第七巻「いちばん暗いのは夜明け前」

第一章 深潭の水底


1


春も終わりが近付いて、最近では雨も多くなって来た。

神聖オルヴァドル教国はアーデルヴァイトの南方諸国に位置する為、日本と比べればかなり南にある。

日本であれば梅雨はもう少し先だが、オルヴァの空はすでに梅雨空のよう。

雨季こそ無いが、少し雨の降りやすい時季が続く。

あれからまだひと月経っていない。

右手のアストラル体はオーガンに治療して貰ったが、物質体の方はキャシーに培養して貰っている最中だ。

今は、レザーグローブを嵌めて念動でそれっぽく動かしたりしているが、少し不便だな。

右手はこんなだし、あれだけ大きな事件の後だけに、少しゆっくりしたい……とも思うのだが、悪魔の気分次第でいつ終焉を迎えるか判らない世界だ。

どうしても、やっておきたい事があった。

だから、戻ってしばらく忙しい日々が続いていたが、ようやく落ち着いて、あの日の事を思い返す余裕も出来た。


あの日、無事ドルドガヴォイドを新しい体に押し込めた俺たちは、一度古代竜の集落へと戻った。

そこには、疲れ切ったライアンとアスタレイのふたりがいて、何人かの古代竜たちの遺体もあった。

やはり、ヴァイスイートは事切れていた。

遺体の中には、ボゥトマティスやあの時一緒に酒を呑んだ者も含まれていた。

アストンヘイトンだった悪魔と、奴が引き連れていたアークデーモンたちがここにはいたのだ。

村で人間の姿で暮らしていた古代竜たちは、真っ先にその脅威に晒された。

むしろ、全滅を免れただけでも、不幸中の幸いだったのかも知れない。

村へと戻る道中、古代竜の遺体を見る事は無かったので、竜の姿のまま暮らしていた者たちは、結構生き残ったかもな。


俺とライアン、アスタレイがヒールを掛けて、数少ない生き残りの古代竜たちを治療した後、その場に彼らとドルドガヴォイドを残し、そのままドワーフの集落へと向かった。

オルヴァドルはずっとレッサー、グレーターの殲滅を続けていて、すでに悪魔が群れとして見える事は無くなっていた。

まだ生き残りはいるが、確実にその数を減らしていた。

問題はすでに、島の悪魔では無く、島を出た悪魔だな。

島に残った悪魔たちは、仮に討ち漏らしても、その内古代竜たちが始末を付けるだろう。

ドワーフの集落へ到着すると、メイリウムスとゴンドス、そして多くのドワーフたちが出迎えてくれた。

犠牲者が出なかった訳では無いが、アストンヘイトンだった悪魔が素通りした事ですぐには襲われ無かった事、ドワーフたちは多くが生粋の戦士であり、さらに古代竜の装備を身に纏う事でその実力も並みのドワーフ以上だった事、鉄壁メイリウムスが駆け付けた事が大きく、その被害は最小限で済んだようだ。

あぁ、ゴンドスさんが役に立た無かった訳じゃ無いぞ(^^;

