第12章「平穏な日々」

 昨日のことはすっかり忘れたように、エンマは、蘭丸の訓練所で、椿とともに修行に打ち込んでいた。

 二人の呼吸はぴたりと合っていて、木刀を打ち合う音が快く響いていた。

 それを、蘭丸と蓮花が離れた所で見ていた。

「昨日、エンマと戦ったんだ。前よりも、随分強くなってたよ。」

 どこか嬉しそうに、蘭丸は言った。

「やっぱりね。あんなに頑張って修行してるんだもの。蘭丸を追い越すのも、時間の問題じゃないかしら。」

「なっ…!絶対に、それはないさ!」

 蓮花の言葉に、蘭丸はむきになって言った。

 そしてエンマの方へ目を移した蘭丸は、急に真面目な顔になった。

「…でも、あいつはやっぱり、俺たちとは違う…。」

「まだそんなことを言ってるの?エンマは仲間でしょう。」

「違うんだ。あいつが魔物だとか、そういうことじゃなくて。昨日、あいつと戦ったとき、訓練所の壁を壊されたんだ。それも、あいつの霊力で。」

「ええっ!?」

 蓮花は、訓練所の壁を見た。

 昨日エンマに開けられた穴は、仮の板で塞がれていた。

 椿が疲れたように手を止めて、休憩のためにこちらへ向かって歩いてきた。

「ああ、疲れた。全くあいつは疲れを知らない奴だよ。」

 水筒を取り出して、椿は水をごぶりごぶりと飲んだ。

「…椿も、昨日見ただろう。」

 蘭丸が話しかけた。

「何が?」

「エンマの霊力だよ。あの壁を壊したときのさ。」

「ああ…。あれね。」

 椿はふんっと笑って見せた。

「しかも、その力を出すとき、あいつの体が一瞬、紫の光に包まれて見えたんだ。あれは一体、何だったんだろう…。何だか、別人みたいだったな。」

「蘭丸も、椿も見たのね。」

「えっ?じゃあ、蓮花も、見たのか?」

 考え込むようにしていた蘭丸が、驚いて蓮花を見た。

「うん…。紫色の光でしょ。私…あのときのエンマが、なんだか怖かったんだけど…。でも、怖いだけじゃなくて…。なんていうか、すごく心が惹きつけられたの。」

 微笑を浮かべながら、蓮花は言った。

「ええ!?」

 それを聞くと、蘭丸は、不可解な顔をした。

「おや?惹きつけられたってのは、どういう意味だい。蓮花。」

 にやにやとして、椿が蓮花を見つめた。

「えっ?」

 蓮花は、きょとんとしていた。

「蓮花。君は気付いていないのかい。今の言い方じゃあ、まるで君がエンマを好きだと言ってるようなもんさ。ふふふ…。」

「な…何を言ってるの!?べ、別にそんなんじゃないわよ!そんなわけないでしょ!」

 顔を真っ赤にして蓮花が言った。

「そ、そうだ!んなわけないだろ!何言ってんだ、椿!蓮花をからかいやがって。」

 そうは言ったものの、内心、蘭丸は動揺していた。

「図星じゃないか。そんなに赤くなってさ。あははっ。」

「違うったら!」

 あまりにも蓮花の声が大きく訓練所に響いたため、エンマも何事かとやって来た。

「なんだ?騒がしいな。」

 エンマが来ると、蓮花は慌ててどこかへ走り去って行ってしまった。

「…何があったんだ?」

「椿のせいだぞ!」

 蘭丸は、笑っている椿を睨んだ。

「僕は、本当のことを言っただけさ。僕には分かるんだよ。」

「…ちっ!エンマ!てめーって奴は…!」

 蘭丸は、椿から今度はエンマに鋭い目を向けた。

「は?俺がなんかしたのか?」

「エンマ。この際だ、ハッキリ言っておくけどな。俺は蓮花がこの世で一番好きなんだ。」

「そんなの、てめーを見てりゃ分かるぜ。でも、なんだっていきなりそんなことを…。」

「お前はどうなんだ!蓮花を…どう思ってるんだ!」

 真剣な蘭丸の脇で、椿は必死に笑いを堪えている。

「どうもこうもねえぜ。何をそんなに心配してんだか知らねえが、俺はお前らの邪魔はしねーから。好きにしてろって感じだぜ。」

 エンマはうんざりしたように言った。

「だからってなあ、俺は修行のために蓮花に教わることもある。それを見て、すぐにてめーはああだこうだと言ってくるだろ。俺にそんな気はねえから、頼むから変な嫉妬を起こしたりしねえでくれよな。うざくてしょうがねえよ。」

