第1話 はじまりの魔法

朝の風景

 パステルカラーのカーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込む。


部屋の中には可愛らしい小物やぬいぐるみなどが飾られて、壁際の本棚には漫画や小説が巻数ごとにきちんと並べられている。勉強机の上は消しゴムのカスもなく、ノートと参考書が重ねて置かれている。部屋の主の人柄を現すような整頓された部屋だった。


その部屋の主は、ベッドの上ですやすやと穏やかな寝息を立てていた。


「う~ん……」


寝返りを打つように動いた部屋の主の頰に、ふわっとした感触が触れる。


「むぅ……」


「ポメっ!ポメ!」


毛玉の化身。そんな表現がしっくりとくるような、ふわふわとしたミントグリーンの毛並みをした小さな生き物。


三角の耳とぷにぷにの肉球、ピンと伸びた髭から察するに、生物学上では猫に分類されるのだろう。しかし、鳴き声だけが異様に独特で、どう聞いても猫とは思えない。



 そんな毛玉の化身は、肉球でペタペタと部屋の主の頬を押し続ける。



「んー………」


ふわ、と毛玉の化身の頭の上に手が置かれ、毛玉は「ポメっ!?」と驚いた声を上げる。しかし、それは一瞬ですぐに嬉しそうな鳴き声に変わった。


「ポメっ!!」


「おはよう、ポメポメ」


目を覚ました部屋の主は、ポメポメと呼ばれた毛玉の化身をひと撫でし、ベッドから身を起こす。肩まで伸びたオレンジ色のボブヘアに、青い瞳。歳の割にやや幼い印象を与える童顔はまだ眠そうに微睡んでいた。



「ポメっ、ポメポメ!」


「お腹空いたの?すぐご飯作るから待っててね」


「ポメっ!」



元気よく鳴いたポメポメに微笑みかけると、部屋の主─シトラス・ルーシェはベッドから立ち上がり、パジャマから制服に着替え始めた。


白いブラウスにダークグレーのセーターと靴下。そして、目に鮮やかなえんじ色のジャケットと、その色彩を引き立てるようなグレーのスカート。胸元を飾るのは、橙色のリボン。


それが、この街─ラコルトの中心に位置する中高一貫の教育機関、聖フローラ学園高等部の女子生徒用の制服だ。



生徒のおよそ7割が中等部からの内部進学者であるこの学園では、高等部からの入学生は少数派であり、特にシトラスのような一人暮らしをしている者は稀有と言っていい。

この学園を選んだ理由は単純明快。学園の徒歩圏内に学生用のアパートが完備され、また家庭に様々な事情を抱えた生徒へのサポート体制が万全に整えられていたからだ。



「おはよう、お父さん、お母さん」


制服へ着替え終わったシトラスは、チェストの上に飾られた写真立てを手に取る。二十代半ばから三十代と見られる若い夫婦に挟まれて、幼いシトラスが笑顔で写っている写真は、彼女が孤児となりそれまで住んでいた家を出て行くことになった時に、唯一手元に残った思い出の品だ。



そう、シトラスには両親がいない。彼女がまだ幼い頃に事故に遭い、二人とも還らぬ人となった。



「今日はいい天気だよ。そろそろ衣替えの季節かな」



シトラスは写真の中の両親に向けて語りかけながら窓辺に向かうと、レースカーテンを開け放つ。すると、眩いばかりの陽の光が部屋に満ちていき、灰色に染まった世界に色を与えた。



キッチンへと向かうと冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、フライパンを火にかけて油を引く。その間に食パンをトースターに入れてタイマーをセットした。


「ポメっ!ポメっ!」


「はいはい、もうちょっと待っててね」


焼き上がったパンを皿に移し、その上に目玉焼きとハムを乗せる。そして、最後にカットトマトを乗せて完成だ。


ここに至るまでおよそ10分前後。もうすっかり慣れたものだ。料理が得意なわけではないが、最低限のことは出来る。限られた予算の中で自分に必要なものを買い揃え、生活を組み立てていく。右も左も分からずに慌てていた頃に比べたら、今の自分は随分と成長したものだとシトラスは自負していた。