ゴンドスが駆け付けた時には、すでに守りの態勢が調っていただけだ。

ドワーフたちは職人集団でもあるから、村もすぐに直せるだろう。

少し落ち着いたら、例の移住の話を進めよう。

そうすれば、島のドワーフがこの一件で滅んでしまうような事は無いはずだ。


その後、俺とライアンはクロの背中に乗り、オルヴァドル、アスタレイ、ゴンドスとともに、ファリステへと向かった。

その途中で悪魔たちを倒しながら、3時間ほど掛けて海上を行くと、ファリステでは既に戦闘が終わっていた。

俺たちが到着した時には、街の上空に神族の一団がいて、周囲の警戒へと移行していたからな。

感知出来る範囲に悪魔の気配は無いので、少なくとも真っ直ぐ東へ向かった悪魔たちは、ほぼ全て掃討されたようだ。

北や南に少し進路を変えた悪魔はいたかも知れないが……。

シロとクリスティーナも無事だった。

街の住人たちは、勇者クリスの進言に従った事で被害を出さずに済んだらしい。

日頃から人々の為に戦っていた事が、役に立ったな。


これで、一応の幕である。

討ち漏らした悪魔はいるかも知れない。

ファリステの住人に被害は出なかったが、街には被害が出た。

それはドワーフの集落も一緒で、これからの復興が大事おおごとだ。

古代竜たちの被害は大きい。

100体ほどしかいなかった古代竜は数を減らし、これでさらに衰退してしまった。

亡くなった古代竜の中には、まだ若い者も少なく無かった……。

決して大団円では無い。

これからも大変だ。

しかし、一応の幕である。

アスタレイたちは魔界へと戻り、オルヴァドルたちは神の国へ戻り、シロとクリスティーナはモーサントへと戻った。

俺たちはクロにオルヴァまで送って貰い、その後クロは島へと戻った。

俺たちは日常に戻るが、クロたちは戦場へと戻るのだ。

島の復興と言う、新たなる戦いの場へと……。


2


「か……養母かあさん……。どうしたの?ぼ~として。」

見れば、何だか恥ずかしそうに声を掛けて来た、エルダがいた。

「また少し考え事をして、あっちに行っちゃってたみたい。」

「そ……そうなんだ。ね……あ、養母さんって、ぼ~としてても隙が無いから、どう言う状態か良く判らないね。」

そう言って、可愛らしい笑顔で笑うエルダ。

そう、エルダは娘になった。

形としては、エルダが勇者ライアンの養女となり、ベルデハイムはその婿となる。

俺は養父の妻だから養母。

相変わらず、内縁の妻だけどな。

エルダを養女に迎える事は、前々からライアンと相談して決めていた。

後は適当な時期を見て、と言う話だったんだが、先の一件である。

話を先延ばしにしている内に、何か取り返しの付かない事態も起こり得る。

そう言う実感が湧いてしまったので、帰還を果たした次の日、エルダとベルディに話を切り出したのだ。

もちろん、エルダもベルディも喜んでくれたが、最初はふたりとも困惑していたな。

客観的に考えれば、俺にもその気持ちは理解出来る。

盗賊ギルドで命を落としていたかも知れないところを鍛えて貰い、強くなって目的も達成し夢が叶った。

その上、彼と一緒に勇者ライアンに仕え、幸せな毎日を送っている。

しかも、まるで家族のように親しくして貰っている。

それだけでも、分不相応なくらい幸せ。

きっと、そんな風に思っていただろう。

でもね、それはお互い様なんだ。

俺もライアンも、エルダやベルディのお陰で、どんなに救われている事か、幸せを感じられている事か。

だから、本物の家族になりたかったんだ。

……俺が意気地無しだから、ライアンの子供を産んであげられないし……。

「それで、エルダ。何か用事でもあった?」

「お、お養父とう様が呼んで来いって。準備出来たから、もう出掛けるって。」

「あら、もうそんな時間なのね。判ったわ。行きましょ。」

俺とエルダは連れ立って、屋敷の玄関へと移動する。

今日は、ライアンが大司教として就任する晴れの日だ。

これから、家族揃って王宮へと出仕する。

……ライアンとその娘エルダ、そして娘婿のベルディ。

……そこに、俺はいない。

俺はあくまで内縁の妻であり、出自のあやしい市井の者。

正式な式典には参列出来無い。

いや、ベテルムザクト司教を始め多くの主神教幹部が問題無いからと説得してくれたが、それを俺が固辞した。

勇者であり新たな大司教となるライアンの妻として、表向き俺は相応しく無い。

俺の裏の顔を知っている者にとっては、それこそ俺が国の中枢に入り込んで何か悪さでもするんじゃないかと疑わしいだろう(^^;

そして、勇者が大司教となる記念すべき日を祝おうと、国中、下手をすれば世界中から集まって来た多くの信徒にとって、俺はただの身分卑しき市井の女。

ライアンの為に、俺は表に出たく無い。

ただ、晴れの日を共に祝わない……なんてつもりも無い。

俺も参列するよ。パーフェクトステルスでしれっとラインに寄り添って、ね(^∀^;

だから、ライアンもエルダも渋々了解してくれた。

……俺は、ライアンの妻に相応しく無い。

子供の事もそうだけど、生前何者かになりたくて色々な事に挑戦するも、何ひとつ成果を挙げられず何者にもなれなかった人生だった。

そんな俺が、こんな立派な夫に相応しい人間だろうか……と、詮無い事だと知りながら、どうしても考えてしまうのだ。

もちろん、今現在はアーデルヴァイトで最強(仮)な訳だが、それにしたって上には上がいる事は良く知っているからな。

……いかん、いかんな。こんな晴れの日に、ネガティヴ思考は控えないと。

ライアンからすれば、大司教になる事自体不本意な訳だから、俺を妻と正式に表明出来無いなら辞退する、とまで最初は言っていた。

嬉しいけれど、勇者として頑張っているライアンには、相応の評価をちゃんと受けて欲しいからな。

まぁ、偉くなり過ぎて、家族の時間がさらに減るのは残念だけど。

ちなみに、こんな事になったのは、実は神族の所為である。

あの日、長らく下向の無かった神々が、大挙して純白の翼を広げた神々しい姿で天翔けて行き、聞けば西方諸国に多数出現した悪魔たちをお倒しになり、その地の民をお救い下されたとか。

やはり、神々は我ら人間族を今も見守って下さり、危急存亡の際には自らそのお力をお示しになられるのだ。

しかも、その神々と共に、勇者クリスと勇者ライアンも戦いなされた。

勇者クリスは中央諸国から駆け付け、何と勇者ライアンはオルヴァから竜に乗って出陣したとか。

司教でもあられる勇者ライアンは、正に神聖オルヴァドル教国の守護神であらせられる。

勇者クリスと、勇者ライアンをさらに称えよう。

……なんて形で、さらに名声が高まった訳だ(-ω-)

オルヴァや魔族と戦争中の北方三国では信仰も厚いが、中央、西方、東方諸国となると、その信仰心も薄くなりがち。

主神教に属さぬ国は無いとは言え、熱心さには温度差があり、だからこそ当方の島国であるニホン帝国ではセンゲン教なんて新興宗教が幅を利かせられた訳だ。

それが再び、神々がその奇蹟を実際にお示しになられた。

南方、西方諸国では、一気に信仰心が再燃した。

それを利用しない手も無いし、実際ライアンを大司教にとの声が信徒より数多く挙がっていたので、特例として4人目の大司教へと昇進させられたのだ。

……これも、世界の命運を懸けた戦いの、名残り火みたいなものだな。

闇孔雀が降臨するよりマシだから、諦めて受け入れるしか無い。


そんなこんなで、ライアンは大司教となり、エルダ夫婦は正式に子供となり、あの戦いからひと月弱だが、ようやく落ち着いたのだった。

エルダは娘になったのだから、夜の警備は止めるように伝えた。

それに伴い、ベルディはライアンの娘婿となった事から、ライアン直属の聖堂騎士団の団長に就任。

ライアンは、大司教と勇者の兼任のみとなった。

騎士団長となったから、ベルディも夜勤は終了。

これでようやく、エルダも夜型生活から抜け出せた(^^;

