蝋燭の魔法
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001
揺れる蝋燭の炎が、まるでこちらに手を振っているかのようだった。
幾何学というものに触れる前の人間が配置したらしいその蝋燭は、円形の台座の上に星座でも描くかのようにちりばめられていて、一体何座と呼べばいいのだろうと苦笑いをしたくなる。イチゴやマスカットのデコレーション配置もまばらで、ジョアン・ミロの絵画のように意図が掴みづらい。おまけにクリームはケーキ中をでたらめに縫うように踊っていて、もし中央に配置してある「メリークリスマス」のプレートがなければ、これがクリスマスケーキであるということも理解できたかどうか怪しかった。
「子どもの一人が作ったんです。可愛らしいでしょう?」
施設長の微笑みに、頷き返さないわけにはいかなかった。正直なところ甘たるいケーキは苦手だったし、クリスマスも好きではなかった。しかし理事会がきちんとこの施設を重要視していることを示すためのポーズとして、デイヴィスは今日ここに来る必要があった。数多くいる理事の中でも、二年連続で自分にこの役目が回ってきたのには理由がある。まだ結婚しておらず、また両親も失っているデイヴィスであれば、クリスマスに予定などあろうはずもないと世間が固く信じているからだ。
「いつか、ここの誰かを、ご自身の子どもとして迎えてくださる日が来るだろうと楽しみにしてますのよ。あなたは理事の中でもいっとうお若いし」
「それを望まない訳ではありませんが……でも、結婚もまだですので」
社会的なステータスを得るために周囲や友人から急かされる結婚には飽き飽きしていたが、結婚こそがそれなりの階級を持つ人間の務めであると説かれれば、反論する気にもなれなかった。時代に新しい風が吹いてきているとはいえ、古風の考えが廃れたわけでもない。小うるさい親がいないだけマシだと何度も自分を慰めたが、そうしたところで外部からの抑圧が減るわけでもなかった。
沈黙が続いてすこし気まずくなりかけた部屋の中に、突如、玄関のベルが鳴り響いた。一緒にこの役目に巻き込まれた友人が、遅まきながら到着したのかもしれない。
施設長は、浮かれた様子でケーキを抱え、挨拶もそこそこに部屋を出ていった。今到着したばかりの彼の方であれば、デイヴィスと同じ程度に若い上に、しかも結婚していてすでに自分の子どもまで持っている。理事との繋がりを強めるため、子どもの売り込み先を探している彼女にはより好都合なのだろう。
解放されたことに安堵の溜息をつき、呼ばれるまではゆっくりしていようとソファに腰を下ろす。廊下のほうからは時折子どもの声が聞こえたが、遠いざわめきに過ぎず、心地よいぐらいだった。客を迎える応接室の周りでは、騒がしくしないように躾けられているのだろう。近づくことすら禁じられているのかもしれない。そう思っていたから、誰かがドアの近くに立っているのに気が付いた時には驚いた。足音も聞かせず、気配も感じさせず、少女はそこに現れた。
「デイヴィスさん、こんにちは」
目が合った瞬間、今現れたとばかりに少女はそうデイヴィスに挨拶をした。いつから彼女はこちらを見ていたのだろう?