「本当だなっ!ほんとにお前は、蓮花に気がないんだなっ!?」

 蘭丸は、エンマの肩を強く掴んで聞いた。

「ねえってんだろお!うっとーしいな!」

 エンマは蘭丸の手を乱暴に振り払った。

 蓮花は堪りかねて、訓練所を出て一人で先に帰っていた。


 次の日、毎日のように蘭丸の家へやって来る蓮花は、いつまでたっても来なかった。

 蘭丸はずっと昨日のことを気にしていたが、エンマはいつもと変わりなく朝から修行に励んでいた。

「蓮花、風邪でもひいてんじゃあねえだろうな。今日こそ、伝視ってやつを教えてもらおうと思ったってのに。さっさと心眼も会得したいしな。」

「エンマ。本当にお前には修行ばっかりなんだな…。」

「当たり前だろ。じじいの仇を討ちてえからな。」

「お前には、俺の悩みが分からないんだろうな。」

「悩み?…また蓮花のことか。」

「こんなことをお前に言うのもなんだが、蓮花は、幼馴染の俺のことを、兄弟のようにしか思ってくれてないんだ。だから、どんなに俺が好きだと言っても、相手にしていないんだよ。それが悲しくてさ。」

「んなこと言われても、俺には分かんねえな。なるようになるんじゃねえのか。」

「…確かにそうかもしれないな。くよくよしててもしょうがないんだ。これからは俺も、もっと修行に打ち込んで、蓮花に認めてもらえるように頑張ろうかな。」

 蘭丸はそう言って晴れやかな空を眺めた後、エンマと朝の修行を始めた。

 その後、朝餉を済ませたエンマは、フータとともにまっすぐ蓮花の稽古場へ向かった。

 稽古場には、蓮花が既に来ていた。

 他の子供たちはまだ来ていない。

「蓮花、今日は伝視ってのを教えてもらうぜ。」

「伝視…。そうだったわね。」

 蓮花は床に座って瞑想したまま、返事をした。

 その向かい側にエンマも座って、じっと蓮花を見た。フータは気ままに飛天術でそこらを飛び回っている。

「伝視はね、視力を高めて遠くのものをはっきりと見えるようにする術よ。まず霊力を意識したら、それを目の方に集中させて…。」

 説明しながら、ふと蓮花の目がエンマの目と合った。エンマは真剣な顔で蓮花を見ている。

「なっ、なんでそんなに人の顔をじっと見てるのよ!」

 思わず蓮花は真っ赤になって声を上げた。

「は?悪りいのか?お前の話をまじめに聞いてるんだが。」

「そんなにじっと見ないで!気になるから!」

 瞑想して落ち着いていた気持ちが、またぐらぐらと混乱するのを、蓮花は感じた。

「なんなんだよ。なんか、様子が変だぜ。具合でも悪りいのか?」

「べ、別に…。」

 ますますエンマの目が自分に近付いてきて、蓮花の混乱は頂点に達した。

「とっ、とにかく今言ったようにやってみたらどう!?」

 いきなり立ち上がって叫ぶと、蓮花は外へ向かって走っていった。

「わけわかんねーな…。」

 とりあえず、エンマは伝視の修行をやってみることにした。

 外へ出て行った蓮花は、頬に手を当てて困ったような顔をしていた。

「ど…どうしよう。エンマの顔もまともに見られないなんて。…もう、椿が変なこと言うから…。」

 気持ちを落ち着けようとすればするほど、心臓はどぎまぎとしてくるばかりだった。

「どうしたんだ?蓮花。そんなにカオ赤くして。」

 フータがそばにやって来て、蓮花の顔を心配そうにして覗き込んだ。

「フ…フータ…。別に何でもないのよ。ちょっと顔がほてっちゃって…。」

「なあっ、さっき兄貴に怒鳴ってたけど、ケンカしたのか?」

「違うのよ。ケンカしたんじゃないの。私がいけないのよ。」

「ふーん。じゃあ、蓮花が謝れば大丈夫なんだな。」

「フータは、それを心配してきてくれたの?」

 蓮花は、高ぶった気持ちが徐々に和らいでくるのを感じた。