俺とライアンは相変わらずだが、エルダたちにも頑張って貰って、早く孫の顔が見たいものである。

この後は、予定を早めてエッデルコ夫妻をガイドリアンヌ連邦のドワーフ国家ウォルバス王国へ連れて行き、ゲイムスヴァーグと引き合わせた後、島への移住者を募る。

古代竜の集落を含めた、復興の為の人員を増やしておきたい。

人手が欲しい今が、丁度良いタイミングだと思う。

ゲイムスヴァーグと引き合わせる事で、エッデルコも刺激を受け、ライアンの装備の着想も進むかも知れないしな。

まぁ、エッデルコたちを連れて行く以上、転移であっと言う間に、とは行かないのが問題ではある。

ただ、夜を待ってコピードラゴンゾンビで空を行くつもりなので、南方諸国と東方諸国の境に位置するガイドリアンヌ連邦までは半日程度。

以前のように、数か月掛かる事は無い。

エッデルコとファイファイチュチュは、島から大陸に渡って来る時、一度ドラゴンゾンビの背中に乗っているから、今回も大丈夫だろう。

移住希望者が見付かったら、その者たちを送り届けるのも俺の役割だから、また少し忙しくなりそうだ。

……夜にドラゴンを飛ばすとなると、その間ライアンと一緒に寝られないじゃないか……orz

くそっ、悪魔どもめ。

俺は急に、悪魔への憎悪が沸き立つのだった(^Д^;


3


そして現在、神聖暦10711年08月。もう夏である。

ウォルバスで移住者を募り、その第一陣として10組約30名を島へと運ぶのに、3か月ほど費やした事になる。

一応、第一陣は復興の為の即戦力と言う意味もあるから、単身者を中心にやる気のある腕の良い若いドワーフ職人を選ばせて貰った。

そう。移住希望者は、思いの外多かった。

だがその多くは、職にあぶれた職人や、肉体労働を強いられる鉱夫などだ。

正直、お呼びじゃ無い。

島ドワーフたちは、確かに数を減らしたものの、すぐに滅亡に瀕するような段階では無い。

誰彼構わず移住して貰いたい訳では無いのだ。

島ドワーフのガラパゴスな技術に興味のある、腕の良い職人を招き入れる事で、島ドワーフたちは大陸の技術に触れられて、どちらにも利がある。

今は復興も大事なのだが、本来の移住の目的はそっちだ。

もちろん、技術だけで無く種族の繁栄と言う意味で、新しい血を入れる目的もあるが。

だから、やる気も腕もある将来有望な職人で無ければ、用を成さないのだ。

それに、あぶれた職人たちにも、意味はある。

腕の良い職人が抜けるのだ。

席がいくつか空く事になる。

そこに入り込めるかどうかは自分次第。

そうして再起を図った職人の中から、将来島へ移住する者も出るかも知れない。

これは、多くのウォルバス国民にとっての、チャンスなのだ。

もちろん、ちゃんと国王ガンドルフの許可も得ている。

ゲイムスヴァーグの仲介で面会させて貰い、島ドワーフの長老グリシャルムの親書を手渡した。

島への移住者を募る代わりに、島から大陸へ渡りたい者をウォルバスに送る。

これで、島ドワーフとウォルバス王国は相互関係を築き、それぞれの技術を共有し合えると言う事だ。

ウォルバス王国は、希少な素材を島から輸入する事も可能になる。

その関係が上手く機能し始めれば、往来は島の古代竜が受け持ってくれるだろう。

そこまで話が進めば、俺が送り迎えしなくて済む訳だ。

それでも、今冬に予定している移住第二陣は、俺が送る事になっているけどな。

少しすれば、島の方も落ち着くはずだ。

そこで、第二陣では、腕の立つ妻帯者、子持ちの移住希望者を送り届ける。

俺の役目はそこまでだ。

その後は、当事者たちが話を進めて行くだろう。

後は、ゲイムスヴァーグの方だが、案の定、エッデルコと意気投合。

結局ゲイムスヴァーグは、エッデルコ夫妻と仕事をする為、ライアン邸に移り住む事となった。

まぁ、こちらとしてはありがたい話だが、ガンドルフ王には嫌な顔をされた(^^;

ゲイムスヴァーグは、俺が勝手に世界一の名工と称えている訳では無く、実際にウォルバス王国で一二を争う鍛冶師だ。

ガンドルフ王と直に面談出来る間柄なくらいだからな。

ただでさえ一時的にとは言え有能な職人たちが島へ渡って減ってしまうと言うのに、王国が誇る名工まで国を去ってしまうとは……。

こだわりの強い職人たちは、利益だけでは動かない人種だ。

こればかりは、仕方無いのだ。

ガンドルフ王も、そこはドワーフの王。

解ってはいるから、無理に引き留めもしなかったけどな。


そんな訳で、島の復興絡みも一段落。

ようやくのんびり出来る訳なのだが、忙しくしていてここしばらく、自分の研究が滞っている。

ライアンとエルダ、ベルディと、家族一緒に幸せな毎日……それも良い。

だが、俺は欲張りだ。

そんな幸せな日々が現実のものとなった今、それを享受しつつも頭をもたげて来るのだ。

知的好奇心と言う奴が。

俺が今いるのは、ニホン帝国キョウミヤコ拠点。

いつもは、フジのオロチたちの様子を見に行ったり、ガーランドのところでダイコク屋の夜船を強請ったり、キヌメと一緒にアオキガハラの世界樹を見に行ったりするので、シンクの姿で訪れている。

だが今日は、ルージュのままだ。

今回の目的は、いつものそれじゃ無い。

アーデルヴァイト未踏の地のひとつへ、挑もうと考えているのだ。

宇宙そらへの挑戦は失敗に終わった。

成層圏の実態は知れないが、強くなった今の俺でも、あそこへ飛び込む事は不可能だ。

生命の本質が魂である事は疑いようも無く、コピーホムンクルスの予備体とは違い、魂は替えが利かない。

あの後右手の指も治したし、アストラル体も治せる訳だが、魂が深刻なダメージを負ったら手の施しようが無い。

俺が俺と言う自我を保ったまま、あそこを調査する事は出来無い。

では、俺が挑もうとする未踏の地とはどこなのか。

上では無く下、空では無く海である。

俺は生前、とある映像を見て深海にはトラウマがあった。

ブルーホールと呼ばれる海に開いた深い穴。

その海底まで潜った伝説のダイバーが、帰らぬ人となった事故。

後年、ネットで検索してみたんだが、俺の記憶にある映像は見付からなかった。

同様の見出しで、伝説のダイバーがブルーホールで亡くなった事故と言うのはあったんだが、その映像は俺の記憶と一致しなかった。

その映像では、画面左側に映った魚影を鮫と見間違えてパニックとなり、それが原因で亡くなったとされていた。

引き上げた遺体は無傷だったから、鮫では無いと言う見解だった。

俺の記憶の映像では、画面の右側に砂煙と共に巨体の一部が映し出されていたはずで、深海に棲むオンデンザメではないかと言われていた。

見たのは、たけしの万物創世紀だったかな?

