魔法の鍵と記憶のレシピ~料理が出来ない俺に遺されたのは、飲んだくれの父親と鍵のかかった母親のレシピだった~
日埜和なこ
第1話 ダメ親父は酒浸り
ここはマーラモード。魔法の恩恵と共に発展した海上都市だ。そこで、俺は両親と一緒に小さな宿を経営している。
俺たちの住むところは、賑わう大きな港町からは少し慣れた海岸沿いだ。綺麗な砂浜は、夏になれば海水浴に訪れる客で賑わい、周辺の宿や食事処は稼ぎ時になる。
だけど、そんな夏を迎える前に母は倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
◆
「親父、いい加減にしろ。そんな毎日泣いてたら、母さんだって呆れるぞ」
「いい加減なことを言うな。ヴェラだって、俺と離れて寂しいに決まってる!」
酒を飲みながら喚く親父の目は、今日も酔いと涙で赤くなっている。
やれやれ。元々酒好きだけど、母さんがいた頃はもう少し節制が出来ていた気がするな。
テーブルに散らかる空の瓶とグラスを取り上げ、俺はそれをキッチンのシンクに置いた。後ろでは、もう一本瓶を開けると親父が眠そうな声で言っている。
「今日はダメだ! 飲み過ぎだ。それに、今月の酒代だってバカにならねぇ」
「んなもん、宿を再開して稼げばいいだろう」
「そうだけど……親父、そんな調子で宿を開けられるのかよ」
今日何度目か分からないため息をつき、俺は窓の外を見た。すっかり陽が沈んで暗くなった夜空には星が輝いている。今日は新月なのか、その瞬きが妙に眩しいな。
ふと、母の顔が浮かんだ。大きな口を開けて笑う、快活な人だった。
いい加減な親父の尻を叩けるのはあの人だけだ。知人たちは誰もがそう言っていた。それに相思相愛なのは息子の俺が見てもよく分かる程だ。
息子の目の前でもすぐイチャついていたぐらいだ。宿を訪れる常連客は、おしどり夫婦な両親に元気をもらいに来てる、て言っていたな。
他人が見ても仲の良い夫婦が片割れを失うっていうのは、息子の俺が感じるものとはまた違う寂しさなんだろう。
ぼんやりと考えていると、窓からひやりとした海風が入り込んで頬を撫でた。
「夏が近いって言うのに、風はまだ冷たいな……」
窓を閉めながら、思考は宿の経営へと切り替わっていく。
母さんが死んで悲しいのは俺だって同じだけど、いつまでも宿を閉めてるわけにもいかない。あと二ヵ月もすれば夏が来るしな。
窓の向こうで響く波の音に、そっと耳を傾けた。
このマーラモードは海上都市というだけあって、夏に訪れる海水浴客が多い。最近ではマリンスポーツ教室やクルージングなんてのを副業にしている宿もあるが、うちは小さな宿で、売りは食事くらいだ。それも、豪勢なものじゃなくて家庭料理だが。
料理という文字が脳裏いっぱいに広がった。
シンクに積まれた皿を見ていると、俺の口から無意識に乾いた笑いが零れる。
ここ連日の食事は、野菜や肉を焼いて塩を振っただけとか、買ってきた総菜を温めただけとかだ。それでも用意するのに疲れて、皿を洗うのが億劫になるから、こうして山積みになっている。
こんな惨状で、宿の料理まで用意するとか無理難題じゃないか。
「なぁ、親父。誰が宿の飯を作るんだ?」
振り向きざまに尋ねたが、当の親父はテーブルに頬をつけていびきをかいていた。
俺がどうにかしないと。そう思っても、何をどうしたら良いのか。
汚れた皿を洗いながら、料理人を雇うにはどれくらい予算が必要だろうかと、ぼんやり考えていた時だ。玄関の呼び鈴が鳴った。
手を拭きながら向かった先にいたのは、青いワンピース姿のルーシーだ。頭の高い位置でふんわりと結われている茶色の髪が揺れ、にこりと笑った彼女は紙袋を突き出した。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「男二人で、ろくなもの食べてないと思って作ってきたのよ。冷蔵庫に入れれば、数日はもつわ」
「……よく分かってんな」
「長い付き合いだもの。私も、うちのお母さんだって分かるわよ」
「親父、飲んでばかりでさ」
「そっか……いつだって、おばさんと一緒だったもんね。寂しいのよ」
受け取った紙袋の中をちらりと見ると、ルーシーは上がるわよと言ってドアを閉めた。
「どうせ、片付けも中途半端でしょ。手伝ってあげるわよ」
「いいのか?」
「夜間割増料金でね」
「金取る気かよ」
「ふふっ、冗談よ。でも、港の近くに新しくできたカフェで、ケーキくらい奢ってもらおうかな」
キッチンに入ると、ルーシーはバッグからエプロンを取り出し、手早くそれを身に着けた。
蛇口から水が流れ始め、皿やフォーク、カトラリーがぶつかる小さな音を聞きながら、俺は紙袋の中の総菜を取り出した。
花柄の可愛い保存瓶に入っているのは、カラフルな野菜のピクルスだ。人参、セロリ、キュウリにミニトマト──そういや、母さんも毎週のように作っていたな。別の保存容器に入っているのは、ハーブをきかせたフリッターのようだ。白身魚とカリフラワーだろうか。深い容器には野菜と鶏肉のトマト煮が入っていた。それからこんがり焼けたパイまである。これは、ミートパイかな。
ありがたい差し入れを確認しながら冷蔵庫にしまっていると、ルーシーが俺をネルソンと呼んだ。
「こんな調子で、宿、再開できるの?」
俺を見つめる青い瞳は、まるで冬の海のように厳しかった。
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