新訳 麟衣伝
@yzkzk
新訳 麟衣伝
魯国の君主は
民衆の間に魯国西方にて麒麟を見た者があるとの噂が広がった。
ときに哀公、即位して十余年。この間、内政をよく治め、小国なれど、大国、楚と伯仲わたりあってきた。瑞獣、麒麟は天下を治める覇の兆し。重臣、
部下が探したところ
謁見して鉏商が言うには、西方の辺境、大野沢の近くの山奥で狩りをしていたところ、捕らえた獣が見たこともない姿かたちであった。体躯は優に一丈を超え、馬のようないでたちながら牡鹿のような角があり、全身は五色の体毛で覆われていた。
獣は捕らえたのち、すぐに衰弱して死んでしまった。はじめは気味が悪かったが、学ある者に尋ねたところ、それは麒麟に間違いないという。
麒麟は君子たる仁厚い人物か、信義に堅い忠臣の前にしか姿を現さない。自分は君子の器ではないことは明らかなので、これは自分にこの群雄の覇者たる人物に忠に仕えよとの報せだと分かった。
はじめ西の栄国の景公に仕えようと登城したが、景公は鉏商を認めず、召し抱えられるに
哀公以下、その場にいた者たちはこの口上に大いに喜び、鉏商を歓待すること盛大であった。
宴、
武叔は感心し哀公に献上するよう伝えた。
鉏商が箱を開けて、恭しくその箱を哀公に糸を献上すると、果たして武叔の目には空の箱にしか見えない。
武叔が訝しがって見ていると、鉏商は哀公に奏上するに、
「君が真の天子であり、その臣下が真の忠君であれば、この五色に輝き、絹のよりも滑らかな麒麟の糸が見えないということはないでしょう。
栄国においては景公麾下全員がこの糸を見ることできず私を追い返してしまった。私は景公が天子たりえないと失望していたところです。どうか魯国では君は仁にて、臣は忠であってほしい。なにとぞ私をこれ以上、失望させないでください」と。
一瞬の沈黙ののち、一人の宦官が「実に素晴らしき糸なり」と言う。続いて哀公、臣下を見渡し小さく頷いた。すると脇にひかえた臣下たちは堰を切って「このような美しい糸は初めて見ました」「麗しきこと、貴婦の肌にも優るでしょう」と口々にその糸を称賛した。
——ただ一人、武叔だけが眼前の光景を認めることできず、驚いたまま一言も声を発しない。ふと我に返ると、周りが不審な目で武叔を見ている。武叔はなんとか「あまりのことに言葉すら失っておりました」とだけ、掠れた声で答えた。
鉏商は満足そうに頷くと、続けて「我が故郷に機織りの名手がおりますので、この糸で布を織り、上衣と
哀公はこれに応じて機織りの部屋を与え、必要なものがあれば与えるよう臣下に命じた。
翌日より鉏商はすぐさま部屋に機織り台を二つ並べ、故郷より職人を呼び寄せ仕事にとりかかった。職人たちは昼夜を問わず機を動かし、鉏商は金糸やさまざまな色の絹を持ってくるよう頼んできた。
どれだけ多くの金糸や絹を与えても、不思議と数日のうちに鉏商はまた次の材料を求めにくる。気になった哀公は機織りの様子を窺うため臣下を差し向けた。
或る日、命により鉏商のもとを宦官が訪れると、職人たちは
鉏商は宦官に言う。
「今まさに麒麟の糸を織っております。五色の輝きは実に霊妙で、夜には光なくともほんのりと糸が輝き、昼夜を通して機織ることができます」
また
「金糸や絹は麒麟の糸と編み込むと輝きが増し、出来上がった布は
と言う。
宦官は少しも表情を動かさず
「織られた生地は糸のときにも増して素晴らしき色彩であることか。実に結構なこと」
と言い、哀公には順調に布が織られている旨を告げた。
またしばらくして、命により丞相が訪れると、職人たちは虚空に向かって針を動かしている。
丞相が、はて、これは何をしているのか、と不思議に訝しがると、鉏商は紅潮した顔で丞相に事細かに説明する。
「よく来ていただきました。冕服の作成はまさに佳境、織りあがった生地を断ち、上衣と裳に仕立てました。今は出来上がった上衣に十二章の文様の刺繍をしております。上衣には日、月、星、山、龍、雉を、また裳には酒器、藻、火、粉米、斧、
公が天下を治めた際にお召しいただくにも相応しく、また魯国永代の君主に継がれるに相応しいものができるかと自負しております」
丞相が帰るに際して、鉏商はいくつかの碧玉を求めた。刺繍のために必要だと言う。鉏商がその図案を説明しようとすると丞相はそれを遮りすぐに承知した。鉏商の説明を忘れないうちに、一刻も早く戻って正確に哀公に伝えるためであった。
さらに幾月か過ぎた秋のころ、鉏商は哀公に謁見して奏上するに
「ついに冕服が完成するに至り、今日はそれを献上しに参りました」と。
後ろの台を指し示し
「麒麟の毛糸からできた衣、さしずめ麟衣とでも申しましょうか。どうかお気に召すと良いのですが」
と言いながら、台から「麟衣」を持ち上げて差し出す。
しかし周りの宦官・丞相に麟衣は視えず、その眼に映るは、ただ鉏商が中空をつまんで持ち上げるのみである。
鉏商が続ける。
「よろしければ、お試しいただけますでしょうか。麟衣は雲のように軽く、また絹よりも滑らかなれば、着付けすら難しいかと存じ上げますので、どうか私どもにお手伝いをさせていただければ」と。