随分前の、世界まる見え!テレビ特捜部だったかも。

何故、ネットでは見付から無かったんだろう?

まぁ、真偽のほどは定かじゃ無いが、光も一切届かぬ海の底、高圧の中で人間は自由に動けず、そこで出遭う己よりも遥かに巨大な生物。

それを想像して、とても怖かった。

と同時に、とても興味をそそられた。

人間は科学によって自然すらどうにか出来ると慢心しているけれど、実際には科学の力なんてちっぽけで、出来る事なんて限られている。

宇宙も神秘の世界だが、人間がまともに足を踏み入れられないフロンティアが、もっと身近にあるのだ。

それこそが深海である。

そこに、どんな世界が広がっているのか、どんな生物が棲息しているのか、考えただけでわくわくするだろう?


と言う事で、今回は海洋調査にやって来た訳だが、もちろん、そのまま潜るのは危険だ。

海に潜むシーサーペントやクラーケン、ギガノドン、ヴェリキスクスなどの大型海洋モンスターは、今の俺なら結界で寄せ付けない事も可能だし、何だったら闘気と魔力を解放状態にする事で向こうがこちらを避けるだろう。

呼吸は風の精霊の助けを借りて、精霊界経由で空気を供給して貰えば済むし、水圧も結界の中にいる限り問題無い。

もしもの時は、水深1万m分は新型テレポートで簡単に浮上出来るしな。

しかし、何が起こるか判らないのが未知の世界。

何かあった時、仮に意識を失いでもしたら、瞬く間に水圧に体が押し潰され絶命する事だろう。

俺流不老不死があるから死ぬ訳では無いが、大事な本体は失われてしまう。

だから、本来であればそんな危険は冒せない。

だが俺には、もっと安全に海に潜る手段がある。

そう。物質体を抜け出し、アストラル体で潜れば良いのだ。

以前であれば、それも危険を伴うし、正直怖かっただろう。

しかし、あれから成長を遂げて、今ではアストラル生命体として壁の向こう側にいる。

今の俺なら、数か月体を留守にしてもアストラル体に影響は出ないと思うし、多分単純戦闘力で言えば、物質体はむしろ足枷と言った方が正しい。

脳と言う枷の無い状態で、感覚だけで詠唱をするならば、もう三重詠唱は問題無いだろう。

周囲のマナをアストラル体が直接吸収すれば、魔法の行使もスムーズだ。

元が人間だけに、物質体を捨て完全なアストラル生命体となるつもりなど無いが、アストラル体で行動する事に何ら支障は無くなっている。

そこで、留守にする体を安全に放置出来る、キョウミヤコ拠点へとやって来たのだ。

古代竜の島の方には拠点を作っていないから、今回の調査は東の海、ニホン近海である。


4


季節は夏。本当なら、海水の冷たさも心地良い季節。

しかし、ここは海水浴場では無いし、俺はアストラル体だから冷たくも無い(^^;

そして、すでに航路も離れているので、周りはモンスターだらけだ。

ニホン近海で見られる大型海洋モンスターは、大体10~20mくらい。

このくらいであれば、現世の鯨なんかとそう変わらないと言えるだろう。

異世界の海とは言え、ちゃんと普通の魚や哺乳類も棲息していて、そう言った大型海洋モンスターたちの餌となっている。

人類が漁業として大量に漁獲する事が無い為、このクラスのモンスターの体を支えるに足る数が棲息しているようだ。

近海を見渡した限り、アーデルヴァイトの海の方が豊かに見える。

あぁ、別に透明度が高い訳じゃ無いぞ。

30mも潜れば、肉眼では10m先が見えるかどうかだ。

俺は今アストラル体だし、アストラル感知と空間感知の魔法による測定結果を、疑似的に脳内……脳無い……意識下で普段と変わらぬ視覚情報に変換している訳だ(^^;

だから、海中の生物やモンスターたちもはっきり視認出来ているし、地形も把握出来る。

……壮大な光景だよ。

20mからの巨大な鮫や鰐たちが、海豚や鯨を捕食しようと泳ぎ回る姿は壮観だ。

自分のちっぽけな視点からそれを眺めると、あの日感じた背中がぞわぞわするような恐ろしさが思い出される。

珊瑚や海草の森などに隠れる色鮮やかな魚や海牛などは確かに綺麗だが、海は畏敬の念を抱き軽々しく考えてはいけない神秘の世界なのだと痛感させられる。

今の俺は影響を受けないが、かなり海流も早くなって来た。

やはり、物質体のまま潜らずに正解だ。

ここは恐ろしい。

精神に掛かる圧力も、水圧と共に増して行くようだった。


ニホンから南へ向かってしばらく進むと、次第に水深も深くなって行く。

構造的には地球の海と同じようで、大陸棚から大陸斜面、だったかな?

