赤椿

砂々波

第1話

普通の人間になるのが怖かった。


じわりと滲む赫が綺麗でした。

役目を終え、排外される椿のように垂れるそれは、僕が未だ脈打っていることの証明でした。きーんと肌に響き、やがて熱を帯びる感覚にかき氷を頬張った夏が思い出されます。

夏。

僕が死ぬだけの季節。


「それでさー__」

遠くで友人の話す声が聞こえる。

近くに居るのに、鼓膜に届く声は僕を疎外している。

誰かの打った相槌に、掠れた笑い声を飛ばす。

それが友人の耳に届いていようがいまいがどちらでもいい。

第三者から見た時に、彼が機嫌を損ねず、僕が楽しそうであればそれでいいんだ。


その日は、いつもよりイライラしていた。

唾を飛ばす教師、騒ぐ女子の声。うるさい、何もかも。

違う、こんなのはただの八つ当たりだ。

暑くて、暑くて、

どうしようもない疎外感と、虚無に押しつぶされそうだったんだ。

何をしても、彼らはそっと笑い声を立てる。

僕の心の中で。

あ。

体が、ふわっと宙に浮く。

全身の毛が、何かを囁くように逆立った。

やってしまった。

気づいた時には遅かった。

赤黒い液体は、僕のデスクを、視界を侵食する。

冷や汗が、滞りなく流れる。

震える手で、携帯をとった。

あ。


「___」

「先生、起きました。」

僕を覗き込む、白い影。

頭上で明滅するそれはやがて二つに分裂した。

「気分はどうかな?」

「…ふつう…」

嘘だ。

死ぬほど気持ち悪い。

今日は何も食べてないのに、

いや食べてないからかな。

白い影は、何かを話している。

「もうこんなことしちゃ駄目ですよー」

なんで?

言葉は費えた。

眠くて眠くて、仕方がなかった。


「_」

目覚めた時、もうそこに白い影はなかった。

幻覚、一瞬よぎった安堵を、白い天井が早急に塗り替える。

あぁ、やってしまった。

腕に巻かれた白い布が、事態を物語っていた。

頭を持ち上げると、後頭部に鈍い痛みが走った。

「あ、」

「あ、」

交差する母音。

目が合った。

相部屋か。

「ごめんなさ」

「待って!」

カーテンを引っ張る腕が止まる。

唖然とする僕をお構いなしに彼は言葉をつづけた。

「君、名前は?」

「…久我。」

「下」

「然音」

ちかね。彼は舌足らずな子供のように繰り返した。

名前を一回で聞き取ってもらえるのは久しぶりだ。

きらきら、とまではいかずとも、珍しい名前だから。

「…君は?」

機転を利かすこともできず、僕は半ば社交辞令じみた言葉を返す。

「俺は斎藤千秋。」

ちあき。小さな声で繰り返す。

千秋と名乗る少年は、

僕と年齢は変わらないように見えた。背丈も。

ただ、両方の耳には光る金属がぶら下がっていた。

俺とはまるで違う人間。

…うらやましい。

「…ごめん、突然迷惑だったよね。

俺と一緒だったから、つい。」

一緒?

