夕焼けスライムとラーメン屋

きんけつ銭鳥

.

 そのスライムは橙色透明な心を弾ませ、ズリ、ズリと体を引きずっていた。

 辺りはスライムの喜びと同じ色に染まっていたが、コンクリートはまだ熱い。湿った空気の、あまりに長い夏であった。

 蒸発しそうな体を懸命に動かし、スライムが辿り着いた先は飲料の自動販売機である。柔軟な体を懸命に伸ばして小銭を入れる。

 10円、10円、100円。

 角張った数字が光る姿を見て、スライムは、ホッと息を吐いた。お金が入ったら、次は飲み物のボタンだ。

 しかし、スライムは自動販売機を見上げて固まってしまった。あれあれ、ボタンが光っていないぞ、どういうことだ。ウニウニと背伸びをして、何度も数字とボタンを見る。やはり光っていない。繰り返し確認し、現状を確かめたその者は、やがて悲しむあまり小さく縮こまってしまった。悲哀の心は青い色。深い海と同じ色だ。

 いつもはちゃんと買えるのに。

 しょんぼりとしてしまった小さなスライム。いじけたその者は、つまらなそうに欠けたコンクリートをいじる。黒色の石が、透明で丸い手の中に吸い込まれ、また吐き出され、再び吸い込まれた。

 そうして、やりきれない思いと戦っていると、上に影がかかった。人型のそれは、黒い腕をにょっきり持ち上げ、チャリン、チャリン、と2回金属音を鳴らした。

 スライムが急いで頭を上げると、ゴトン。もう飲料が落ちる音がしていた。中身は夏限定のジュース。その者が今の季節によく買っている商品である。

 誰が買ってくれたの?

 見上げると、まず大きな腰巻のエプロンが目に入った。黄色いレモンのような色のエプロンだ。何か丸い絵がついている。スライムは文字が読めない。しかし、そこに描かれている模様が、人間達が店を開くときに制作するものだと知っていた。

 つぎに、白いシャツと太い腕が見えた。今日のような日、人間のオスが着ている姿をたまに見かける。血管の浮いた強そうな腕は、スライムなんぞ一瞬で潰してしまうのだろう。

 最後に、一番上。頭にエプロンと同じ色のバンダナを巻いた、仏頂面の人間がそこにいた。眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げた彼は、見るからに怖そうである。

 この人間に食べられる想像をして、スライムは身震いした。大きく強い生き物は、それだけでこの小さな塊には脅威だったのだ。しかも、この人間は威嚇している。その表情が、何よりの証拠ではないか。

 プルプルとゼリー状の身体を震わせてそのときを待つ。再び頭上に黒い影がさし、スライムは、ぎゅっと目を瞑った。

 しばらくの間の後、背後でゴトゴト物がぶつかる音がした。ジュースを奪っていくのだろうか。どうか、今日はそれで勘弁してほしい。更に目を強く閉じ、その者は願った。

「ほらよ」

 声がした。それでも恐怖で、目を開けない。

 そのままじっとしていると、冷たい感触がした。

 目を開ける。

 ジュースだ。

「値上げしたんだよ、この自販機。小銭はやるから、ぬるくならないうちに飲んじまえ」 

 むにむにと頬を容器で押される。戸惑いながらも、恐る恐る手に取った。頬と手に冷たさが伝わって、染み渡るようだった。

 カチ、と蓋を開け、一気に体内に流し込む。

 甘い。

 美味しい。

 嬉しくてスライムは恐怖を忘れてしまった。のびのびと大きく体を伸ばし、ジュースを高く高く掲げる。これで目の前の大きな人間にも気持ちが伝わるだろう。

「おうおう、礼のつもりか? 気にすんなよ」

 手を伸ばしてきたので、今度は自分から頭を寄せに行った。柔らかい頭を、何度もぐりぐりと撫でられる。タコで節くれだった、硬い手のひらであった。

 あたりはすっかり日が暮れ、住宅の窓に明かりが灯る中帰路に着く。

 振り向くと、とある店の前にあの人間がいる。扉の暖簾には、エプロンと同じ模様が描かれていた。

 大きく手を振ると、彼も返してくれる。そして、スライムはもう振り返らずに、夕焼け色の心を弾ませ、ズリ、ズリ、と帰っていった。

 湿った空気の、ある夏の出来事であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕焼けスライムとラーメン屋 きんけつ銭鳥 @kinketsu_dori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