第15話 濁血
ただ泣いているだけで日々は過ぎていく。今でも、何があったのか理解が追い付いていないのかもしれない。
あれから何日が経ったのだろう。何度、悪意に恐れる夜を過ごしたのだろう。何度、食べ物を吐いたのだろう。もうわからない。ここがどこなのか、わからない。
私が学校へと行かなくなってから既にかなりの日数が経過していたけれど、私はまだ一度も外に出ることはできていなかった。具体的に何日経っていたかはわからないけれど、1ヶ月以上経っていたはずだ。
そろそろユキが帰ってくるかもしれないということをたまに考えるけれど、魔導通信機を見る勇気は私にはなかった。そこに彼女からの連絡があれば、私は余計どうすればいいかわからなくなるだろうから。これ以上、彼女に触れていいものか私はわからなくなっていた。
ユキに連絡を入れれば、助けてもらえるのだろうか。そのことを考えなかった日はないけれど、それをできるほど、私はもう自らを認められない。私の意思は完全に折られてしまった。
私に助けてもらう価値などないことを知らされてしまった。もう二度と自らの足で立ち上がることなどできないのではないだろうか。いや、できないだろう。
自らの中に穢れが溜まりすぎている。汚されたというのは恐らく正確な表現ではない。私は元々汚れているのだから、私など、彼女に近づくべきではなかったのではないだろうか。
いや……私は、こう思っている。
ユキも同じなのではないかと。
ユキも、彼らと同じように私への悪意を持つのではないかと。
そんなことはない。そんなわけはない。そんなはずはない。
そう言い聞かせても、私の中で一度生じた疑問は拭えない。
けれど、そんなはずはないのだ。
彼女は私にずっと優しかったし、彼女は私を好きだと言ってくれたのに。でも。でも、何故か。私はそれを信じることができない。そんな私だから、余計に彼女にふさわしくない気がしてくる。
私は穢れの塊なのではないか。
怪物そのものであるというのなら、その身体が穢れていないのはおかしいのだけれど。
私へ悪意を向けた彼らは、まだ終わらせるつもりはないらしい。
彼らの悪意はとどまることを知らず、時折、忘れたころに扉を叩かれる。
「でてこい」
「これで終わりだと思うな」
「逃げれるわけないだろ」
「どうなっても知らねぇぞ」
そんな声が扉から流れる。
薄い壁を貫通し、その悪意は私を貫く。
必死に耳を塞いでも、その声は、扉を叩く音は、毎日のように鳴り響く。一回当たり30分もいかない程度だと思うのだけれど、私はその期間が永遠のように感じる。
夜になれば、キリシアの恐ろしい声が再生される。あの声は私を本当に恨み、憎んでいた。またしても彼女が急に悪意を与えに来るのではないかと恐ろしくて仕方がない。彼女はその気になれば、管理会社に連絡を入れることで、私の部屋の扉など簡単に開けることができるだろうから。
警察のようなところに保護を求めるべきなのだろうか。でもなんと言えば良いのだろう。私など、誰も助けてはくれないだろう。孤児などは見て見ぬふりをされてしまうだろう。
前もそうだったのだから。孤児院で殴られた時も、彼らは見て見ぬふりをしたのだから。
だから、私はただ彼らの敵意に怯えることしかできない。彼らが飽きてくれるまで怯えて、飽きた後も思い出されないことを願い続けるような、そんな生活がこれから待っているのだろう。そして、そうして生きていくことが私にもたらされた罰なのだろう。
もう死んでしまおうかと思った。
そんな人生が続くのであれば、この包丁で首を刺し、死ねばいいのではないかと思った。
でも、そのたびにユキの顔が思い浮かぶ。彼女にまた会えずに死んで良いのだろうか。もしかすれば、彼女に会えば何かが変わるのではないだろうか。彼女なら、私を助けてくれるのではないだろうか。
でも、会っていいのだろうか。会っても、どうせ傷つくだけなら、もう終わらせてしまった方が良いのではないだろうか。
「ユキにとってはあんたなんか遊びよ」
キリシアの言葉がまた思い浮かぶ。
そんなわけはない。
でも。けれど。
そう考えた方が、物事は綺麗だ。
ユキが私を本気で好きになること自体がおかしいのだから。それこそ、愛していることなど、普通に考えれば有りえない。でも、彼女は私を好きだと、愛していると言った。
……本当に?
