プロローグ下
穴の中は一片の光もない真っ暗闇だった。
上を見ても入ってきた入口は見えない……というか、そもそも上下の感覚が希薄なので上を向いている自信すらない。
その暗闇を落ちていく感覚が数秒から十数秒ほど続く。
何か取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないか……そんな不安が頭を過った頃、視界が一気に開け、同時に浮遊感に襲われた。
「うぉっ!?」
空中で体勢を変える――なんて器用なこともできず、1~2メートルほどの高さから顔面で着地してしまった。
「いててて……」
鼻を擦ってみるが、鼻血などは出ていない。
幸いにも、分厚い落ち葉の山がクッションになっていたようだ。
「……って、どこだ、ここ?」
あたりを見渡すと、そこは尾道村の雑木林ではなく、ただただ鬱蒼とした森が広がっていた。
木々の隙間から空が見えるので夜ではないはずだが、ひたすらに薄暗い。
ふと、中世暗黒時代のヨーロッパの森は延々と続く広葉樹のせいで昼間も薄暗かったという話を思い出した。
こんな場所では方向感覚も狂ってしまいそうだ。
後ろを振り向けば、足元にはさっき見たのと同じ真っ黒の穴が開いている。
またこの穴に入ったら、元の場所に帰れるのだろうか?
下手に動き回ると穴の場所を忘れそうだし、一旦帰れるか試してみるか……。
そう思案していた時だった。
「तुमी कोण?」
突然前方から声がかかり、俺は弾かれるように目線を向けた。
目の前にいたのは、豪奢な白のローブを身に纏った人物だった。
北欧人っぽい顔立ちに、ナチュラルな銀髪と碧い瞳。
背丈は日本人平均くらいの俺よりも10センチほど高く見える。
中性的だが、声の感じからしてたぶん男。年齢は……二十代後半くらいだろうか。
「आयकूंक येता?」
ちなみに何を言っているかは全く分からない。
俺の困惑を見てか、男は顎に手を当てて何かを考え込む。
俺も拙い英語でコミュニケーションを図ってみるべきかと思い、「は、はろー……」と言いかけたところで、男は顔を上げた。
「『तुमची इत्सा पावोवची』……あー、これで通じるかい?」
突然流暢な日本語を話し始めたのでこっちが驚いてしまう。
「に、日本語喋れたんすね」
思えば、約半年ぶりの他人との会話だ。
幾分吃ってしまった俺に対し、男はきょとんとした表情で首を傾げた。
「ニホンゴ……? 君の国の言語のことかな。これは翻訳魔術を行使しているだけだよ」
「は、はあ?」
ほ、翻訳魔術? 異世界ファンタジーやらでよく聞くあれのことか? 揶揄われてるのか?
「僕も久しぶりに使ったんだ。正しく機能するか不安だったけど、言葉が通じているようで何よりだよ」
「…………」
爽やかイケメン顔で何言ってんだ……いや待て、よく見たら口の動きと声が全く合っていない。
例えるなら、字幕映画を見ているような感じだ。気にしなければ問題ないが、注意して見れば違和感に気づける。
「申し遅れたね。僕の名前はアルベルク。親しいものはアルと呼ぶよ」
「そして」と続けながら――
「不肖ながら、レーメ王国の宮廷魔術師に任じられている」
……共感性羞恥というやつか、変な鳥肌が立った。
俺より年上であろういい大人が、真顔でこっ恥ずかしいセリフを言っている事実に、思わず渇いた笑いが漏れてしまう。
当然ながら、レーメ王国なんて名前の国家はは知らないし、この腹話術みたいなのも何らかのトリックに決まっている。全部トリックだ。
野菜星人が出てくる某漫画の世界チャンピオンみたいなことを考える俺をよそに、男――アルベルクの視線は俺の足元の穴に向いていた。
「ふむ、君は魔術に馴染みのない土地からやってきたようだね。そのゲートを通ってこの地に迷い込んだんだろう?」
ゆっくりとこちらに歩いてくると、屈んで足元の穴を検分する。
「うん。やっぱり自然発生したゲートのようだね。随分と遠くに繋がっているみたいだ」
「それってどういう……」
「待って」
質問を投げかけようとする俺を片手で制し、アルベルクは向こうの茂みに目をやった。
「まだ生き残りがいたか……。まあ、正確には生者ではないけれど」
「グアアアアァ!!」
そこから現れのは、襤褸を纏ったゾンビだった。
ゾンビは奇声を発しながら、緩慢な動きでこちらに向かってくる。
アルベルクは全く焦る様子もなく、手をゾンビに翳す。