「よし、出来た」


「ポメポメっ!」


 ちょこんと座って待っていたポメポメが、シトラスの声に反応してぴょんと飛び跳ねる。


「ポメポメはこっちね」



そう言ってシトラスは、肉球のイラストが入った深めの器を取り出す。器に盛り付けられたキャットフードの上には、細かくカットされた鶏のささみが乗っていた。



「大家さんがお裾分けしてくれたんだよ。今度会ったらお礼しないとね」


「ポメポメっ!」


言葉の意味をわかっているのかいないのか。ポメポメは嬉しそうに返事をする。シトラスは微笑んで、ポメポメの頭を優しく撫でると、自らもテーブルに着いて食事を始めた。



『──続いてのニュースです。先日ロストルム市で起きた集団失神事件に関して警察は原因不明と発表しましたが、専門家によりますと──』



「……ロストルムって、ここから結構近いよね。大丈夫なのかな?」


 テレビから流れるニュースを耳にしながら、シトラスは呟く。


 この報道が出る前から、最近報じられるニュースは少し不思議で不気味な内容のものばかりだ。


 突然体調不良を訴える人々。


 街中や学校、或いは会社で集団失神。


当初は新たな流行病の発生かと疑われたが、医療機関に搬送された人々からはそういった類の痕跡が見当たらず、ただ急に衰弱して昏睡状態に陥ってしまうのだという。


しかも老若男女問わず、直前まで健康そのものだった者も関係ないらしい。症状が出た人の中には、病院に収容されたまま未だに目覚めない人も少なくないという報道もあった。


「大変だね……早く解決するといいけど……」


「ポメっ!」


 心配そうな表情を浮かべるシトラスだったが、ポメポメが一際大きな声で鳴くと、彼女はハッとして笑みをこぼす。


「ラコルトではまだそういう事件起きてないし、きっと大丈夫だよ」


「ポメっ!」


ポメポメに、というよりも自分に言い聞かせるようにそう言うと、シトラスは食器を重ね、シンクへと運ぶ。


学校に向かう時間が、刻々と迫っていた。


 


 


 


 ***


 


「それじゃあ、行ってくるね」


「ポメ~!」


 玄関先でポメポメをひと撫でしてから、シトラスは扉を開ける。アパートから学園までは徒歩10分前後。いつもより早めに支度をしたおかげで、時間には余裕があった。


「シトラスっ!おっはよー!!」


「わあっ!?」


 背後からの衝撃に、シトラスは思わず声を上げる。シトラスよりも少し背の高い、毛先がほんのりとピンク色に色付いた金髪をツインテールにした少女が、後ろから抱え込むようにシトラスに抱きついていた。


 シトラスと同じ聖フローラ学園の高等部二年に籍を置く、キルシェ・シュトロイゼル。彼女はシトラスのクラスメイトであり、親友でもある。



「びっくりしたぁ……おはよう、キルシェ。朝から元気だね」


「あったりまえじゃん!今日は何の日か忘れちゃった?学校が終わったら駅前に出来た新しいスイーツ屋さんに行くって言ったでしょー!」


そう言えば、昨日の放課後にそんな話をしていた気がする。


今思い出した、と言わんばかりの表情で申し訳なさそうに苦笑いするシトラスに、キルシェは不満げな様子で頬を膨らませた。



「あ、さては忘れてたな?しっかりしてくれよー。キルシェちゃん超楽しみにしてきたんだからね!」


「ごめん……でも私も楽しみだよ。だからその……そろそろ降りてくれると嬉しいかな……」


「ん?あーごめんごめん!」


 