ゆるく巻きのある栗色の髪に、深緑の目をした少女だった。絵本の中に登場する子どものようなテンプレートとしての可愛らしさを備えているその子に、デイヴィスはまず違和感を覚えた。
養子に望まれやすい子どもに共通している外見的な特徴を、彼女は備えているように見えた。また、女の子は育てやすいと思われているのか、特に選ばれる確率が高い。だから、この少女がこの年になるまで引き続き施設にいる理由は、ひょっとするとそのあまりに勝気そうな瞳と賢し気な――いや、いや、いや。心の中だけでとはいえ、この子の「選ばれない」理由を探そうとするなど、一体自分はどうしてしまったというのだろう。
「君は……」
名はたしか、アリスだ。
施設の子どもの名前を全員覚えているわけではないが、彼女に関しては、去年のクリスマスでも一番前で聖歌を歌い、寄付を募る挨拶までつとめていたので、よく覚えている。はつらつな印象はそのままに、一年分の落ち着きを身に着けたようだ。記憶違いではない。改めて確信を深めてから、デイヴィスは少女の名を呼んだ。
「アリス?」
「そうです。少しお話しても?」
断る理由はなかった。どうせこの後のランチの席では、代わる代わる座りにくる子どもたちと会話をする予定になっている。どうぞと向かいのソファを勧め、彼女が話し出すのを待った。子どもというのはお喋りなものだと思っていたから。しかしなかなか口を開かないアリスに少し焦り始めた頃、彼女は決心したようにデイヴィスを見上げた。
「わたし、ここで過ごして八年になるわ。もちろん神にいつも感謝しているし、先生も良い人たち。友だちだってたくさんいるし、特にキティとは、彼女と出会うためにここで育つことになったんじゃないかって思うぐらいに運命を感じるの。自分のことも大好き。でも、一つデイヴィスさんに聞きたいことがあって」
随分と大袈裟な前振りだ。何を聞かれるのだろうと内心苦笑いしながら、デイヴィスはひとまず無難な相槌を打つ。
「君はここの生まれだったね」
「そう。正確には、生まれて一週間以内のわたしを、わたしを生んだ人が、玄関のところまで連れてきてくれたの。だから、誕生日も名前も、みんな施設の方で決めてもらったってわけ」
どこか棘がある言葉が並んだものの、アリスの口を通じて放たれる声には軽やかで楽しげな響きがあって、深刻さは感じられなかった。デイヴィスは積極的な肯定を避けて、ただ首を小さく傾げてこう呟くにとどめた。
「そういうふうに、思ってるんだね」
「それで――その、そういう生まれなわけだから、ひょっとして、名前だって適当に決められたんじゃないかって、わたしたちの中で話題になったの。たとえばそう、まるでくじ引きみたいにね。わたしたちの顔を見もせずに、犬や猫に名前を付けるよりも手短に。それってほんとう?」
彼女の言うことは、ある意味、真実だった。
毎年、理事の誰かが一年分のリストを用意する。その男女別の名付けリストを、赤ん坊が現れるたびに、上からなぞるように消費していくのだ。デイヴィスも五年前に初めてリスト作りの担当になった。しかし、馬鹿正直にそうだと答える意味がどこにあるというのだろう?
デイヴィスは、改めて苦笑を作った。
「まさか、適当だなんて、そんなわけない。大切に名付けられているよ」
アリスの表情が、目に見えてほっとしたものへ変わった。菓子袋に描かれる広告絵のモデルになりそうなほど可愛らしい頬が、ふんわりと赤く灯る。緩んだ口元に、先ほどよりは幾分か優しく見える目元が合わさって、それは慈愛の表情に近かった。その、元気を取り戻した口元が再び開く。
「そう、よかった。先生に聞いた時も同じように教えていただいたんだけど、でも大人って時々嘘をつくでしょう? だから、もちろん、人を試すことはよくないことだと分かってはいるんだけど、それでも子ども間ではそういう話になっていて……まあ、言い訳はこの程度にしておくけど」
「そのほうが良さそうだ」
目の前に立つアリスは、七歳かそこらに見える。彼女の名付け親は、おそらくアーロンかニールであろうと思われた。少し名前が古風であることを考えると、多分アーロンだろう。
もう話が済んだのであれば、この子に部屋を出る口実を与えてやらねばならない。デイヴィスはソファの肘掛に放置されていた新聞を手に取り、広げはせずとも一面に視線を落とした。これで、アリスがこの場を離れたければ、礼儀正しい子どもの顔をして退出することができるはずだ。
しかし、彼女は応接室を離れなかった。それどころか、もう一つの重要な質問をよこしたのだ。
「それで、先生の言う通り、わたしの名前はあなたが?」
デイヴィスは考える時間を稼ぐため、意図的にゆっくりと視線をあげた――わたしが? 彼女の名付け親を?