「うん。だっておいら、みんな仲良くしていたいからさ。ケンカはいやだよ。」

 きらきらと曇りのないフータの瞳が、蓮花の心を癒した。

「…いいわね、フータは素直で。」

 蓮花は微笑んだ。

「スナオ?」

「思ったことを思った通りに言葉に出来て。羨ましいわ…。」

 しばらくして、気持ちが落ち着いた蓮花は、エンマのもとに戻った。

 エンマは眉間を押さえていた。

「うう…目がいてえ…。」

「どう?分かってきたかしら。」

「目が痛くなるだけで、何にも見えねー。それより、心眼の説明してくれよ。俺としては、そっちのが気になるからよ。」

 エンマは眉間を両手の中指で押しながら言った。

「そうね…。伝視は、あくまでも目に見えるモノを捉える術だけど、心眼は、目に見えないモノを捉える術なのよ。」

「で?どうやって見えねーもんを見るんだ?」

「伝視で得た感覚を、目だけではなく心でも感じること。心の目を開くようにすること。」

「はア?どういうことだ、それは。」

「口で説明したって分からないわ。とにかく、伝視の感覚を掴むのが先。それから心眼が分かってくるはずよ。」

「うーん…。」

 エンマは、ずっと眉間を押さえたり、指で押したりしていた。

「それと、伝視はあんまりやりすぎると目が痛くなったり、頭痛がしたりするから、ほどほどにね。」

 その日は一日中目や頭が痛くて、エンマは、修行どころではなかった。

 家へ帰って寝ていると、みぞれがエンマのために、冷たい水を含ませた手拭いを額に載せてくれた。そのおかげで、大分痛みが治まってきた。

「修行のしすぎで、疲れがたまってるんだろう。よし、明日は息抜きに、湖に連れて行ってやろう。」

 夕餉のときに、氷助が言った。

「みずうみって?」

 フータが聞いた。

「池のでっかいやつだ。泳いだり釣りしたり、楽しいぞ。」

「へーえ!でっかい所なのかあ…。」

 フータは、胸が躍るような気持ちになった。


 その日はエンマも朝の修行はせずに、いつもよりも早めに皆で朝餉をとり、湖へ出かけて行った。

 歩いて二時間ほどの所に、大きな湖があった。

 周りを遠く山に囲まれた、ほとんど海のような広さの湖だった。

 湖面が鏡のように空の雲を映しており、濁り一つない清水が青々と湛えられていた。

「うわあーーっ!でっかいや!広いや!すっげーっ!」

 フータは湖を見回して叫んだ。

「ふふ…。びっくりしたでしょう。」

 みぞれが微笑ましそうにフータを見ていた。

「ひゃあ!冷たいよ!」

 水に足先をつけて、フータは跳び上がった。

「魔物は出ねえのか?」

「魔物は水が嫌いなんだ。だからここには、魔物はいねえよ。」

 エンマの問いに、氷助が笑って答えた。

「蓮花。昔、ここに来たことを覚えてるか?」

 蘭丸が蓮花を見て言った。

「うん。久しぶりに来たけど、ほんとに綺麗な所よね。」

「俺は丁度フータと同じくらいで、蓮花は一つ下でさ。かわいかったなあ…。」

「蘭丸ったら泳げなくて、溺れてたわよね。」

 ふふっと蓮花が笑った。

「え?蘭丸、お前、泳げねえのか?」

 エンマがからかうように言った。

「今は泳げるさ!…蓮花、余計なことを…。」

 ちらっと蓮花の方を恨めしそうに見た後、蘭丸は釣竿を持って、氷助と一緒に岩場の方へ向かった。氷助は、釣竿を持ち、魚を入れるための魚籠びくを腰に幾つもぶら下げて持って行った。

 みぞれは、一緒に連れて来た狼の鈴蘭と竜胆を水浴びさせていた。水着になった蓮花も、みぞれと一緒に鈴蘭たちの世話をしたり、会話を楽しんだりしていた。

 着物を脱いで褌だけになったエンマは、岩の上からざぶりと水の中に飛び込んで、底の方まで潜っていった。冷たい水の感触が身に沁みて、頭痛のしていた頭の中も冴えていくような心持ちになった。