 小柄なシトラスに体重を預けていたことに気付いたキルシェは、ぱっと離れて隣に並ぶと笑顔を見せる。



「あ~もう待ちきれない!早く学校終わんないかな~!」


「キルシェ、まだ学校に着いてもないよ」


 シトラスは呆れたように笑うが、内心では同じ気持ちだった。

友達と一緒に美味しいものを食べたり、遊んだりする時間。その楽しさをシトラスに教えてくれたのが、キルシェだ。


人懐っこく誰にでも声をかけるキルシェと違い、シトラスはどちらかというと内向的で、話せる友人も数少ない。キルシェがおしゃべり好きな一方、シトラスはどちらかというといつも人の話を聴く側だ。


性格も行動パターンも全く違うのに、何故かキルシェと一緒にいることは心地良い。シトラスにとってそれは不思議で、だけどとても幸せなことだった。



「ねぇねぇ、今日行くスイーツ屋さんで売ってるクッキーなんだけどさっ!このネコちゃんのクッキー、ポメポメにそっくりでかわいくない?」


放課後が余程待ちきれないのか、キルシェはスマホで今日行く予定の店のサイトを開いた画面を見せてくる。シトラスは画面を覗き込むと、確かに可愛らしい猫の形のクッキーが並んでいる。


「ほんとだ……かわいいね。ほっぺがまんまるなところとかそっくり」


「わっかるー!あぁ~ポメポメもお菓子が食べれたらお土産に買うんだけどなぁ……」


「猫はお菓子食べられないからね」


「己が食べるしかないかぁ……」


 冗談めいた口調で言いながら、キルシェはスマホをカーディガンのポケットにしまう。その動作を見ながら、シトラスはふと気付く。


「……キルシェそれ、また新しいカーディガン?」


 キルシェが着ているのは、パステルピンクのニット生地のカーディガンなのだが、聖フローラ学園の学校指定のものとは違う。シトラスが指摘すると、キルシェはギクッと肩を揺らして目を泳がせた。


「た……たはは~……実はこの前まーたドロちゃんに見つかっちゃって……」


ドロちゃん、というのは聖フローラ学園高等部の生活指導を担当している女性教師ドロッセル・キャステインのことだ。


若く美人であることや面倒見の良さから人気のある教師だが、校則違反や生活態度の悪い生徒を見つけるとすぐさま捕まえ、反省文を書き終えるまで教室から出ることを許さないなど、規律に関しては校内の教師の中でもトップレベルに非常に厳しい。


そのためごく一部の生徒たちからは「鬼のドロッセル」と渾名され恐れられている(キルシェのように「ドロちゃん」呼ばわりする者はごく少数派だ)。


「えぇっ、また?!前に見つかった時、反省文書かされたって言ってなかった?」


「ふっふっふ……侮るなかれ。今回はなんと…………反省文に加えて、歴代生徒指導担当教師監修の生徒に反省を促す教育ビデオ全編60分!体操付き!!」


「うわぁ……」


シトラスは思わず顔をしかめる。あの先生なら確かにやりかねない。

というか何なんだ、生徒に反省を促す教育ビデオって。しかも1時間。

全く内容は想像つかないが、見ていて苦痛であることは間違いなさそうだ。


「キルシェ、見つかったら没収されるのになんでいつも自分のカーディガン着てくるの?」


「んー、だってこっちの方がかわいいし、学校指定のセーターだと今時期ちょっと暑いんだよね~」


そう言うと、キルシェはシトラスの前でくるりと回ってみせる。パステルピンクのカーディガンは確かにキルシェに良く似合っているし、学校指定のものとは違う白いニーソックスもキルシェの脚の長さを際立たせている。


確かにおしゃれだしキルシェらしいとシトラスは思うが、先生に目を付けられそうな格好をするのは友人として心配な気持ちになる。


「へーきへーき!ドロちゃん以外の先生は割と見逃してくれてるし、服装検査の日さえちゃんと制服着ていれば問題なし!」


「そ、そうかなぁ……」


 あまりそうとは思えないが、本人がこう言っているのだからこれ以上口を出すのは余計なお世話だろう。 シトラスは苦笑すると、話題を切り替えたキルシェの言葉に耳を傾けながら学園までの道のりを歩いた。

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