すると、不可思議な魔法陣が現れ――そこから飛び出した斬撃が横一閃、人影を腹から真っ二つに切り裂いた。
……なんじゃ、そりゃ。
「グギャ」
「うわっ」
憐れにも吹き飛んだ上半身が俺の目の前に落ちる。
一瞬痙攣したが、すぐにピクリとも動かなくなった。
顔は原型を留めていないほどデロデロで、皮膚は生気のない土気色、血液も赤というより黒ずんでいる。
よくよく見れば、それは俺の見知ったゾンビをより汚くしたような何かだった。
呆然とする俺を見て一つ頷くと、アルベルト滔々と話し始めた。
「先日、この森でグールが大量発生しているという報告を受けてね。僕はその討伐に駆り出されたというわけさ。近隣の村は結界に守られているが、このままではおちおち薬草採取もできないと陳情があったんだ」
「……グール」
「そう。グール。そいつみたいな、動く屍のことだ」
ゾンビではなく、グール。それがこいつの名前らしい。
「グールをはじめ、モンスターは魔素の強い場所で自然発生する。見ての通り、一匹一匹は大した強さじゃないけど、噛まれた者は
「……噛まれたら丸一日くらいでグールになるんですか?」
「よく知ってるね。グールに噛まれた場所には
「ちなみに、こいつって朝方に弱くなったり……」
「うん。グールに限らず、アンデッド系のモンスターは夜の住人だからね。元が人間の
「なるほど……」
「グールには詳しいようだね。君の元いた場所にもいたのかい?」
「……そうですね。それなりに」
それなりというか、噂によると地球の総人口の半分くらい。
「…………」
……もう認めるしかないだろう。おそらく、ここは地球ではなく、どこか別の世界。
最初の感染者となった少年は、このゲートを通ってここへとやってきた。
そして、グールに噛まれてしまい、元の世界に戻って呪いを大拡散してしまったと……。
「……その、グールになった人間を元に戻す方法は……?」
問いかけると、アルベルクは俺の目を真っすぐに見て断言する。
「ないね。少なくとも僕は知らない。
……ということらしい。地球でゾンビに変わった人々を救う術はなさそうだ。
ゾンビ映画好きといえど、ゾンビが我が物顔で闊歩する世界を生きていきたいわけではない俺はがっくり肩を落とした。
そんな俺の様子を気にすることなく、アルベルクは興味深そうに足元の穴を見ていた。
一応確認のつもりで訊いてみる。
「……そこに入れば、元いた場所に帰れるんですか?」
「ん? ああ、そのはずだよ。今のところは安定しているようだし、しばらくは繋がったままだろうね」
「……そうですか」
よかった。もう帰れないなんて言われたらどうしようかと思った。
「で、これからどうするんだい?」
「え?」
どうするとは……? 普通に帰ろうと思ってたんだが……。
「せっかく遠くまで来たんだし。観光でもしていったらどうだい?」
「か、観光?」
「ああ、町に行きたいのなら案内するよ。僕の見立てでは、あと十日くらいはゲートが閉じることはないだろうし」
「それは……」
……そうか。そういう選択肢もあるのか。
地球に戻ったらゾンビ――正確にはグールか――が相変わらず猛威を振るっているが、こちらの世界は、少なくとも地球のような事態には陥っていないはずだ。
それに、観光と言わず、いっそのことしれっと異世界で新生活を始めることだってできる。
この世界の文明レベルは知らないが、魔術とかいうファンタジーど真ん中の力も存在しているらしいし、それに心躍らないと言ったら噓になる。
……だが。
「…………帰ります」
一度町に行ってしまったら、そのまま定住を願い出るだろう自信がある。
きっとこちらの世界には、新鮮な食料がたくさんあるだろうし、俺の知らない心躍る景色もたくさんある。
だけど、やっぱり俺がいるべきなのはあちらの世界だと思う。
残してきた家族や恋人なんていないが、残してきた思い出はある。
「……そうか。それじゃあ、これをあげよう」
アルベルクは一つ頷くと、俺に向かって何かを首飾りのようなものを差し出してきた。
「これは……?」
「浄化のアミュレット。元は中央教会が資金繰りのために売り出したものなんだけど、効果は本物だよ。こうやって……」
と言って、集中するように目を細めると、銀製の細かい意匠のアミュレットにはめ込まれた透明の石が発光しだした。