そうして少しずつ深くなり、今は下る事無く海底が延々と続くようになったので、確か深海平原と言う場所まで潜って来たようだ。

空間感知によると、現在水深4000m前後。

あんまり良く覚えていないが、地球の海もそんな感じだったと思う。

ここまで来ると、生物の数が極端に減った。

もう少し浅い場所では、魚が群れを成して泳ぐ見慣れた光景も見られたが、ここには海底に身を隠す魚や海老、蟹などはいても、泳ぎ回る生物は奴らだけだ。

大型海洋モンスター……たちをも捕食する、さらに巨大なモンスターたち。

今まで大型海洋モンスターとして認識していたクラーケンやサーペントたちは、大きい個体でも30~40mを超える事は無かったが、今俺の目の前を横切る深海鮫は優に100mを超えている。

1体1体がより巨大になっていて、見掛ける数は少ないのだが、こいつらを恐れて生物の数が減っているようだ。

ただ、もう少し上でも何度か100m弱の個体は見掛けたので、この辺の奴らはたまに浮上して、数十m級のモンスターを捕食して来るのだろう。

もしくは、同じくらい大きなモンスターを海底で見付けて、そいつを喰らうのか……。

しかし、俺の感覚は麻痺しているのかも知れないな。

アストラル体から感じる強大さは悪魔と比べれば遥かに弱く、ビジュアル的には100mの巨大鮫なんて恐ろしくて堪らないはずなのに、全然怖くない。

いざともなれば簡単に倒せる。

そう思うと、これほどの化け物すらただの鮫に見えて来る。

だが、ある意味、地球の海と大差無かったのはここまでだった。

いや、100mの巨大鮫がいる時点でおかしいが、つまりはその先が、もっとおかしかったのだ。

海溝と呼ばれる深海の谷。

そこは、さらに深くまで沈み込んでいて、まるで地獄の底まで通じていそうな雰囲気だ。

そして、そこから吹き上がって来るのだ。

海流に乗って、とても大きな気配が……。

この先にはいる。

地上ではお目に掛れないような、強大な何かが。

俺はここまで、普段と同じ程度に気配を抑えて潜って来たが、ここからはパーフェクトステルスを発動して潜ろうと思う。

こんな深海でアストラルサイドへ攻撃する必要性など生まれないはずだから、多分どんな脅威が潜んでいようと、今の俺が攻撃される事は無い……はずだ。

しかし、さすがに怖い。

ここに来て、生前深海に抱いた恐怖心が、再び沸々と沸き上がって来た。

海溝に潜むモノには、見付からない方が良い。

俺の本能がそう告げていた。

いざ海溝へ足を踏み出すと、足元に何も無い事が非道く不安に思えた。

元より、アストラル体だから地面を歩いている訳では無いし、海中なのだから漂っているのが当たり前なのだが、地に足が着いていない事がとても心細い。

……俺は少し考え方を変えてみた。

今まで、海上に頭を向け、海底に足を向けていた。

何?当たり前だって?

そりゃ、物質体で潜っていたならそうなる。

しかし、今の俺はアストラル体なのだ。

ロボットアニメが便宜上、宇宙でも上とか下とか定義するように、俺も海上が上、海底が下と漠然と思い込んでいた。

海底へと潜るのでは無い。

海底へと前に進むのだ。

俺は海底側に体を向け、真っ直ぐ進んで行く事にした。


そこから先は、死の世界だった。

微生物は存在するのだが、珊瑚や海草などはとうに姿を消し、100m級の深海モンスターすら見えなくなった。

ただただ沸き上がって来る恐ろしい気配が海流としてよぎって行くだけで、光の届かぬ真なる闇が延々と続く。

その時、ゴボッ……と、ひとつの気泡が通り過ぎた。

こんな海の底の生き物も、やはり呼吸はするんだな。

そんな惚けた事を呆っと考える……呼吸?!

すると、次から次へと、シャボン玉を吹き付けられたように、前方から泡が大量に湧き上がって来る。

次の瞬間、轟っ!と聞こえぬ音が聞こえたように感じた後、それは姿を現した。

巨大な魚だ!

生きた化石、シーラカンスに似た姿をしている。

ただし、その全長は500m……デカ過ぎる!

そいつは、かなりのスピードで海溝を昇って来る。

もちろん、俺が狙いな訳じゃ無い。

ここまでに見た深海生物たちは、むしろゆっくりと泳いでいたのに、こいつはまるで何かに追われ逃げ惑うように……何かに追われて!?

その時になって、ようやく俺は気付いた。

そいつの後ろに開いた大きな穴に。

いや、穴では無い。口だ。

そいつを呑み込もうと大きく開かれた、さらに巨大な魚の口。

その信じられない光景を前に立ち尽くした俺は、そのまま500mのシーラカンスと共に、さらに大きな口腔の中へと吸い込まれたのである。


5


……ま、ここまでデカい何かに喰われても、その実感はまるで無い。

違う空間に移動した感じだ。

デカい何かの腹の中で、シーラカンス500が暴れている。

500mが腹の中で暴れられる大きさの生物……何だそれ(^^;

しかし、シーラカンス500からもデカい何かからも、特に脅威は感じられない。

確かに側はデカいが、ただの魚って事か。

……いや、何かがおかしい……。

そうか!アストラル体なのに、体がひりひりするんだ。

不味い、こいつはそう言う生き物か!

俺はすぐさま空間感知で周囲に当たりを付けて、転移で腹の中から脱出した。

無事に外へ逃れてそれを見やると、全長1kmほどの巨大な魚……の下半身(?)に蛸の腕が生えたような生き物だった。

まぁ、口を開けて食事をしていたから、その腕は泳ぐのに使うだけで、獲物を捕らえたりはしないのだろうが……。

この蛸魚は、多分シーラカンス500を捕食した訳じゃ無いのだろう。

考えてみてくれ。

全長1kmもの体躯を誇る生き物が生きて行けるだけの獲物が、こんな深海で摂れると思うか?

答えは否だ。こいつは、食事で栄養を摂取している訳じゃ無い。

精霊界に近い玄室で1万年を暮らしたジェレバンナのように、10mからの巨体で1万年近くを生きたドルドガヴォイドたち古代竜のように、アーデルヴァイトにはマナだけで生きられる生物が存在する。

マナ。それは、アーデルヴァイトのどこにでも満ち溢れる、謎のエネルギー。

魔法の源であるとともに、生命の根源でもある。

俺が精霊に祈って行使した古代の失敗魔法、あれはマナを飴や蛙に変換していただろう?