私の聞いた言葉は、覚えている言葉は、真実だったのだろうか。少しずつ記憶が薄れていくのを感じる。あの時、感じていたはずの熱をどんどん失っていく。
寒い。
気分が悪い。
吐き気がする。
頭も痛い。
意識が鈍い。
ふと、嫌な予感がした。
ゆっくりと立ち上がり、鏡の前に立つ。
そこにはいつかの時以上にやつれ、黒い髪で視界を遮る私がいた。
強烈な吐き気のままに、中身のない何かを戻す。
でも、強烈で嫌な予感は消えてくれない。
もしかして。
もしかして、私は。
私は、孕んでいるのではないか。
そんなはずはないと、首を振るけれど、完全に否定できる要素は何もない。一度、そんなことを考えれば、嫌な予想はいつまでも身体の中を蠢く。気分が悪い。
腹をちらりと見る。そこに化け物がいるように感じて、咄嗟に包丁を振り下ろそうと思ったけれど、それはできなかった。結局のところ、大きな自傷を行えるほどの勇気はない。
確認できる道具もないし、はっきりとはわからないけれど、でも、一度そんなことを考えれば、そんな気がして、余計に気が滅入ってくる。そんなことはほぼ有りえない。それはわかっている。でも、万が一……そうなっていたら、私はどうすればいいのだろう。
結論は決まっている。
子供なんて、いらない。
生まれる命に罪はなくても、私に罪はある。
私のようなものが産み落とすものが、まともであるはずがない。私のようなものが親に成れるわけない。だから、もしも腹の中に誰かがいても、私はその誰かを殺すしかない。
もう1人の親が誰かもわからない。わかりたくもない。考えるだけで吐き気がしてくる。恐怖が湧いてくる。
またしても、私は罪を重ねるしかないのだろうか。けれど、産んだところで、誰も望まない子供になる。それなら、生まれてこないほうがいいはずだ。また、私のようなものが生まれるぐらいなら、ここでそれを食い止めるべきだろう。それは善行だと言えるのではないだろうか。
でも、本当にそれでいいのだろうか。
生まれ出る命をそう簡単に摘み取る権利が私にあるのだろうか。
そしてまた幾度かの夜を越えた。いくら時間が経っても、私の脳裏に蔓延る悪寒が消えることはなくて、私の怯えることはだんだんと増えていく。やはり、これこそが私の罰なのかもしれない
嫌な予感に対しては、結論を先延ばしにしていたけれど、このころになれば、私も多少落ち着いてきていた。子供ができているのなら、その時に考えればいいと思い始めてきた。何事も確認しなくては始まらない。
深い悲しみと絶望は変わらなくても、物事は変わらず、そして時は過ぎる。今でも毎日のようにうずくまってしまうけれど、それでも暖かいものなら喉を通るようになってきたし、毎日腹も空くようになってきた。
そろそろ外にもでなくてはいけない。備蓄していた食料が枯れる。生活に必要なものは粗方、枯れているけれど、大抵は我慢すればなんとかなる。でも、食料はそうもいかない。餓死する前に外に出なくては。
いや、餓死するならそれはそれで良いのだろうけれど、恐らくそんな勇気などないだろうから。私は、今のうちに外に出なくてはいけないだろう。
行くなら、昼しかない。学校のある平日、昼に行くのが一番安全だろう。その時間なら、もしも私の家の前に見張りがいたとしても少人数なはずだ。少人数でも恐ろしいけれど……でも、大勢よりはましなはずだし。
……でも、多分、もう彼らはいないのだろう。ここ最近は扉を叩かれる日も減っている。回数も。時間も。多分、彼らは私に飽きているのだ。何も反応のない私に。そのまま忘れてくれれば、それ以上の幸福はないのだけれど。
恐る恐る扉を開ける。そこには眩しい太陽が照っていた。視界をくらませながら、ゆっくりと外を確認する。そこには誰もおらず、ほっとしながら、私は近くの売店へと急いだ。
久しぶりの外は本当に恐ろしいものだった。全員が敵のように感じた。周囲の人すべてが、私に敵意を抱いているように感じた。けれど、そんなわけはない。そう言い聞かせながら、保存の良いものをたくさん買い込んで、走る。怖い。恐ろしい。
本当に長く感じた道を走り、家の扉を開ければ、私はその場で蹲ってしまう。息が激しい。吐き気が酷い。頭痛もいつもより苦しい。でも、そのかいはあった。これで2カ月以上は外に出なくてはいいはずだし、それに妊娠検査薬も買えた。
結局のところ、私は確かめずにはいられない。
確かめないほうがいいのかもしれないのかもしれないけれど、私は不安を抱けば、それを確認して、不安を取り除こうとせずにはいられない。それによって、不安が顕在化するかもしれないのに。
まぁ、ひとまずは休息をするべきだろう。
荷物はその場に放置し、寝床へと向かおうとして気づく。
