紅い猪
――魔法探知を切ってたせいで全然気づかなかった。ヤバイ!
フィセラはいまだ座ったまま、背後にいる魔獣の気配を感じながら自身の油断を後悔していた。
首を少しも動かさずに後ろを見ようとするが魔獣の体毛が視界の端に移るだけ。
最初に気づいたフランクも、魔獣を刺激しないように体を動かさない。
彼の腰にはナイフが、背後の木には弓矢が置いてあるが、それに手を伸ばすことはしない。
賢明な判断から来る行動ではないだろう。
この魔獣を正面から見てしまった今、彼はどんな抵抗も意味をなさないことを悟ってしまったのだ。
幸運にもソフィーは木の影に入っていて互いに気づいていなかったのだが、フランクの態度と視線に気づき、後ろを見てしまった。
そこで彼女の時は止まった。
死んだわけではない。
彼女が少しでも森や獣に慣れていれば、何らかのアクションを不意にしてしまっただろう。
だが、何も知らない少女は少しの悲鳴も出さずに硬直した。
魔獣の視界から外れているソフィーがどうにか伸ばした手は、フィセラの服に触れた。
「おね……え……ちゃん」
消え入りそうな声をフィセラと魔獣が耳にする。
最初に反応したのは、フィセラだ。
フィセラはソフィーの手を優しく離しながら、ゆっくりと立ち上がる。
魔獣など気にしていないかのように軽やかに振り返った。
「おお、デカッ。……猪かな?」
覚悟を決めたつもりだったが、思ったよりも巨大だった。
すぐに猪だと断定できなかったのは、想像以上の大きさとあまりに発達した牙を見たことで、彼女の頭の中にある猪と姿が一致しなかったからだ。
牙からゾウを連想したのも無理がないほどの体躯だ。
――こりゃ、今のままじゃ止められないな。……変えなきゃ。
フィセラの現在の職業はレンジャー。
もちろん、このジョブでも戦闘は可能だ。
猪ごときに能力値が劣ることはないだろうが、今にも突進してきそうな魔獣への対応としては、レンジャーでは回避しかできない。
それは最適ではない。
フィセラが避ければソフィーやフランクに向かって突進してしまう可能性がある。
それはダメだ。
この魔獣は明らかに後ろの二人がどうにかできるレベルを超えている。
だからこそ、ここで止める必要があるとフィセラは判断した。
つまり。
――これ以上は、一歩も近づけさせない。
<転職・重戦士>
猪のような姿をした魔獣に名前はない。固有名はなく、種族名もない。
この魔獣は普段、冒険者も来ないほどのアゾク大森林奥地で生きているため、人間に発見されることがなかった。当然、人間に名付けられることもなかったのだ。(フランクが後に、赤みがかった茶色の毛並みからレッドボアと名付けることとなる)
通常、森林の奥にある大山の麓を生息域とするレッドボアが浅層まで来ていたのは、白銀竜の気配から逃れるためであった。
本能からの行動だ。
高い知能や誇りを持つわけではないため、「逃走」に思うことはない。
それよりも、この状況に満足していた。
それは、森の浅層にエサが豊富にあったからだ。
浅層にいる魔獣の倍以上のレベルであるレッドボアからすれば、ここは楽園だったのだ。
この日も腹を満たすため森を歩いていると見たことのない獣がいた。
静かに後をつけていたのだがその獣たちが足を止めた時、良い匂いを発し始めた。
つい食欲を抑えられず、観察をやめて近づいてしまったのだ。
だが、レッドボアが彼女らの目前まで迫って足を止めたのには別の理由がある。
魔獣の本能が、獣たちを恐れたのだ。
正確には、その内の一体を。
特別な動きなどしていない。恐れるような牙や爪を持っている訳でもない。
なのに、本能が足を止めていた。
観察すればするほど、標的の姿をとらえられなくなる。
まるで、この森にいるのが当たり前かのように少しずつに森の沈んでいくようだ。
フィセラのレンジャーの職能が、彼女を森に溶けこませていた。
敵意を持って近づいたことでその力がより強く発揮されたのだ。
元々目の悪いレッドボアの視界がゆがむ。
そいつが立ち上がり顔を見せる。
レッドボアは何もせず困惑した頭でそこに立ち尽くしていた。
数瞬後、フィセラがレンジャーから重戦士に転職するまで。
気配が変わった。
さっきまで捉えづらかった姿が、確かな圧迫感を伴いながら、大きく膨れ上がる。
まるで気配の爆発だ。
その瞬間レッドボアは全身の筋肉を連動させて、前へと踏み出した。
「こい」
フィセラは魔獣の一瞬の踏み込みを見逃さず、すぐさま突進を受け止めるため、構えた。
両の手を前に突き出し、ものすごい勢いで迫る牙を捕まえる。
ドンッ、と互いの踏み込みの音と牙をつかんだ音が混じり、音の衝撃が森に広がる。
フランクはフィセラの後ろでしりもちをついた。フィセラの背中、というより、背中の向こうにある何倍も大きい魔獣の顔を見ながら目の前の光景を信じられずにいた。
ソフィーはさらに信じられないものを見ていた。
フランクとは違い、一人と一匹の衝突を横から見たことで、よりはっきりと力の差を知ってしまったのだ。
フィセラがほんの少しも微動だにせず、巨体から繰り出される突進を華奢な体で止めた。
フィセラの足は地面に少し沈んでいるが、それは自身の踏み込みによるものであり、1ミリだろうと後ろに押された跡はそこにはなかった。
魔獣は足を前に前にと動かすがその場で地面をすべるだけで、フィセラが後退することはなかった。
――えーと、ここからどうすればいいのかな?こういう時はモンスターを止めてる間に味方が横から叩くがセオリーだけど……それは無理か。
フィセラは視線だけを動かして周りの二人を確認する。
その後、背後を素早く見る。フィセラの背後にいるフランクのもっと後ろだ。
ちょうど良い空間が開いていた。
「よし」
フィセラは牙を正面から掴んでいたが、持ち方を素早く変える。手首を回し牙を下から掴んだ。
すると、魔獣の足が動くことで出来ていた地面を擦る音が徐々に小さくなっていく。
代わりにミシミシという音が大きくなった。まるで大木が折れ曲がるような音だ。
フィセラが魔獣の牙を支点に巨体を持ち上げようとしていたのだ。
あまりの重さに2本の牙はきしみ出すが、その頑丈さが仇となり牙は折れることは無かった。
ゆっくりと、足が地面から1本2本と離れていく。
自分の状態を理解した魔獣があたりを震わせるほどの鳴き声を上げるが、フィセラの大気を割る咆哮がそれをかき消した。
「重、いん、だよ!クソがー!」
4トンを超える巨体が宙を飛び、魔獣はフィセラに投げ飛ばされた。
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