光はどんどん大きくなり、まるで結界か何かのように遥か遠方まで広がっていく。
「なっ!?」
足元にあったグールの残骸は光に触れた瞬間、灰のようにボロボロに崩れて消え去り、辺り全体が神聖な空気に包まれたような気さえする。
グールを倒した魔術にも驚かされたが、今回のは規模が段違いすぎた。
驚愕で声が出ない俺を見て、アルベルクは少し得意げに鼻を鳴らした。
「君の故郷にもグールがそれなりにいると言っていただろう? このアミュレットは魔力を込めている間、周囲に簡易的な結界を張ることができるんだ」
「念のために持ってきたんだよ」と言いながらアルベルクが差し出してくるそれを、俺は呆然としたまま受け取った。
「僕なら辺り一帯を覆うこともできるけど……君の魔力だと、全力で込めても身体を覆うくらいが限界かな。魔道具を使ったことはあるかい?」
「え、俺にも魔力ってあんの?」
聞き捨てならない言葉が聞こえたので、思わずタメ口で反問してしまった。
「もちろん。……その様子だと経験もないようだね。僕が特別にレクチャーしてあげよう」
アルベルクがアミュレットを握った俺の右手を下から包み込む。
その瞬間、心臓が大袈裟なくらいドクンと跳ね、胸の奥底が熱を帯びる。
な、なんだ。いくら中性的なイケメン相手とはいえ、俺にはそっちの気はなかったはず…………あれ?
「気が付いたかい? その感覚が魔力だよ」
例えるなら、小指の先ほどの生温かい液体が胸にあるような、そんな変な感覚だった。
同じ感覚――いや、それより遥かに大きい感覚がアルベルクの掌からも流れ込み、それが俺の胸まで達すると、引っ張られるようにグルグルと俺の魔力が動き回る。
「うっぷ」
「あ、ごめんごめん。少し強引だったかな」
おえぇ……三半規管を刺激するような不快感に襲われ、思わず朝食ったカロリー豊富なブロック食料を吐きかけた。
アルベルクは苦笑し、今度は幾分ゆっくりと動かされる。
胸からつま先に、つま先から頭頂部に、頭頂部から左手に移り、最後は握られた右手に落ち着く。
「今の要領で、魔力をアミュレットに込めるんだ。できるかい?」
「や、やってみます」
アルベルクが俺の右手を解放する。
俺は自分の右手に集まった魔力をアミュレットの方に動かそうとしてみるが……中々上手くいかない。
動かせそうな気はするのだが、接着剤か何かでへばりついているように固く感じる。
「そうじゃない。魔力自体を動かすんじゃなく、魔力が元々違う場所にある、とイメージするんだ」
元々違う場所にある……。
「魔力は実体に依存する力ではなく、精神体に依存する力だ。だから、精神体の認識を書き換え、元々そこにあったことにするんだ」
……なるほど。完全に理解できたかは怪しいが、なんとなく言っていることはわかった。
この魔力という不可思議な力は、俺の中ではなく、元々アミュレットの方に存在している。そうイメージし、強く自分に言い聞かせる。
すると、あんなに強固にへばりついていた魔力が、するりとアミュレットに向かっていった。
そして――
「おおお」
魔力がアミュレットに移った途端に、真っ白い光が俺を包み込んだ。
それはまさしく、先ほどアルベルクが出した光をスケールダウンしたようなものだった。
人生初の魔法体験だ。
ファンタジーモノにはさほど明るくない俺だったが、ぶっちゃけめちゃくちゃ感動している。
「あっ」
と、集中が切れた瞬間に光は消えてしまった。
「長時間維持するには修練が必要だろうね。さっき見た通り、その光に触れたグールは浄化され、全身が灰となって消え去る。
……なんか、とんでもないものを貰ったんじゃないだろうか。
「今さらですけど、これってすごく貴重なものなんじゃ……」
「うん? まあ決して安くはないけれど、僕にはあまり必要な道具ではないからね。気にしなくていいよ」
気にしなくていいよと言われましても……。
俺には返せるものなんて何もないし……ここまで良くしてもらうと、流石に何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
「僕は他人に親切をするのが好きなんだ。ほら、親切ついでに、何か訊いておきたいことはないかい?」
「えっと……」
アルベルクの笑顔は全く以って屈託がない。
それを見た俺もなんだか毒気を抜かれてしまい、彼の言葉に甘えることにした。
そもそも、アルベルクがその気になれば俺なんか一捻りだろうし、考えるだけ無駄だろう。