アリスにとって、名付け親が誰であるのか、という問題が非常に重要なことであるのは想像に容易かった。視線を上げて彼女と目が合うと、その推定は確信に変わった。
彼女はまるで、親を見つけた子どものようだった。
デイヴィスは静かに心を痛め、そして決心した。施設の誰かがついたのであろうその嘘に、付き合ってはならない理由を見つけることはできなかった。
「――ああ」
「本当に!」
デイヴィスには、アリスという名前をリストの中に入れた記憶がなかった。そもそも時期が合わない。しかし、多くとも一年に一回しか会わない少女に対し、そんな細かい事情を説明するつもりはなかった。
そう考えての返事だったものの、次にされた質問は、それなりにデイヴィスを悩ませるものだった。
「どうしてそう名付けたのか聞いてもいい?」
デイヴィスは逡巡した。アリス、という名前に心当たりがないわけではなかった。たまたま、同じ名を持つ友人がいたのだ。
「君の名前は、わたしの友人から付けた。とても聡明で、はっきり物が言える人で、幾何学が得意だった」
「わたしもいつか彼女に会える?」
デイヴィスの知るアリスは、先の戦争で死んでいた。空軍で初めての女性パイロットで、爆撃率は所属隊のなかで一番だったという。
「ああ、きっと」
花がほころぶように、アリスは笑った。
名付け親とそのモデルと、疑似的な両親のペアをそっくり手に入れた少女は、とても満足そうに見えた。彼女は先ほどまでの行儀の良さはどこへやら、自分の好きな本の話、親友の話、最近施設であったことなどを、とりとめもなく話し始めた。デイヴィスは施設長が戻ってくるまでのあくまで「暇つぶし」としてアリスの話に付き合うことにした。しかし予想を裏切るように彼女の話し方にはなかなか面白い抑揚の付け方があって、こちらの聞く意欲をかき立てるところがあり、驚くべきことに殆ど退屈せずに過ごすことができた。
「へえ。なるほど、それで? いや、まったく驚いたな」
なんて、中身のない相槌でもアリスは大袈裟に喜んで見せた。
再びアリスと会う可能性はさほど高くはないが、もしも来年のクリスマスの訪問者に再びデイヴィスが選出されたら、一年後にまた会うこともあるかもしれない。今日の会話をある程度は忘れないようにしなければと手帳にメモすることまで考えていたその時、不意にアリスが言った。
「ところでデイヴィスさんは、子どもはいらないの?」
十二月だけでも、何度された質問かしれなかった。美しいクリスマスの日に、最も重要なプレゼントを施設の子どものうちの誰かに与えてやってはどうかと、アーロンもニールもうるさかった。何度目にもなる回答を、デイヴィスは繰り返した。
「残念ながら、結婚の予定がない」
「その予定をこなした後は?」
「想像もつかないな。目の前のことでせいいっぱいでね」
「結婚したい人がいるの?」
「え? ああいや、そういうわけじゃない。結婚も子どもも、しばらくは望んでいない」
「望んで……そう、珍しいのね」
デイヴィスは顔をしかめた。まったく、新しい時代の風が吹いているというのに、まだ十にもならない少女がそんな考えを持っているようでは。彼女の今後を考えれば、もっと柔らかい頭を――そうだ、名前の元になったアリスのように先進的でなければ。
説教をするのは好きではなかったが、必要ならば躊躇う必要はない。デイヴィスは身を預け切っていたソファから背を起こし、同じように座りなおすようアリスへ手で示した。好奇心の強そうなアリスの瞳が、デイヴィスを見つめた。まじめに話を聞くつもりのようだ。
