第4話 眼鏡授与式

「私色々言ったけど……宮野君はちゃんと満足できる買い物だったの?」


「全然大丈夫です! と、いうか自分でもすごい良いの選んでもらえたなって。こんな大満足な買い物初めてですよ。俺、いつも適当なんで」


そう言いながら、彼は手にしたビールジョッキを傾けた。


上下する喉に、つい目が行きそうになるのをそっと堪える。年下相手に何を意識してるのかと思うけれど、場所柄仕方ないのかもしれないと心の内で溜息を吐いた。


「……そう、なら良かったわ」


今私達は、眼鏡ショップを出て少し離れた所にある居酒屋さんに居た。


元々仕事上りに眼鏡ショップに立ち寄ったので、お店を出た頃には結構な時間になっており、宮野君からの提案でご飯を一緒にする事になったのだ。


普段の私なら宮野君からの誘いは断っている。日毎増える彼のファンを敵に回したいとは思わないし、正直年齢差も気になっていた。


だけど今日だけはどうにも断りにくかった。


何しろ彼が眼鏡を買い代える事になったのも、元はと言えば私の失言が原因だ。いくら宮野君本人の希望だと言っても、私が何も告げなければ

彼が今日散財する事も無かったわけで。


しかし眼鏡代を出すという私の提案は断固拒否され、その代替案として告げられたのが、「一杯付き合って下さい。」というものだった。


私の希望で個室に入らせてもらったけれど、今になってこれは失敗だったと心で唸る。


なんだか近いのだ。ここのお店自体がこじんまりしているせいか、個室も少々狭い作りになっているのだろう。


「中原さんとの記念すべき初呑みですねっ。今度は飯もお願いしますっ」


「却下で」


「酷っ」


他愛も無いやり取りに、思わず笑みが零れる。普通に話す分には、宮野君はとても楽しい後輩だ。

礼儀はちゃんとわきまえているし、人当たりも良く頭の回転も早い。


春に入社したばかりだと言うのに、6月を迎えた現在、先が楽しみだと先輩社員の多くから注目視されている。

私自身も、彼には結構期待しているのだ。


だからこそ、毎日掛けてくる眼鏡が残念でならなかった。もっとビジネス向けの者に代えた方が、印象も良くなるし今後の為にも良いと思ったのだ。


……でも良かった。宮野君楽しそうだし。買い物も満足したみたいだし。


ガヤついた喧噪が響く中、小さな空間には私と宮野君の二人だけ。


スーツのジャケットを脱いで、シャツの襟元を少し緩めた宮野君は、何が楽しいのかにこにこと機嫌良さげで。

こっちは妙に意識してしまって、お酒を楽しむどころでは無いというのに。いい気なものだと嘆息する。


結婚適齢期真っ只中、むしろ過ぎかけてすらいる私にとっては、五つも下の後輩男子は目に毒だ。


今の宮野君は、今日の朝かけてきていた眼鏡に戻っているから、むしろトーンダウンするべきなのに、なぜにこうも気持ちが浮つくのか。


……原因は、たぶん眼鏡ショップでの宮野君の試着姿が格好良かったからだろう。


うん。正直言って似合い過ぎてた。


シンプルな方が男ぶりが上がって良いだろうなとは思ったけど、油断するとときめいてしまう位には、格好良かった。


宮野君は元々綺麗な顔立ちをしているのだ。濃すぎず、薄すぎず、地毛らしい色素の薄い髪のせいか優しげな印象ではあるけれど、そこにキリっとしたタイプのフレームを合わせると、雰囲気が引き締まって男性らしい精悍さが前に出る。


さっきの試着姿、本当に格好良かったなー……とちびちびグラスを傾けながら思い出していると、目の前の宮野君が「あ、そうだ」と言って脱いだジャケットの隣に置いていたショップ袋に手を伸ばした。


黒い革製の眼鏡ケースを取り出すと、おもむろに、私の前へと差し出す。


―――ん?


彼の動作に首を傾げながら見返すと、思いもよらない言葉が飛び出した。


「かけてくれませんか」


「……へ?」


そう言われて、一瞬戸惑った。


なんか今かけてくれって言われた気が。かけるって……ビール?


いや違うか。ビールじゃないとしたら……もしかしなくても目の前に掲げられてるその眼鏡様の事でしょうか。


宮野君は戸惑う私の反応にかまわず、眼鏡ケースをこちらに向けてパカっと開く。


そこには今日購入したばかりの真新しい眼鏡がお行儀よく収まっている。これは私がダントツでお勧めした国内老舗眼鏡ブランドの物だ。

その上品で無駄のないデザインに、思わず感嘆の溜息が出そうになった。


やっぱり素敵だわ。これ。


……ってそうじゃなくてっ。


相変わらずニコニコと機嫌良さげな笑みを浮かべたままの宮野君と、その眼鏡を交互に見比べた。


「お願いします」


「え……でも……」


唐突な願いに、戸惑いと正直に言えば期待感の様なものが入り混じった。


―――普通の人なら、そのくらい自分ですれば、なんて言うんだろう。


だけど私は―――眼鏡がとにかく、大好きなのだ。


考えてみてほしい。

見た目良し、性格良しの後輩男子に、あろうことか大好物の、しかも自分にとってどストライクの眼鏡を、本人から掛けてくれと請われたら。


しかもここは個室である。


誰の目を憚る事も無いわけで。


となると―――。


……こ、断れないっ!


本日の断れない案件二段目に、かなり、いや正直のところ相当、焦った。


食事の誘いは断れるのに。いや、今日の呑みは断れなかったけど。でもこれは、中々抗い難いものがある。

どうしよう、と本気で困っている私に、宮野君はもう一度言葉を繰り返した。


「お願いします」


言った後、宮野君が少し屈んで目を閉じる。


私の目の前に彼の顔があり、メガネをかけられるのを待っている。


それは、まるで何かの儀式の様で、伏せられた彼の睫毛にドキドキと、胸の鼓動が高鳴った。


「え、と、じゃあ―――失礼します」


真新しいメガネケースから眼鏡を取り出し、両手でそっとテンプルを開く。


宮野君は、先程したのと同じく目を伏せて、じっとしたまま待っている。


私はそんな彼の目元へと眼鏡を運び、静かにそっとかけてあげた。


「……どうですか?」


ゆっくり開いたまぶたから覗いた彼の瞳が、私を見つめて呟いた。


どきりと大きく響いた音を気づかないふりして、私は宮野君に笑いかける。


試着で目にしていた筈なのに、あの時とは少し違って見えるのはなぜだろう。


「すごく、似合ってるよ」


感想は本心だった。

だけどそれだけ言うのが精一杯で。


私好みの眼鏡をかけた宮野君の真っ直ぐな視線は、確実に、私の心を貫いてしまっていた。


――――ああ、どうしよう。


これ、まずいかも。


五月蠅く響く胸の音を誤魔化すように、私はグラスを傾けた。


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