「兄貴!どこ行ったんだよう!」

 フータが、エンマを探していた。

 水から顔を出したエンマは、フータに向かって声を掛けた。

「フータも来いよ!」

「おいら、怖いよ。」

 岸辺に立って、フータはエンマの方を寂しそうに見ていた。

「そうか。泳げねえのか。じゃあ、俺が教えてやるから、水に入れ。」

「冷たいよ。怖いし…。」

 フータは水を見て尻込みしていた。

「フータ。おめえはいくじなしだな。」

「えっ?いくじなしって?」

「弱虫ってことだ。」

「ええーーっ!で、でもおいら…えーーい!!」

 フータは目をぎゅっと瞑って、そのまま水の中に飛び込んだ。

「バカ!服を着たまま水に入る奴があるか!」

「冷たいよーー!」

 水の中でじたばたしているフータを、エンマが岸に上げてやった。

 騒ぎを聞きつけて、蓮花がやって来た。

「もう、フータったら。脱ぎなさい。着物を干してきてあげるから。」

 そう言って蓮花はフータの着物を脱がせて、水気を絞った着物を日のあたる岩場に広げて干した。

「ううっ、寒いよ。」

「水の中に入ってりゃあ、じきに慣れて、体があったまってくるんだ。ほらっ、入りな。」

 エンマはフータを抱き上げて、水の中に入れた。

「うわあー…、ほんとだ。なんかあったかくなってきた。」

 しばらくすると、フータは水の感触に慣れたようだった。

「よーし、じゃあ泳ぎの練習だ。」

 二人の様子を遠くに眺めて、蓮花は、水の中で横になって顔だけを出して浮かんでいた。

「はあーー…。こうしていると、身も心も清められていく感じがするわね…。」

 目を閉じて、蓮花は体を水の流れに任せていた。

 氷助と蘭丸は釣りを競い合っていて、どんどんと魚籠を魚でいっぱいにしていった。

 それぞれ、思い思いに楽しんでいて、魔物のことさえ忘れそうになるくらい、和やかで平穏な時間が流れていた。

「蓮花!おいらも泳げるようになったんだよ!」

 フータが、蓮花の所まですいすいと泳いできた。

「まあ、もう泳げるようになったの。すごいわね。」

「兄貴に教わったんだ。」

「皆で競争しようぜ!」

 そこへエンマも泳いできて言った。

「エンマは勝負することばっかりなのね。少しはこうして、落ち着いてリラックスしてみたらどうなの。禊ぎも、霊力にとってはいいことなのよ。」

「ミソギって何だよ。」

「ケガレを取り去って、身も心も清めることよ。水は神聖なものだから、魔物を寄せ付けないし、心を清浄にすることで、霊力を回復させることも出来るのよ。」

「へえ、そうなのか。でも遊びながらでも、霊力は回復すんじゃねえか?水に入ってりゃ。」

「そういう問題じゃないわ。」

「いいじゃんか!蓮花も泳げるんだろ。みんなで競争しようよ!」

 フータが待ちきれないようにして言って、足をバタバタさせて水飛沫を飛ばした。

「しょうがないわねえ。でも、私だって負けないんだから。」

 気の強い目をして、蓮花は笑って見せた。

 岩場の上から、楽しげな三人の様子を見て、蘭丸は釣竿を置いた。

「ああ、もうやめたやめた。」

「なんだ、蘭丸。もう止めるのか。」

 立ち上がった蘭丸を、氷助が見上げて言った。

「こんなに釣ったんだから、もういいだろ。」

「それなら、俺の勝ちだな。」

 がはは、と氷助は豪快に笑った。

「何でもいいよ。俺も泳いでくる!」

 着物を脱いでそれを綺麗に畳んで岩場に置くと、蘭丸は水の中に音も立てずに飛び込んで、エンマたちの方へ泳いでいった。

「おっ、蘭丸も競争するか?」

「泳ぎだって俺は負けないぜ。」

 ここからそれほど遠く離れていない所の向こう岸までと決めて、皆で一斉に泳ぎ出した。

 途中でフータが足をついて、皆に遅れた。他の三人は、どんどんと向こう岸まで泳いでいく。それを、フータも一所懸命に追いかけていった。

「やったぜ!」

 先に向こう岸に着いたのは、エンマだった。その後に蘭丸、蓮花の順に着いた。

「ちくしょー。エンマは速いな。地上戦は俺の勝ちだが、水中戦はお前に負けたな。」

 悔しそうに言いながらも、蘭丸は楽しげに笑っていた。

「よくじじいと川で泳いでたからな。魚もそこで獲ったりしてな。楽しかったなあ。」

 エンマは幼い頃のことを思い出して、晴れの空を見上げた。

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