「君には伝えておこう――あの、そういうことが人間の全てというわけじゃないからね。今はまだこういう思想は一般的ではないかもしれないが、どのように生きようと自由だし、アリスも――わたしの友人のほうのアリスについてだが――そういう柔軟さを持っていた。次の時代を切り開いていく、力強さもね」
忠告を受けたことで、二つの深緑の瞳に宿る光がみるみると萎んでいくのが分かった。心が少し痛んだが、これは必要な痛みだとデイヴィスは考えた。
「あの、わたし――わたし、ごめんなさい」
「いいや、構わないよ。大人だって君の半分も理解しているかどうか怪しいのだし」
「ええ――でも、それでも。それにわたし、そろそろ食堂へ戻らなくちゃ」
立ち上がるアリスに、デイヴィスは目を見開いた。この施設の教育方針はそれなりに厳しく設定してあるつもりだったのだが、随分叱られることへの耐性がないようだ。止める間もなく、アリスは挨拶を終えて廊下へと消えてしまった。ほとんど駆け出すかのようだった。
最後にデイヴィスの視界にうつった子どもらしい細い足は、白いハイソックスに包まれて、まるでマネキンのようだった。しかし、アリスはたしかに生きていて、血の通った赤い頬を持ち、つい先ほどまでこの部屋の中で呼吸をしていた。そのことを忘れそうになるぐらい、彼女は唐突に部屋の中から姿を消したのだ。
どこか呆然とする気持ちで開け放たれたままのドアを見つめていると、ひょっこりと上半身だけ、身なりのいい男が顔を出した。
「やあ。……すれちがった子どもが泣いてたようだけど、通報が必要かな?」
入れ替わりに入ってきたのは、友人のニールだった。施設長の案内がようやく終わったらしい。考えてみれば、随分長く待たされたものだ。
「待ちくたびれた」
「そう? 楽しんでたようだったじゃないか。隣の部屋にいても、明るい話し声が聞こえてきたよ。きみ、子ども好きだったっけ?」
「施設の理事を、両親から引き継いで続けてる程度にはね」
「で、きみは、何を言ったのさ?」
「言ったのは向こうだよ」
デイヴィスは手短に、今起きたことをニールに伝えた。うんうんと頷きながら話を聞いていた友人は、説教の下りで顔をしかめた。
「へえ。つまり、普段僕たち大人に小言を言われた時と同じように、返したわけだ?」
「いや、それ以上だ。子どものほうが、より、考えを改めるチャンスに恵まれているだろう?」
「ぜんっぜん違うね。答えを教えようか。あのね、その子はただ親が欲しいだけだよ。別に君でなくても構わないだろうけど」
デイヴィスには、ニールが何を言っているのか、考える時間が必要だった。つまり、アリスはデイヴィスに対し、養子の打診をしていたのだとでも言いたいのだろうか?
「どの子も養親を欲しがっているとは限らない」
「たしかにね。名付け親が誰なのかを聞き出して、その直後にされた質問ではなかったとしたら、僕もきみに同意したかもな」
デイヴィスは沈黙した。アリスがつい先程どんな表情で自分にその質問をしたのか思い出そうとしたが、それよりも説教をした後のあの泣きだしそうな顔ばかりが浮かび、たった数分前の記憶なのに上手く出てこない。
「『いつかぜひ子どもを』って、アーロンや僕が言うのとは意味合いが全く違う。その切実さもね。まったく分からないわけじゃないだろう?」
そう、よく分かっているはずだった。まだ未成年だった時に両親が死んだ過去を持つ者として、どうしてそれが分からないと言えただろう?