何かがおかしい。
するべき行動を忘れていた気がする。
本来とは違うことが起きた気がする。
不可思議な何かが。
そう。考えてみれば。
今、私は扉を開けて入ったけれど……私は鍵を開けていない。それは当然で、私は外に出るときに鍵を閉め忘れたのだろう。急ぎ、焦り、恐れ、怯えていた私に、そこまで意識を回す余裕はなかった。
本当に? あれだけ怯えていた私が鍵を閉め忘れるなんてことがあるのだろうか。おかしい。何かが……
「あれ、帰ってきたんだ」
女の声がする。誰かがいる。
知らない誰かが。
「お邪魔してるよ。隣の人に入れてもらったんだー」
暗い部屋の奥から、それは姿を現した。
それは女だった。それは多分、同じ学級の女だった。あの時、私を嘲笑っていた中の1人だった。
いや……違う。
暗闇の中の記憶を辿る。たしか、彼女は笑ってはいなかった。
どちらかといえば私を。
私を憎い目で見ていた人だ。
「ひっ」
私は恐怖のままに逃げようとした。
扉を開いて、廊下を走り、どこかへと。
でも、それは叶わない。
私が扉を開けるよりも早く、女は恐ろしい足音共に距離を詰め、私の頭に衝撃が走る。痛みが、思考を支配する。視界が揺れ崩れ、少し遅れて身体が倒れたことを知る。
「逃げようとすんな! あぁ、いや、違うんだよ。こんなことをしたいわけじゃなくてね。少し聞きたいことがあるだけなんだ。いいかな。いいよね。おい! 答えろよ!」
身体が上手く動かない。
寒い。熱い。
血。
血が、流れている。
これは、私の血。
この前の教室の時とは違う。彼女は、下手をすれば本当に、本当に私を殺してしまう。殺される。あの時と似ていて、そしてあの時より強烈な敵意に、憎しみに私は何もできそうにはなかった。
まただ。また少し受け入れた瞬間に新たな罰が来る。
「まぁいいや。お前、お前さ。随分と、アデルくんに可愛がられていたよね。私の、私のアデルくんに! 私のものなのに! お前なんかが、誑かすから、アデルくんがおかしくなっちゃって! 今、思い出してもむかむかするよ! アデルくんが、お前なんかにあんなに視線を向けて……!」
彼女は何かを言っているようだけれど、いまいち何の話をしているのかわからなかった。そこまで思考が回らない。内容が入ってこない。
「何とかいいなさいよ!」
また身体に衝撃が伝う。
えずいて、血を吐き出す。
まずい。
殺される。
……それでも、別に構わないのではないだろうか。
「……なにこれ」
倒れた時に、同時に荷物も倒してしまったからだろうか、床に飛び散る買ってきたものの1つを彼女は拾い上げる。それは妊娠検査薬だった。
もう半分ほどしか開かない視界の中でそれを見る。
女の目が凶悪な殺意に染まっていく感じがする。
「……まさか。まさかまさか。まさかまさかまさか! お前! あで、アデルくんのっ! 許さない! 私より早く、そんなの! だめに決まってる! やっぱり、だめ! お前は!」
私はとにかく逃げようとした。
弱った身体を引きずり、少しでも彼女から遠くへ。
私を恨み、憎む目からなるべく遠くへ。
「逃げんな!」
私は声にならない悲鳴を上げる。
脚に強烈な痛みが走る。
見れば、薄明かりを放つ何が刺さっている。
もう私には小さな抵抗しかできることはなかった。
無駄だと考えることもせず、小さな腕を力なく振り回す。
でも、それも意味はない。
今度は肩のあたりに何かが刺さる。
ほのかに光るそれは、多分魔力弾の一種であることを頭の片隅で察する。彼女は魔導銃を持ってきたのだ。私を殺すためだけに。
あの魔導銃がどの程度の威力なのかはわからないけれど、どれだけ小さく見積もっても肉を貫くぐらいの火力はあるだろう。実際、その後も魔力弾が何度か射出され、そのたびに私は全身の感覚を失っていった。
脚に、手に、肩に、胸に、口に。
痛みと。そして熱いような冷たいような何か。
正直なところを言えば、もうはっきりとはわからなかった。
「どうしよ。どうしよ。子供なんて……! でも。いや、でも。お前が悪いんだから……! お前のせいなんだから!」
朦朧とした意識の中で、かろうじてある感覚の中で、身体の中に異物が入るのを感じた。気力を振り絞り、目を開ければ、そこには銃口を腹に向ける彼女がいた。
そこからの未来は簡単に想像できて、私は恐怖で叫びそうになったけれど、すでに私にそんな気力はなかった。ただ恐怖だけが体中を走った。
引き金が引かれ、飛散する血肉が顔につく。
けれど、それを認識するほどの時間はなく、もう限界だった私の意識は闇へと消えた。
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