哀公これに従い、鉏商らとともに控え行きて、その衣を麟衣に替えて、纏って玉座につく。
不可思議な事象に、動揺とも狼狽とも取れぬ表情を何とか隠そうと必死になっている臣下の中、鉏商のみが
「居住まいの荘厳なること開祖周公旦の如し。佇まいの高貴なること三皇五帝にも勝るとも劣らず」
と哀公の姿を
途端、配下の者々も後に続いてその装いを称賛する。
ひとしきりの巧言令色の後、哀公は「我が装いはどうであろうか」と武叔に問うた。
武叔にもまた麟衣は見えなかった。しかし武叔は
「流麗なること、まさしく天子たる君にふさわしいお召し物かと」と応えた。
そこで初めて満足げに哀公が頷くと、数日後にひかえる祖王霊廟での祭祀にて麟衣を纏って行軍する旨を
その晩、武叔は苦悶した。
武叔は
なぜ自分には麟衣が見えぬのか。鉏商が現れてから自問し続けた己の心の片隅に、ふっと過去の傷が浮かび上がってきたのはつい先日のことであった。
先王の昭公のころになるが、武叔は先王の愛妾と密かに通じていた。先王が
今の今まで重大な不忠をはたらきながら、それを忘れて自らを忠臣だと自負するなどと、俺は何と滑稽な——。
いっそ俺はあの場で麟衣が視えないことを正直に告白するべきであったのだ。そうすれば公からは失望をもって蔑まれ、丞相や宦官たちからは嘲笑われるであろう。しかし、
しかし、今になってはすべてがもう遅い。鉏商の言が真なれば麟衣の見えぬ自分は忠ならず、鉏商の言が偽なれば公の面前で嘘を吐いた自分はやはり忠臣ではないのだ。
もはや麟衣の真偽に関係なく己は
暁、雄鶏が朝を告げる鳴声をあげるとともに、武叔は出奔した。
祭祀の朝。多くの民衆が麟衣の噂を聞きつけ、行進を一目見ようと曲阜の城下に集まった。
臣下はその数、千を超え、各々身分に沿った礼服を纏うこと、丞相は
哀公は鉏商により麟衣を纏うと、
はじめ民衆は哀公の姿を認めると、その身が何も纏わぬように見えることに驚いたが、「麟衣、愚者には視えず」という臣下たちの言を思い出すと、咄嗟に取り繕い、口々にその衣装を称える。
ある一人が、近くまで来た哀公を見て言う「実に美しい裳の
哀公の顔が翳った。
すぐさま横にいた馬飼いが「白痴なる子の言なれば」と子を曳きつつ叫ぶも、民衆の合間に子供の問いが感冒の如く伝え染まる。
次第に「哀公、裸なり」と言う声が大きくなっていき、民衆は哀公の姿に笑い出した。丞相、宦官は慌てて従者に天蓋を低く下げさせ、哀公を隠そうと必死になったが無駄であった。
もはや民衆も臣下も誰も彼も哀公が麟衣を纏っているという
否、群衆から少し外れた場所からそれを見つめる老人ただ一人だけが違っていた。
孔子仲尼であった。長年の諸国遊説を終え、齢七十、従心に達しようかというころに故郷魯国に帰ってきた孔子は、祖国復興に向け君主への指南を説いた書の執筆に取り掛かっていた。
遊説の傍ら蒐集した記録をもとに、魯国隠公の時代からの歴史と自らの思想をまとめあげた書——その名『春秋』、の第一編が完成し、献上のために曲阜を訪れていた。その折の騒ぎであった。
民衆が口々に哀公の愚なるを嗤う中、厳しい貌の孔子の目は哀公だけを捉えていた。——艶やかな黒地と五色の筋糸が静かな輝きを放つ上衣に、紅梅のような淡い
その時、遠く哀公が俥上から見渡した視線が孔子と交錯した。孔子がその眼光を認めると、群衆のざわめぎは久遠に去り、幾重もの人垣は波のように引いた。
群衆の中、孔子はただ哀公一人だけと対峙しているかに覚えた。そしてまた、哀公もそのように感じていることを見取った。
孔子は哀公の悲哀を悟った。
戦国の覇者足りえる器を持ちえながら、まわりには忠ある臣も、礼ある民もいない。ただ一人、信厚かった武叔すらも失った哀公は天子という器をして空のままその生涯を終えることに絶望し、覇者なるべき機を失った魯国がこの先に興ることはないことに諦念していた。
麒麟は現世に顕現するも、その聖なるを知られることなく、
虚しく射られ、毟られ衣となった。
哀公も同じく、天下降臨するも、その仁なるを知られることなく、
衆は愚にして、嘲笑われの道化となっていた。
城下広けれど、善人、哀公がただあるのみ。
気がつくとすでに行軍は遥か一里の先に進み、あれほど騒めいていた民衆も三々五々散っていた。
孔子といえど、麒麟に見初められしほどの天子に指南できることは何もなく、また天子に指南できたとして衆愚魯国に何ができるだろうか?
もはや次編のために筆を執る気力も失った孔子は、手元の『春秋』第一編を城に送るよう従者にことづけると、謁見することなくただ静かに都を去った。
後の学者は言う。
「まさしくこの時をもって干支の暦四巡にも及んだ春秋の時代は幕を閉じた」と。
天は魯国を見捨て、統治の機を逸した世は再びの長い戦乱につく。
時に晩秋、金性が満ちた庚申の年なれば、殊更に風が冷たい。広い曲阜の街を駆け抜ける風に押され、早くも陽は西方の山々に向かい陰り始めていた。
哀公だけがただ一人、深く彫り込まれた相貌で行進を続ける。
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