たとえアリスがそういうつもりではなかったとしても、もっと慎重に答えるべきだった。たとえデイヴィスが十二月に何度同じ質問を他の人間にされていたのだとしても、その反復の反動を、濾過せず彼女にぶつけるべきではなかった。
「わたしは……時に、とても愚かだ」
「そう? きみが賢く見えたことなんて、さほどないけどね」
ニールの軽口に苦笑いを返して、デイヴィスはもう一度深いため息をつくためにソファに深く沈み込み、肘掛で頬杖をついた。
「ところでデイヴィス。言っておくけど、さらに愚かなことを考えるなよ」
「愚かって? 君らの勧めに従うこと?」
「同情で何か重大なことを決断されるのは、嫌気がさすものだ。きみだって両親を失った時には、そういうふうに思ったはずだよ。思い出してみたら?」
それは、デイヴィスの思い返す限り、ニールの行った中でも数少ない『有益なほう』の助言だった。しかし大人というものは、受け入れるべき助言ばかりを上手く逃してしまうものだ。
デイヴィスは結局、次の日のうちにはアリスを養子に迎える決心を固めた。
*
それから何度かのクリスマスが過ぎ、アリスは十五歳になっていた。
デイヴィスが施設に行ったのは、あれが最後になった。行くとなればアリスを連れていかないのは不自然だし、だからといってアリスを連れていけば他の子どもの精神によくない影響を与える可能性がある。アリスだって、施設へ戻りたいとは言わないのだから、きっと未練はないのだろうと判断した。今思えば、デイヴィスの言い訳にアリスの心を付き従わせていただけだったかもしれない。
他の面においてもそうだろう、とニールは語る。
「アリスはきみの人生のよい防波堤になっただろう。したくもない結婚の言い訳を、全部彼女に負わせることに成功したんだから」
「馬鹿なことを言うな。逆の使われ方をしたこともあるさ」
アリスのためにも結婚を、と呪文のように唱える周囲に対し、デイヴィスはおそらく必要以上に強く反発した。想定よりもずっと順調に始まった今の平和な生活に他人を入れるのは抵抗があったし、アリスを育てるにあたって誰かの助けが必要だとも思わなかった。まあ正確には、デイヴィス家には元々何人かの優秀な使用人がおり、実際的な世話については彼らの手を借りていたわけだが……。
その、優秀な使用人たちが飾り付けた大きなクリスマスツリーを見上げながら、デイヴィスは引き続きニールのたくさんの助言を聞き流し、代わりのように酒を飲んだ。やがて夕方になると、ニールはそろそろ子どもが戻る頃だと言って帰り支度を始めた。アリスの帰宅も、同じく今日の予定だった。
アリスの学校は、デイヴィス家の子どもという身分に相応しいところを選んだつもりだった。そして、そうした格式高い学校にありがちなように、二年前の秋から彼女は寮生活を送っている。今では年に数回の長期休暇の時にしか帰らない。
玄関ホールで、ニールが振り返って言った。
「お嬢様のお帰りは?」
「もう少しかかるはずだ。帰ってきてくれても、すぐにまた行ってしまうしね。お互い、寂しいものじゃないか?」
「いいや、我が家にはまだ家を出てない子どもが一人残っているからね。君ももう一人迎えてみては?」
「まさか、いまさら?」
「たとえば赤ん坊を迎えることを検討するなら、そろそろ最後の機会だぞ。今度こそ自分で名前を付けて、人間が初めて立ったり歩いたりするところを楽しむのさ」
もしもアリスが幼い時に、初めての言葉や、初めての挨拶や、初めてのかけっこなんかを一緒に楽しめたなら、もちろん幸福だったろう。だが、デイヴィスは今さらそれらの体験を見知らぬどこかの赤ん坊と楽しもうとは思えなかった。
「アリス一人で十分だよ」
その言葉に対しニールは苦笑いだけを返し、待たせていた馬車へ乗り込んでいった。その背中を見送ってから、デイヴィスは少し酔った頭を揉みながら玄関ホールへ戻る。
今日の残りの予定は、応接室に戻ってアリスの帰りを待つことだけだ。なにか簡単な菓子でも用意しておいてやろうかと考えながら幾分か軽やかな足取りで正面階段を昇ろうとしたその時、簡易的な物置代わりに使っている階段裏の空間に、ひとりの少女が隠れているのを見つけた。
もちろん、この家にいるべき少女は一人しかいない。
「……アリス?」
彼女がとんでもなくいたずら好きだということを、忘れるべきではなかった。嬉しい驚きを胸に感じながら歩調を速めて、直後、とあることに気が付きデイヴィスは立ち止まった。
――アリスは、どこからわたしたちの話を聞いていたのだろう?