顔を上げる。

先ほどとは少し違う笑みを浮かべ、左手を差し出す千秋。

驚いた。

左手が忘れていたとでもいうように、痛みを取り返す。

脈打つそれが、腕からくるものか、心臓からくるものか分からなかった。

「…全然、迷惑なんかじゃないよ。」

「そう?ならよかった!」

透き通る、夏のような笑い声。


案の定、僕と千秋は同い年だった。

背は少し僕の方が大きいぐらい。

彼はそれを不満そうに笑った。

千秋はよく喋る子だったから、僕たちはすぐに打ち解けた。

学校が、家が、世間が、

僕たちはいろんなことを話した。

朝が来たら、僕は彼を起こす。

落ちた布団を被せると、千秋は決まって、僕が起きるが早すぎる。と文句じみたことをいう。

低血圧な僕は体温が低かった。

それをきまって彼は、死んでるー!とはやし立てた。

言い返す僕と、彼の心底愉快そうな笑い声に、看護師が飛んでくる。

静かに!と、言う看護師の顔は優しかった。

普通じゃない僕が普通じゃない彼のおかげで普通を手に入れられたみたいで。

楽しかった。ほんとに。


早朝の暑さもだいぶ和らいだころ

それは起こった。

いつもと変わらない朝だった。

いつも通り太陽は登り、僕は目覚める。

カーテンを開け、落ちている彼の布団を持ち上げる。

ぴしゃりと、何かが落ちた。

ぐちゃりと、右手が湿った。

その、手に纏わりつくような感触を、僕はよく知っている。

これは___

駄目だ。だめだ。

動けなかった。

足に根が張ったように。

動いてはいけない気がした。

まだ、まだ。


ピッ


長閑な音楽に、焦燥が駆られる。

<どうしましたー?>

語尾を伸ばす看護師の癖がこの時ばかりは鬱陶しかった。

でも、言葉が出てこない。

ただ、千秋。という言葉が、連続して浮かぶばかり。

「千秋が…」

<千秋君がどうかしたのかな?>

喉ががくがくと震えた。

氷で蓋をされているようだった。

「千秋が…」

<千秋君どうなってるかな?>



_滑り落ちたナースコールが歪に音を鳴らしている。

看護師はまだ何かを喋っていたが、僕には到底理解できなかった。

「千秋…」

___________

「ちあき…」

返事はない。

体温がいつもより低い体の上を、鮮赤が這っている。

揺さぶっても、彼が起き上がることはなかった。

いつもみたいに、「起きるの早い!!」って、不満そうに言うことも、

「体温低くね!ちかね死んでるわ」って、笑うことも、

うるさいって、いつもみたく看護師に怒られることも。

なかった。_____


「…ねぇ、千秋。」

僕、起きるのが遅くても怒らないよ。

巻き添えで怒られても今日だけは文句言わないよ。

だからさ、明日になったら、


「然音君、入るよー」

看護師の声が扉を叩いた。

でも、僕たちを叱るためじゃない。

僕たちを叱るような、優しい笑顔じゃない。

「千秋君!」

ただ、白い人影と、怒号と、鉄の匂いが、あった。

気が付くと、僕はいつの間にか

部屋の外にいた。

隣に千秋はいなかった。

防護マスクをした看護師が、僕の手を握っていた。

「…」

「…千秋は…」

彼女は何も言わなかった。

遠くで、人を呼ぶ声が聞こえる。

佐藤、宮川、斎藤。

三人目が呼ばれた後、彼女はふと立ち上がり僕の手を引いた。

歩いているうちに病室はなくなった。

日の当たらない廊下を、無言で歩いた。

静寂が響く廊下は寒かった。

古びた金属が、音を立てて倒れる。

部屋の名前は見ないことにした。

部屋は白かった。

白い棚に、白い布。

棚には何もない。枯れかかった植物が葉を散らしているくらい。

看護師は已然、何も言わない。

促されるようにそっと、布をめくった。

大丈夫、大丈夫。そう唱える、彼が言ってくれたように。

いや、

嘘だ。

分かっていた。ずっと分かっていたんだ。

見ない、ふりをしていた。

現実から目を背けたくて、知らないふりをしていた。

頭が痛い。

無意識のうちに歯を食いしばっていたようだ。

「…しんだの?」

「…うん。」

「…二人にしてもらえますか?」

「うん、大丈夫よ。…外にいるからね。」

がちゃん。

もう一度、顔を見た。

いつもと変わらない顔があった。

ぐちゃぐちゃになったわけでも、酷く青ざめているわけでもない。

でも、わかる。もう千秋は此処に居ない。

ただ、空っぽになった質量が横たわっているだけだ。


どうしようもない阿保で、どこまでも呑気で、いつも空気が読めなくて、ほんとうに馬鹿な

君は突然に、僕を勝手に救った。

暗闇に根を張る僕を勝手に日の下へ投げやった。そして

悪くないでしょ。とでも言うように笑ったんだ。

君は僕を好きだと言ってくれた。

聡明で、他人思いで、優しい僕を。

だから、僕は君を救うことができなかったんだね。

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赤椿 砂々波 @koko_22

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