マナは魔法的なものだけで無く、物質を構成する要素ともなる。

まぁ、マナだけで完全に物質が存在出来る訳でも無いから、ジェレバンナにしろ古代竜にしろ、最低限の食事は必要な訳だが、あの蛸魚も同様に、普段の食事は海中に満ちるマナを吸い込むだけで済むのだろう。

口から取り込んだ海水からマナを吸収し、鰓から海水だけ放出する、そんな感じだと思う。

その海水の取り込みに、シーラカンス500も俺も、巻き込まれただけだ。

多分、その内腹の中の異物として、シーラカンス500も吐き出されるだろう。

あのシーラカンス500は、腹の中にいても問題無い。

蛸魚は、胃液で消化するような機能を持たないだろうから。

だが、俺は問題大ありなのだ。

蛸魚の腹の中では、マナが吸収されてしまう。

保護器である物質体から抜け出している今の俺は、アストラル体が吸収されてしまうのだ。

その影響を、俺はアストラル体がひりひりすると言う感覚で察知した訳だ。

あのまま腹の中にいたら、如何にアストラル生命体として強力になったと言っても、そのアストラル体自体を吸われてしまう。

そして、アストラル体が希薄となれば、魂すら呑まれてしまうだろう。

この蛸魚は、今の俺にとっては天敵だ。

いや、あのシーラカンス500にしたって、あれだけデカいんだ。

同様の食事をする生き物だろう。

まぁ、いざともなれば、時間も空間も飛び越えるのがアストラル体だ。

逃げるのは簡単だけどな。


そうして蛸魚の腹の中から逃げ出した訳だが、一体今自分がどこにどんな状態でいるのか見失っていた。

足元に地面があるのだが、これは海溝の壁面か海底か。

俺は呑まれたまま、どこまで移動したのだろう。

空間感知を最大値で展開してみたが、どうやら俺は、再び頭を海上に向けていたようだ。

やはり、そう言う思い込みが身に沁みているから、無意識に上と下を認識してしまうようだ。

と言う事は、足元は海底と言う事になる。

頭上1万mに、水平線は確認出来無い。

つまりここは、水深1万mよりも深い場所だ。

かなり深い海溝だったようだな。

しかし……、巨大な生物はいたものの、特に何も無いようだ。

堆積した砂に覆われた海底が広がっているだけで、海草などの植物も一切見当たらないし、デカ過ぎる生物以外目に見える大きさの生命はいない。

肉眼では確認出来無いような微生物は、豊富に存在しているみたいだけどな。

……、……、……おかしい。

では、あれは何だったのだろう。

いや、今も感じているこの……強烈な気配!

蛸魚のものでは無い。

あれは、ただデカかっただけだ。

あんななりだが、あれは多分モンスターでは無く異常な進化を遂げた深海生物だ。

モンスターか否かは、アストラル体が放つ気配の違いで判る。

全長1kmもありながら、強さで言うならあの蛸魚は全然弱い。

サイズの違いからまともに戦えないとは思うが、戦闘力だけで比較するなら、大陸棚で見掛ける20~30mのクラーケンの方が強いくらいだ。

見た目だけなら異常な生物たちが海溝に潜んでいた事になるが、こいつらから感じた気配で畏怖した訳じゃ無い。

では何から?どこから?……海底……、海底自体から感じられるのか?!

これは!……この気配は?!……覚えがあるぞ!

まるで、まるで……、闇孔雀が気配を抑えたなら、こんな風に感じるのではないだろうか!!!

ゴボッ……。

どこかで、また気泡が湧き上がる。

ゴボゴボゴボ……。

先程までとは違い、周囲で一斉に気泡が立ち昇り始めた。

ちり……。

頭の中のどこがが痺れる。

この感覚……念話?……誰が……!?

「……だ……。たれ……るの……。」

静かに海底が震えながら、まるで何かが起き出したかのように、深海の底がにわかに騒がしくなるのだった。


6


「……こに、たれ……のか……。」

頭の中の声が、次第にはっきりして来る。

「そこに、たれかいるのか。」

そこに、誰かいるのか?

その声は、俺にそう問い掛けている。

意思。はっきりとした意思を持つ存在がいる。

だが、何も見えない。何も視えない。

ここにあるのは、砂に覆われた海底だけ……ゴボゴボと、まるで呼吸をするかのように、泡を吐き続ける海底だけ……。

まさか……だろうな。

つまり、俺が今立っているここは、ただの海底では無いと言う事だろう。

「そこに、たれかいるのだろう?」

……お前は誰だ?

俺は頭の中で、声に応えた。

すると、ゴボゴボと激しく泡が湧き立ち、海底が地震のように震えた。

「おお……、おお……。」

それは、歓喜の声を上げる。

「ようやく、ようやく知性持つ者が現れた……。人間?……人間族なのか?一体どうやってこんなところまで……。」

お前は誰だ。どこにいる。俺の姿が視えないのか?

「おぉ……、視えるとも。よぉく視えるよ、人間。お願いがあるのだ。お願いがあるのだよ、人間。どうか、聞き届けておくれ。私の願いを、聞き届けておくれ……。」

……お前は誰だ。どこに、いる?

「おお……、お前は私の上にいるよ。そうだよ。私はお前の下にいる。これが私だ。お前の目に見える全てが私だ。私は、とても永い時間、ここに横たわっている……。」

……思った通り、ここはただの海の底では無く、何か圧倒的な存在の上に、俺は立っている訳だ。

まるで闇孔雀のような存在……、そんなもの、ふたつしか考えられない。……神か悪魔だ。

だが、悪魔であろうはずは無い。

如何な深海とは言え、ここはアーデルヴァイト、物質界なのだ。

蛸魚のような生物は、悪魔の招喚などしない。

ここには、瘴気も渦巻いていない。

……それでも、もうひとつの可能性だって、本来はあり得ない。

神は死んだ。……はずなのだから。

お・前・は・誰・だ!