デイヴィスの混乱とは裏腹に、あら、と機嫌の良い声がホールに響く。影の中から制服を着たアリスが躍り出て、三カ月ぶりの笑顔を見せた。
揺れる栗色の髪に、橙のリボン。好奇心の強そうな深緑の瞳は印象を薄めることなく輝き続け、冗談の好きそうな朗らかな表情を浮かべている。
「見つかっちゃったのね。ただいま、おじさま。思っていたよりも早くわたしが帰ってきたはずなのに、なんだかご機嫌ななめじゃなくて?」
「君は本当に、いつも、突然現れるね」
アリスの隣に控えているメイドが、ばつの悪そうな顔をしているのが見えた。聞かせてはならない部分――子どもの命名に関するニールの軽口が、アリスに聞こえてしまったのは明白だった。
デイヴィスは自分を落ち着けるために大きく息を吐き、そしてアリスに向き直った。
「アリス。謝る機会をくれないかな」
「ええ。構わないけど」
「わたしは、君の名付け親ではない」
「へえ。たしかに、『アリス』って、あまりおじさまの趣味じゃないものね」
その軽やかな返事は、きっとアリスの虚勢だろう。デイヴィスのことを、曲りなりにも父親のように思ってくれたのは、大切に名付けられたのだという思い入れがあってこそのはずだ。
「驚いただろう」
「実は、そうでもないわ。そんなことより、もしかしてニールおじさまに挨拶しなかったことの方を怒ってる?」
「そんなわけない。アリス、わたしは、本当に謝ってるんだよ」
「いいえ、ほんとうにいいの」
アリスがなぜここまで頑なに謝罪を受け入れないのか理解できず、デイヴィスは眉をひそめた。彼女は怒っているというのでも、拒絶しているというのでもない。アリスの態度は極めて奇妙だった。
その理由は、すぐ明らかになった。
「だって、先生はね、あなたが名付け親だとはおっしゃらなかったの。多分、アーロン・ブラウンさんでしょうって」
「なんだって?」
デイヴィスは、今さら何年も前の自分の愚かさに眩暈がした。近日中に施設にやってくるとあらかじめ分かっている男の名を、職員が嘘の中で使うはずがなかったのだ。
「……では、なぜ?」
まさかアーロンと間違われたわけではあるまい。応接室にいる男を、確認もせず名付け親に違いないと決めつけるほど、当時のアリスの思い込みが強かったとも思えない。訳が分からなかった。
「なぜって?」
「わたしをアーロンと間違えたわけじゃないだろう?」
「もちろん違う。そもそもわたし、最初にちゃんとおじさまの名前を呼んだわ」
「そうだったかな。でも、なおさらどうして? その後のわたしの答えが嘘だと分かったんだろう?」
「まあ、ウソと呼ぶかどうかはおじさまの自由だけど――でも、そもそもね、そういうウソをつかれていたんだとしても、多分あの時のわたしなら気が付けたと思うの。だっておじさま、二言目には『君はここの生まれだったっけ』みたいなこと仰ったのよ、さすがに自分で名付けた子どもに、そんなふうには言わないでしょ」
「それほど酷い言い方をしたかな」
「だいたいそんなふうに聞こえたわ」
「じゃあどうして、わたしと暮らしたがったんだ?」
「ああ、そういうこと? なるほどね。おじさまが何故それを分からないのかが不思議」
デイヴィスは、再び眉をひそめた。アリスには、会うたびに驚かされる。数カ月見なかっただけで、何もかもが変わってしまったように感じることもあれば、あの印象深いクリスマスの日の少女と何一つ変わっていないと思うこともある。
アリスは言う。その表情は、どんな高級デパートのポスターでモデルに選ばれてもおかしくないほど可愛らしく、頬の赤さが際立っている。結局、八歳になるまでどうして誰もこの子を家に連れ帰りたいという衝動を持たなかったのか、未だにその謎は解けていなかった。
「わたしの名前を憶えていてくれたから」
「……アリス?」
