第6話 お持ち帰りのその後に

―――……っ……?


首筋に、擽ったさを感じた。


何かぬめりを帯びた柔らかいモノが、肌の上を滑っている。


それはうなじ付近から喉元、鎖骨を辿り、胸元まで擽る様に悪戯に滑り降りていく。


かと思えば、小さな痛みを感じる程強く吸われて、その刺激で身体がびくりと跳ね上がった。


「んっ、ふぁっ……」


擽ったさに思わず声が出て、ぼんやりとした意識が徐々に浮上していくのを感じる。


な、に――?


不快では無い不思議な感覚に、身じろぎをした。しかしその途端、肌の上にあった感触が突然ふっと姿を消していく。


同時に聞こえる、くすりと小さな笑い声。


「……そろそろ、まずいかな」


どこか聞き覚えのある声がしたかと思えば、頬にそっと優しい感触が添えられた。


温かさについ顔を摺り寄せると、先程した囁く様な声が嬉しそうに綻んだ。


「名残惜しいけど……まだ、駄目ですね。まだ……」


頬に添えられていた手が、さらりと肌を人撫でして離れていく。

それをなぜか寂しいと感じて、追い掛ける様に瞼がすうと上がっていった。


待って、と無意識に口は動いて、けれど声にはなっていなくて。


開いた瞳にややぼんやりとした景色が映し出される。白く霞がかった視界が、ゆっくりと鮮明になっていく。


「あ、れ……?」


目覚めると、そこは見覚えの無い場所だった。


初めて目にする天井。私の部屋ではない。


……どこ。ここ。


「おはようございます」


横から突然響いた声に振り向けば、嬉し気な、まるで蕩ける様な笑顔が間近にあった。


……って。


え? あれ?


嘘?! 何で?!


「み、宮野君っ!?」


「はい。俺です。中原さんおはようございます」


満面の笑みで返事を返されて、思わず固まる。


なぜ。隣に宮野君が?


いやそれ以前に、ここはどこ。私は一体どうして……。


昨日は確か、宮野君と一緒に眼鏡を買いに行って、帰りに居酒屋さんへ寄って……。


そこまでを慌ただしく思い出したところで、固まった頭が悲鳴一色に塗りつぶされた。


「ってええええ!?」


私の声に、宮野君があははと軽く笑い声を零す。って笑ってる場合では無いと思うのは私だけなんだろうか。

後輩と飲みに行って、気が付いたら朝だった。と、言う事は―――


嫌な予感が、胸を過ぎる。と同時に飛び起きた。あ、やっぱりベッドの上だった、なんてことを思いつつ。


「きっ、きのっきのっ昨日……っ!」


声になっていない声で問うと、何が楽しいのか宮野君はにこーっとゆっくり微笑んだ。


ってさっきからずっと笑顔なのはなぜ。どうして。


「……昨日の中原さん、すっげえ色っぽくて、俺かなりやばかったです」


彼は照れたようにそう言って・・・・・って嘘でしょ!?


ちょっと待って!


やったの!? やってないのどっちなのっ!?


はくはくと口を開閉させている私に、宮野君は「そろそろ時間、やばいですよ?」と細めた瞳のまま時計を差した。


針が示す時間を目にしたところで、今考えていた最大の疑問が呆気なく明後日の方向へと飛んでいく。


ち、遅刻する!


ばさりと思いきり布団を捲り上げてベッドから飛び出そうとしたところで、自分が昨日と同じ服装だった事に気が付く。


あれ、服着てる。っていうか時間、じゃなくて、服着てるって事は・・・ってあああそれよりも今は時間がっ。


「すみません。嘘です。大丈夫ですよ、俺の部屋からなら会社まで十五分あれば着きますし」


「……へ?」


目が点状態の私の前で、宮野君が楽しくてしょうがないと言った風にくすくす笑い声を零す。


……嘘?

あ、そういえば、宮野君のマンションって会社から近かったんだっけ。


以前会社で話した話題を思い出し、焦りが消えると同時にほっとした。


良かった遅刻じゃなくて……ってそうじゃなく。


揶揄われた事に気がついて、私は今だ笑ったままの宮野君をジト目で睨みつけた。


「……ちょっと宮野君」


「何も無かったですよ。だからそんな顔しないで下さい」


私が問い詰めようとした寸前、そうやって答えを披露され、一瞬呆気にとられてしまった。


って、そんな顔ってどんな顔よ。


突っ込みを入れたくなるのをなんとか堪える。

すると宮野君はおどけたように肩を竦めて、なぜか仕方なさげに笑って見せた。


「中原さん、テーブルに突っ伏したまま眠り込んでたんですよ? 送ろうにも家がわからないし、答えてもらおうにも熟睡してましたし。仕方ないので、俺ん家に泊まってもらったんです」


「え、あ……」


意識を手放す少し前の事を思い出し、羞恥と申し訳なさとで顔が熱くなるのが判った。


……ああそうだ。私、寝ちゃったんだ。あの時。お酒に酔って。


宮野君の格好良い眼鏡姿に、酔っ払って。


「ご、ごごごごごめん……っ!」


後輩男子に醜態をさらし、かつその後の面倒まで見させてしまった事に穴があったら入りたい気分になった。

ぐわわと上がる熱を見られない様、顔を伏せて羞恥に耐える。


もう、何やってるんだろう私っ。酔いつぶれて寝ちゃうなんて、ここ何年も無かった事なのに……っ。


昨晩の自分を内心詰ってみるけれど、まさしく後の祭りというのはこういう事だ。


本当に、馬鹿っ。昨日の私っ。


「いえいえ。すごく可愛かったですよ。昨日の中原さん。……また、付き合ってくださいね?」


伏せた私の顔を、横から覗き込んだ宮野君が満面の笑顔でそう言った。


嬉しそうな焦げ茶色の瞳が普段よりもかなり近い。


ああ、やっぱり綺麗な顔をしているな、と思ったところで―――今更ながら気がついた。


宮野君が掛けている眼鏡が、昨日私が選んだ物だという事に。


「……っ」


起きた直後のパニックで、意識が眼鏡から吹き飛んでいた。


だけど、今間近に迫った顔と、眼鏡越しに見えた彼の瞳に心臓が盛大に反応して、耳まで熱が駆けあがる。


「も、もう絶対行かない……っ!!」


苦し紛れに言った返事に、宮野君はどうしてか、嬉しくてしょうがないみたいに破顔した―――

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オシャレ眼鏡がいけ好かない 国樹田 樹 @kunikida_ituki

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