「それじゃあ……」
それから何点か気になっていたことを質問すると、アルベルクは気を悪くした様子もなく答えてくれた。
主に魔力、魔術に関してだが、魔術は立ち話の延長で教えるのは無理らしく、ある程度の概念や概要について聞いただけだ。
グールに関しても俺の知らない情報をいくつか得られたが、特に驚いたのは元が人間の
基本的にグールは全身ボロボロで傷だらけのため、グール化した原因の傷跡を肉眼で見分けるのは困難だ。
こんなもの、魔力が認知されていないあちらの世界の住人にどうにかできるわけがない。
……ああ、それと最後にもう一つ。流石に無理かと思いながらも駄目元で頼んでみると、少し驚きながらも、快く引き受けてくれた。
話と頼み事を終えた頃には、森はいっそう暗さを増したように感じた。こちらに来た時間を考えれば、まだ正午にもなっていないはずだが……もしかしたら地球とは時差があるのかもしれない。
「もういいのかい?」
「……はい。何から何まで、ありがとうございました」
そんなわけで、欲しい情報は得られたので、そろそろ元の世界に帰ることにした。
アルベルクの見立てだと、ゲートはあと十日くらいで閉じてしまうらしいので、おそらく二度とこちらの世界を訪れることはないだろう。
まるで小説のようなファンタジー世界を惜しく思いながらも、あちらの世界でやっていくための十分すぎる成果を得られたので良しとする。
「あ、そういえば」
戻る時はまたゲートに手を突っ込めばいいんだろうか? などと考えていたところ、アルベルクは思い出したように声をあげた。
「君の名前を聞いていなかったね」
「…………あ」
確かに、一度も名乗っていなかった。
あちらは最初に名乗ってくれたのに。
なんという社会人としてあるまじき振る舞い……上司に知られたら大目玉だ。もう会社は存在しないが。
「す、すみません」
改めてアルベルクに向き直る。
「俺の名前は小太郎です。荒木小太郎」
それを聞き、アルベルクは何故か少しだけ目を見開いたように見えた。
「……そうか。それじゃあ、元気でね。また会おう、コタロー」
また会おう、なんて言われても、きっと会う手段はないだろう。
ここはあちらとは違う世界なんだから。
しかし、もしも再会できたなら、それは俺があちらの世界を無事に生き延びたということでもある。
だから、俺は力と知恵を授けてくれた恩人に対し、願掛けの意味も込めて返した。
「…………はい。また会いましょう。アルさん」
その屈託のない笑顔を目に焼き付けて、俺はゲートへと手を伸ばした。
こちらの世界に来た時と同じように、俺の身体は不思議な力でゲートへと吸い込まれていく。
……後悔がないと言えば嘘になる。
だが、これが俺の選択だ。ゾンビ――いや、グールの溢れる世界で、俺はこれからも生きていく。
SFのゾンビ映画とは違うけど、不可思議なファンタジーが紛れ込んだ現実の世界で。
そんなことを考えながら、俺の全身は真っ暗闇に飲み込まれた。
▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲
数十秒ほどの浮遊感。
終わりはまた唐突だったが、今度は予測できていたので、なんとか両足で着地する。
「……夢、じゃないよな」
俺の手に握られているのは、アルベルク――アルさんから貰った浄化のアミュレットだ。
胸に残るじんわりと温かい感覚――魔力の存在も認識できている。
辺りは尾道村の雑木林だったが、ふと上を見上げると、空は茜色に染まりかけていた。
おそらく午後の四時くらいだろう。
アルさんの手前見ないようにしていた腕時計を確認すると、デジタルの文字盤に表示されたの数字は十二時ちょうど――明らかに現在時刻とズレが生じてしまっている。
色々と考えたいのは山々だが、夜になればグールたちが活発に動き出してしまう。
ここで一夜を明かすのはあり得ないので、一刻も早く自宅に帰らなくては。
いや、その前に……。
「……よし、こっちもあるな」
ポケットのメモ帳を開いて、精緻に描かれた魔法陣を見て一つ頷き、急いで車に乗り込む。
そして、俺は来た道をそのまま引き返し、ギリギリ日が落ちきる前に、埼玉の自宅に帰ることができたのだった。
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