俺は強く念じた。

「……、……、……名はとうに忘れた……。私は、光の神のひと柱。名を忘れた、今は身動きひとつ取れぬ、死に掛けの神……。」


……神は死んだ。そう言われているが、本当のところは判らない。

今尚発動する神聖魔法は、神の力の残滓と捉える事も出来るが、実際にまだ神が存在する証拠なのかも知れない。

人間族は、神族を神と思い込んでいるから、神は神の国にいると思っている訳だが、どこかに何らかの形で未だ神はある。

そんな風に考える者は、人間族以外にも結構いるのだ。

そして、実際に神はまだ生きていたようだ。

ここ、水深1万mを超える、深潭の水底に。

「人間よ、人間。私の願いを聞いておくれ。お願いがあるのだ……。」

再び頭の中に響く声。

願い?……神が人間に何を願うと言うのか。

こちらは、生きた神に遭遇して、まだ混乱の中だ。

むしろ、俺の方こそ願いがある。

もっともっと、色々と知りたい事がある。

だが……、この神は様子がおかしい。

……余裕が無い、と言えば良いのか。

この神の願いとやらは、切実なものなのか。

仕方無い。俺の知的好奇心は後回しだ。

聞こう、名も無き神よ。お前は俺に、何を望む。

「おお……おぉ……、聞いておくれよ、人間よ。つらいのだ。苦しいのだ。私はずっと耐え続けているのだ。それでも、こんな場所ではたれも私の声に耳を傾けてはくれない。お前が初めてなのだ。人間よ、こんな場所まで来た初めての人間よ。私を助けておくれ。」

つらい、苦しい、か。

……、……なるほど、これは気配を抑えているのでは無く、苦しみ悶えて弱っている状態なのかも知れない。

確かに闇孔雀にも似た神の気配だが、とても弱々しくもある。

闇孔雀とは違い魂すら凍えそうなほどの恐怖を感じないのは、瘴気を伴わない所為だけでは無さそうだ。

判った。俺で助けになれるなら助けよう。何をすれば良い?

「おお……、頼む。あれを何とかしてくれ。私はあれにやられたのだ。あれがまだ残っている。それが疼くのだよ。ずーと、ずぅーと、私を苦しめ続けるのだよ。」

ゴボゴボゴボ……。遠くの方で、気泡が上がる。

なるほど、そっちに何かあるんだな。

俺は、指し示された方に100mほど移動する。

……この神は今、どう言う状態なのだろう。

倒れているのか?しかし、ここら辺一帯が全てこの神の体なら、一体この神はどれほどの巨人だったのだろうか。

闇孔雀は精々20m、お台場ガンダム並みだった。

アヴァドラスは顔だけでそれに近いものがあったが、ならば頭の天辺から爪先まで、100mを超える程度だろう。

だが、海底の見える範囲全てから、この神の気配は感じる。

100mなんて規模とは思えない。

アヴァドラスも、堕天する以前の光の巨人時代は、もっと大きかったのかな?

程無く、俺は示された場所まで辿り着くと、そこに信じられないモノを発見する。

ほんの小さな黒い鏃の欠片?、のように見えるそれからは、闇孔雀に劣らぬ瘴気が噴き出している。

その欠片は、ただ海底にぽつんと落ちているように見えて、俺の目には瘴気の根が海底、神の体に深く蔓延っているように視えた。

……悪魔……、いや、闇の神、か?

悪魔も闇の神も同義だが、これが神代の頃のモノならば、変節する前、あくまで闇の神が悪魔を自称していた頃のモノだろう。

不思議な事に、この瘴気は邪悪さ、いやどす黒さ?

そう言った、魂が掻き乱されるような感覚を伴わない。

ただただ、光の神とは真逆の、大いなる力の奔流を感じるのみである。

仮に、これが蝕むのは敵対者である光の神々だけだとして、アストラル体の状態でいる今の俺が、それに触れるのは憚られる。

となると、どうしたものか。

元より、俺には高位の神聖魔法は使えないから、これほど強烈な瘴気は浄化出来無い。

となれば、瘴気の根は物質体では無いのだから、念動で動かせるだろうか。

それとも、結界で瘴気を遮断出来るだろうか。

……ふぅ、とにかく、直接触れずに何とかするしか無い。

俺は、10mほど離れてから、その小さな欠片を念動で持ち上げようとしてみた。

すると、あっさりと、簡単に、それは持ち上がった。

その瞬間、その欠片の一部が開き、こちらをぎょろりと睨め付けたのだ。

だが、その眼はすぐに閉じた。

……これはあれだ。これ自体が、闇の神そのもの、って事なのかも知れない。

鼻や口に相当する部位は見当たらないが、形としては鏃型のベヘリットみたいなもんだ(^^;

