水の底から


─苦しい。息ができない。身体が動かない……


水底へと続く青い地獄の中で、少女のオレンジ色の髪とドレスが鮮やかな色彩を放っていた。


水面に浮かび上がることも出来ず、見えない力に引きずり込まれるようにシトラスの身体は暗い水中へと沈んでいく。息ができない苦しみと全身を襲う痛みに耐えながらシトラスは必死に思考を巡らせるが、何も打開策は見つからない。

それどころか酸素が欠乏した脳は思考を停止し始め、意識は再び霞み始めていた。



(私、もうダメなのかな……ここで死んじゃうのかな……)


薄れゆく意識の中で、シトラスがそう考えた瞬間。


(シトラスーーーっ!!)


水中に居てもなお脳内に響く叫び声と共に、小さな影が目の前に飛び込んできた。そしてそれはそのまま勢いをつけて、一気に水底へと潜っていく。


(ポメポメ!?)


仔猫の姿をしたその影は、シトラスの目の前で白い光に包まれ、そして一瞬でその姿を変える。猫の耳を生やし、白い服に身を包んだ少女─天界人としてのポメポメの姿だ。


(「転移(メタスタス)!!」)


人の姿に変身したポメポメが何か呪文を唱えたかと思うと、次の瞬間にはシトラスの姿もポメポメの姿も水槽の中から消えていた。







***



「げほっ……ごほ……っ!」


水から引き上げられたシトラスは、咳き込みながら飲み込んでしまった水を吐き出す。辺りを見回すと、そこは午前中に見学した水族館のメインホール─カラフルな魚が泳ぐ巨大水槽の前であった。


既に避難や救助が行われた後らしく、一般客の姿は見当たらない。それが却ってこの水族館内で起きている異常事態を如実に示しているようで、薄気味悪ささえ覚えそうになる。


「シトラス!大丈夫ポメ⁉」


シトラスをここに転移させたポメポメは、彼女に駆け寄りその背中をさする。


「うん、……ありがとう」


暫く床の上で咳き込んでいたシトラスだったが、やがて呼吸が落ち着くとゆっくりと身体を起こした。


「ポメポメ……私さっき、オレンジ・スプラッシュを水槽の中に落としちゃって……」


「大丈夫ポメ!オレンジ・スプラッシュに戻ってきてほしいって念じながら手を前に出してみるポメ!」


そんなことで本当にどうにかなるのか、と多少の不安を抱きつつも、シトラスはポメポメに言われた通りに手を前に突き出した。すると─


「わっ……」


オレンジ色の光の光線が、まるで流星のようにシトラスの方へと向かって飛んでくる。シトラスの目の前まで飛んできて静止したそれは、紛れもなく先ほどシトラスが水中に落としてしまったオレンジ・スプラッシュだった。


「本当に戻ってきた……」


「魔具は基本的に持ち主のところに戻る性質があるポメ!だから落としたり手放したりしたら、まずは戻ってくるように念じてみるポメ!」


シトラスはオレンジ・スプラッシュの柄に手を触れる。手放してしまった魔具がようやく戻ってきたことに安堵しながら、改めてそのハンマー型の魔具を見つめた。


「ありがとう、オレンジ・スプラッシュ……」


魔具をぎゅっと握り締め、シトラスは心からの感謝を込めてその名前を呼んだ。


「ん……?」


頭上から水滴が落ちてきたことに気付き、二人は同時に天井を見る。

一般エリアの美しい照明の下で、水滴がゆっくりと床へ落ちていく。ぽた、と落ちていく雫の音は次第に数を増し、フロアカーペットを濡らし始めた。


「雨漏り……って感じじゃなさそうかも」


水滴が次第に多くなり、床に水たまりを作り始めた。その水たまりは不自然に動き、ゆっくりと形を変えていく。意志を持ったように動いた水はやがて、再び巨大な魚を形作った魔獣の姿となった。


「また来たポメ……!!」


「っ……!!今度こそ倒さなきゃ!!」


シトラスはオレンジ・スプラッシュを構えて、魔獣をまっすぐに見据える。

ポメポメもまた、シトラスをサポートすべくロッドを手にする。


「シトラス、一般エリア(ここ)ではあの魔獣は水槽から直接水を吸い上げられないポメ!だから……っ!?」


だから、先ほどよりも戦いやすいはずだ。そう言おうとしてポメポメはハッと口を噤んだ。


(これは……!?)


魔獣の元に、四方八方から水がまるで意思を持ったかのように集まっていく。そしてそれらは、魔獣を取り囲むように数本の柱となってその場に聳え立った。

柱の形を取ってもなお水は集まり続けており、それはこの館内に水がある限りこの魔獣が何度でも蘇ることを意味していた。


「そんな………、」


こんな相手に、どうやって戦えばいいのか。



愕然としているシトラスに向かって、透明な水の触手が一斉に襲いかかった。

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