「そう、馬鹿みたいって顔なさるのね。でもね、それだけで、その時、あなたが名付け親だったらっていう夢を見たの。毎年、実はこっそりわたしの様子を見に来てくれているおじさまだったらよかったのにって。その次に、クリスマスという聖なる日にためらいなくわたしのために嘘をついてくれる人かどうかを知りたくなって、さらには、ひょっとしたら家にまで連れ帰ってくれるんじゃないかと期待までした。とんでもなく欲しがりでしょ。でもなんと、最後の望みまでぜーんぶ叶ったのよ」
「そんな理由で家を選んで、後悔しなかったのかい」
「おじさまこそ、わたしを選んだ理由は? 子どもなら他にたくさんいたでしょ、なんならキティのほうが算数の成績はよかったわ」
「わたしは……そもそも養子を探しに行ったわけではなかったから。それに、君たちが思うほど成績のスコアは重要じゃないよ。君は天使のようにあの応接室の中をぱっと明るくして、そして去っていった。ものの五分ですべてを照らしてみせた。他になにか必要なものがあるかい?」
「おじさま、よくそう言ってくださるけど、わたし他の人にはそんなこと言われたことないの。だから多分、お嫌いでしょうけど、一種の"お導き"はあったと思うのよね。そう呼びたくないなら、違うお名前で呼んでもいいけど、でも何にせよ、そう思うとちょっと嬉しくなってこない?」
「どうかな」
「嘘でも嬉しいとおっしゃってよ」
アリスが笑う。その無邪気さは、この七年間すこしも変わるところなく、この家の中を照らし続けていた。
アリスは怒っていない。そのことをようやくデイヴィスは理解して、心の底からほっとする思いがした。更には、あの日自分という人間がアリスに一体どんな贈り物をしたのかを、遅ればせながらようやく正しく理解するに至った。
「わたしがおじさまにあげられたものこそ、そんなにないでしょ」
「いいや、同意できないね。当然、いくつもある」
具体的に言おうとすると、それはつまらないものになりがちだ。クリスマスに施設へ行けない口実が出来たこと、結婚を勧められた時の断り文句に困らないこと、季節のイベントが楽しめること、時間が過ぎるのを噛みしめていられること、ニールと話題が合いやすいこと、あるいは、あるいは。
しかしアリスから貰ったもののなかで最も重要なものは、もちろんこの中にない。それはデイヴィスにとって、いびつなケーキと蝋燭の形をしている。もうあんな不器用なケーキはこの世界のどこにもないというのに。
「たとえば、クリスマスケーキの代金を浮かせられることとか?」
アリスが背後から取り出した二つ目のサプライズは、デイヴィスにとってよくよく馴染みのあるものだった。この一年で、さらに腕を上げたらしい。
「それも、数多くの理由の一つではある」
揺れる蝋燭の炎が、一つの幸福の象徴のように輝いていた。当然、それは幸福の形をしていた。酩酊がまだ残る重たい頭のなかで、オルゴールみたいに優しい速度で、デイヴィスはアリスとの記憶をたどり始めていた。それらの日々が「日常」だった時には、当然言いたい小言も色々あったけれど、今こうして振り返ってみると、蝋燭の光のように朧気な幸福の気配しか思い出せない。
デイヴィスは、笑顔で目の前に差し出された一つのホールケーキを改めて見つめた。
アリスの数学の成績は平均と比べ幾分か悪いようだが、蝋燭はしっかり円のふちに沿って置けるようになったらしい。フルーツの置き方も随分オーソドックスになって、あの独創性が恋しいぐらいだ。なお、クリームの絞りなどは目を見張るものがあり、もしかしてパティシエになりたいと言い出すのではないかと、デイヴィスは内心はらはらしている。
<了>
蝋燭の魔法 mee @ryuko
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