まぁ、覇王の卵のように、俺を使徒へと転生させたりはしないと思うが、この神は欠片となってもまだ生きている。

今の今まで、ここにいる光の神と戦っていたのだろう。

持ち上げた事で、噴き出していた瘴気は治まり、光の神の体内へ伸びていた瘴気の根も消えた。

俺は念の為結界で欠片を覆い、その後傷口、欠片のあった場所にヒールを掛けてみる。

多分、この闇の欠片が根を張っていた事で、自然回復力も阻害されていただろうし、だからこそ疼き続けていたはずだ。

今ならば、神の奇蹟であるヒールも効果を現すだろう。

ぱぁっ、と海底が薄ぼんやりと光った気がした。

「……消えた……。永い間私を苛んでいた苦しみが、消えた……。あぁ、何と心地良い気分だ……。もう二度と、こんな安らかな気持ちにはなれぬと思うていたのに……。」

光の神の、安らかな声が響く。

どうやら、これで役目は果たせたようだな。

俺は生前、原因不明の眩暈で2~3日一睡も出来ず、鈍い頭痛と断続的に続く吐き気、嘔吐で苦しんだ時、もう殺してくれと思ったもんだ。

そんな苦しみが1万年……、他人事ながら、本当に解放されて良かったと思う。

心穏やかになった神を、俺はそのまましばらく、黙って待つ事にした。

どれくらいの時が過ぎたのか、どこかでゴボッと気泡が上がる。

「……人間、感謝する。これで私は、苦しまずに滅んで行ける。これでようやく、眠りに就ける。」

どう致しまして。ただね、まだお眠りになるのは早いですよ、神様。

俺は善意で人助け、もとい、神助けをするような男じゃ無いんでね。


7


「……おぉ、人間よ。すまなかった。助けて貰ったのだ。お前にも、何かしてやらねばならぬな。こんな死に掛けの神で出来る事ならば、何なりと申してみるが良い。」

苦しみも消えて、少しは頭がはっきりしたかい?俺は魔導士でね。色々と知りたい事があるんだ。

「まどうし……、とは何だね。いや待て、確かに聞き覚えはある。」

……そう言えば、人間族って神代の時代が終わって神族に与し、その庇護下に置かれるまで最弱種族だったんだよな。

数も多い訳では無く、力も弱く、魔法も上手く扱えない。

神代の時代、神や神族に似たその姿で、盾代わりを務めるくらいしか能が無かったのかも知れん。

となると、本格的に魔法学として魔法を探求し始めたのも、神族の代わりに魔族との戦いの先鋒として戦い出してからなのかもな。

あ~、貴方が闇の神々と戦っていた時代から、すでに1万年以上経過していてね。人間族も、独自に研鑽して魔法を使いこなすようになったんだ。魔法を上手く使い、様々な研究をする人間族を、魔導士と呼ぶのさ。

「……そうか……。もうそんな年月が過ぎたのか……。あのひ弱に過ぎる人間族が、今ではこんな海の底までやって来られるほど、魔法を使いこなすようにな……。」

……いやまぁ、こんなところまで来られる人間、はおろか、神族だって魔族だって、こんなところまでは来られないって(^^;

俺が特別、と言うか、俺だって生身じゃこんな高圧の海、怖くて潜れんわ。

俺がこんなところまでやって来たのは、ひとえに知的好奇心のなせる業。折角出逢えた神様に、色々聞きたい事があるんだよ。

「なるほど。……知識欲、か。はきとせぬ事も多いが、答えられる事には応えよう。何でも聞いておくれ。」

まずは確認だ。貴方は光の神として闇の神々と戦っていたのか?それとも神として、悪魔と戦っていたのか。

「……そうだな。うろ覚えだが、確かに悪魔と言う言葉に聞き覚えはある。しかし、闇の神々の一部がそう自称していた事を微かに覚えているのみであるから、その頃私は光の神のひと柱として、闇の神々と戦っていたのではないかな?」

となると、この神様が戦線を離脱したのは、まだはっきりと戦争の趨勢が定まる前か。

やはりあの欠片は、悪魔では無くそうなる前の闇の神の欠片。

では、光の神よ。貴方は何故、このような場所で1万年以上も苦しみ続ける事になったのですか?

「……私は戦いに敗れたのだ。深手を負い、海へ落ち、そのまま沈み続けた。その後の事は良く判らないが、その傷は癒える事無く、私を苛み続け、ずーと、ずぅーと、ここで苦しみ続けて来たのだよ。お前が現れるまで、ずぅっとな、人間よ。」

……闇の神々との戦いの最中、傷付き戦場を離れ、そのまま1万年以上も深海の底にいたのなら、神々の戦争の行方も、その後の世界についても、この神は知る事も無かった訳だ。

しかし神よ、貴方はまるで海底そのものに見える。その体はどうされたのです?

「……そうだな。私にも良く判らないが、確かに私の体はすでに神だった頃とはまるで違うモノに成り果てた。覚えているのは、苦しみながら朧気になる意思の中で、自分自身が広がって、海の底と一体になって行く感覚……。私はこの1万年と言う年月、生きながら死んで行ったのであろうな。神の死骸と言う珍しきモノが、このようなおかしな形に行き着いたのかも知れぬ。意思……アストラル体すら薄く広がって、自分自身が希薄になっているような感覚だよ。」

……神の体が、今の物質界の生命とどこまで一緒なのか判らないからな。

闇の神の欠片に蝕まれ、半死半生だった神の玉体は、滅んで塵となるのでは無く、海底と一体化して在り続けたのだろうか。

「……悪いな、人間。私はだんだんと意識が薄れて来ている。このまま眠りに落ちるのか、静やかなる滅びを迎えるのか、もうじき、意識を失うかも知れぬ……。聞きたい事あらば、早く聞いておくが良いぞ。」

おっと。確かに、今まで永く苦しんだ末に、それからようやく解放されたのだ。

神で無くとも、いや神であっても、そりゃ疲れて眠くもなるよな。

すまないな、神よ。可能な限りで良い。付き合ってくれ。知りたい事は尽きぬほどあるんだ。

「……あぁ、構わない。答えられる事には応えると約束したからな。眠りに就くまで、お前に付き合おう……。」


1万年の悪夢が終わり、今神は、安らかな眠りに就いた。

その気配は安らぎに満ちており、しかし決して弱々しいものじゃ無い。

そう、神は死んだ訳じゃ無い。

ちゃんと、眠りに就いたのだ。

しばらく起きる事は無いだろう。

次に目覚めるのが、数年後なのか、数十年後なのか、……数千年、命尽きる数万年先の未来なのか、神にすら判るまい。

だが、声を掛けた程度で覚める、浅い眠りでは無い。

この名も無き神とは、二度と会話を交わす事も無いだろう。

しかし、この邂逅は俺にとって、運命的なものとなった。

世界の、アーデルヴァイトの秘密の一端を垣間見た。

これで、俺の次の目的が決まった。

さあ、帰ろう。母なる大地へ。

ここは暗くて冷た過ぎる。

俺は神と共・・・に、神の許を去るのだった……。


つづく

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