしまうのだということに。
ああ、こんな馬鹿な話があるでしょうか。彼女との大切な思い出や自分の財産が、たった一夜にして綺麗さっぱり消え去ってしまうんです。僕はこれからどうやって生きていけばいいのでしょう。今度は何が夢に出てくるのかとビクビクしながら過ごさなければならないのでしょうか。
だけどどれだけ恐れていようが眠らないわけにはいきません。
その夜、夢の中で目を覚ました僕は「ぎゃっ」と叫び声を上げました。
床の上に友人が仰向けで転がっていたのです。口は半開きで目は閉じられており、眠っているようにも見えました。しかし何度彼の名を呼んでも目を覚ます気配はありません。
死んでいるのだろうか。でも死んでいるという感じはしませんでした。なんというか、死体特有の冷たさというか…、そういったものが一切感じられないんです。まがい物と言えばいいんでしょうか…。
皮膚が妙にぐにゃぐにゃしていて、幼い頃に触ったアゲハチョウの幼虫の手触りを連想しました。
僕は恐ろしくなって部屋の隅で膝を抱えてガタガタ震えていました。
目覚まし時計の音で目を覚ました僕は、真っ先に携帯のアドレス帳を開き、例の友人の名前を探しました。けれど、どこにもありませんでした。共通の知り合いにも聞いてみましたが、そんな男は知らないと一笑に付されてしまいました。
愕然としました。
無くなるのは物だけだと思い込んでいたからです。まさか人間も消えてしまうなんて。
激しい耳鳴りと吐き気に襲われ、僕はトイレに駆け込み嘔吐しました。心臓が早鐘を打ち指先は氷のように冷たくなっていました。
僕のせいで友人が消えた。僕があんな夢をみたから。酸っぱい胃液に涙をにじませながら、何度も何度も友人に詫びました。
それ以来僕はノイローゼになってしまい、布団に入ることが怖くなりました。心配してくれる彼女にまさかこんな荒唐無稽な話ができるわけもなく、一人夢に怯える日々を過ごしていました。
毎夜毎夜、家の中のものが一つずつ消えていき、代わりに夢の中の部屋は一つずつもので満たされていきました。
けれど部屋にものが増えていくからと言って、快適になるというわけではありません。乱雑に無秩序に部屋の中に詰め込まれていくのです。
ベッドの上にテーブルが置かれ、その上には例の友人が仰向けに横たわっています。横倒しになった本棚に覆いかぶさるように置かれている虚ろな父の姿。天井を向いて倒れているクローゼットの中には、ぐちゃぐちゃの洋服と身体を丸めた母が詰め込まれているのです。
不思議なのは、どれだけ物が減っても彼女が不審に思う素振りを見せなかったことです。ベッドやクローゼットがないなんて不便極まりないでしょう。ところが彼女はそれがさも当たり前のことであるかのように、愚痴ひとつ漏らさずに生活しているのです。
それがなんだか空恐ろしく、現実世界でも夢の世界でも心が休まることがありませんでした。
もう限界でした。はやくこの地獄から解放されたい、その一心でした。
そしてある夜、ついに僕が最も恐れていたことが起こってしまったのです。
夢の中で目を覚ますと目の前に誰かが立っていました。
俯いていたので足元しか見えませんでしたが、すぐに分かりました。彼女です。
ああ、その時の僕の絶望といったら…。
「顔を上げて」
彼女が優しい声で言います。
僕は頭を振りました。だってそんなことをすれば、彼女が夢の中に出て来たことを認めてしまうみたいじゃないですか。僕は膝に顔をうずめ子供のように泣きじゃくりました。
その間にも彼女は優しい声で僕に語りかけていました。
「私を見て。顔を上げて私を見て。私を見て。私を見て」
目を覚ますと彼女の姿はありませんでした。
朝日が差し込む、殺風景でがらんとした部屋の中には、ぼろぼろと涙を流している僕と、姿見だけしかありませんでした。
──姿見。
夢の中にあったクローゼットの内側には、本来ついていたはずの鏡がなぜか外されていました。思い返してみるとあの部屋には鏡がどこにも無かったのです。
そして彼女が言っていた、私を見てという言葉。
その時、僕の頭の中にある考えが閃きました。
僕はその夜、とある計画を実行しました。夢の中で目を覚ますや否や、ぎゅっと目を瞑ったのです。なにも視界に入れないように。
僕は目を閉じたまま、そろりそろりと手を床の上に這わせ、周囲の状況を確認しました。硬い床、テディベア、そして指先にぐにゃりとした生温い芋虫のような感触が伝わってきました。おそらく彼女でしょう。昨日と同じ位置に立ち「私を見て私を見て」と言っています。
僕に覆いかぶさるように身体をくの字に曲げ、虚ろな顔で同じ言葉を連呼する彼女の姿が脳裏に浮かび、ぞっと肌が粟立つのを感じました。
僕は自分の手を彼女の右側に移動させていきました。と、指先が薄い板のような物に触れました。
間違いありません。姿見が僕の方に向けられているのです。
僕はそのことを確認すると、なにも視界に入れないよう固く目を瞑り、夢が終わるのを待ちました。
翌朝、目を覚ますと姿見は昨日と変わらず部屋の中にありました。あの夢に出てきたにも関わらず、消えなかったのです。
やはりそうか…。
僕は今まで、あの夢に出てきたものは例外なく現実世界から消えてしまうのだと思っていました。けれどそうではなかったのです。
実際は
“あの夢に出てきて、かつ僕の視界に入ったものが現実世界から消えてしまう”
ということだったのです。だから姿見は消えなかったのです。僕が視界に入れなかったから。
きっと昨日の夢の中であの姿見を見ていれば、同時にそこに映った自分の姿も見ることになりますから、僕は現実世界からいなくなっていたでしょう。
僕はようやくあの夢の法則に気がつくことができたのです。
だけど遅すぎました。
友人も彼女も両親も、何もかもが夢の世界へと行ってしまいました。僕にはもう何も残されていないんです。
僕は眠りにつくのが本当に怖い。
あの夢は僕から全てを奪った後、最後の仕上げとして僕に鏡を見せる魂胆なのでしょう。
夢の中で左右の壁にかかっていたカーテンは、今や完全に開け放たれています。横目で確認しただけなので細部は分かりませんが、大きなはめ殺しの窓があり、その向こうには深い闇が広がっています。窓にくっきりと僕の姿が映りそうなほどの黒い闇が。
両親、友人、彼女は僕をぐるりと取り囲み抑揚のない声で「私を見て私を見て」としきりに訴えかけてきます。
そんなこと出来るはずがありません。
彼らの瞳に映る自分の姿を見たが最期、僕はこの世界から消え去ってしまうのです。あの恐ろしい夢の世界へと…。
彼らは毎晩毎晩、僕を夢の世界へと誘うのです。
僕はもう彼らの名前すら思い出すことができないのに……。
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