第10話 もう少しこうして
「あの、もう。もう離してくれない? もう落ち着いてきたから」
気づけば、私はユキの腕の中にいた。彼女の長い腕の中に、私はすっぽりと入ってしまっていた。何があったのかははっきりとは覚えていないけれど、彼女に何かを叫び、喚き散らしたことを覚えている。
「だめだよ。まだ私の気持ちはちゃんと伝わってなさそうだから」
「そ、そんなことはない、けれど」
そして、彼女の言葉も覚えている。今の私を支える、1つの言葉を。
本当に不思議なものだった。あれだけぐちゃぐちゃになっていた感情がただ1つの言葉でこうも洗い流されるとは。
「それとも嫌? こうしているのは」
「そんなことは、ないけど」
「なら、良かった」
彼女はなんだか嬉しそうだった。
しかし、これで良かったのだろうか。私はなんだかとんでもないことをしでかしてしまっているような気がする。彼女にあんな言葉を貰って良いのだろうか。私は、そんなもの貰えるような人なのだろうか。
まぁ……何だかユキは嬉しそうだし、これで良いのかもしれない。今まで多くの人に嫌われてきた私だけれど、それでも彼女の喜びを生み出せるなら。それになんだか、彼女の腕の中にいれば落ち着くというのも事実ではある。
「あの、ユキ……その、ごめんなさい。色々と。私……わからなくて……本当に何もわからなくて、何だかわからなくなって……ぐちゃぐちゃになって、何もわからなくて……」
「うん。大変だったよね。でも、気にしないで。私は大丈夫だから」
「……そう、なら。なら、いいけれど……」
本当に気にしてないのだろうか。私は随分と酷いことを言ってしまったような感じがしたけれど。随分と身勝手なことを言っていたような気がするけれど。でも、私はそれを気にしなくて良いのだろうか。少なくとも彼女は私の存在を認めてくれているようには思うけれど。
「こ、こほん」
ユキはわざとらしい咳払いをして、私を静かに見つめる。それを彼女の腕の中で私も見ていた。視線が交わり、静寂が場を占める。けれど、それは前のようにきまずい静寂ではない。前までと何が違うのだろうか。きっと、何かが変わったのだろう。
視線の先で彼女は少し頬に色が付いていた。それで私は大体何を言うかはわかってしまったけれど、ただ彼女の言葉を待った。2度の深呼吸を経て、彼女は熱とともに語る。
「さっきも言ったけれど、私はミリアを愛してる。本当に、本心から。大切だし、ミリアの全てを抱きしめたい。その、その……ミリアは、どう、かな」
気まずくはなくても恥ずかしくはある。こうも直球で好意を……愛を囁かれたことなど、私の人生で一度も、本当に一度もなかったものだから、私はどうすればいいかわからない。精神がびっくりしているのだろう。大切にされた経験など、一度もないのだから、どう接すればいいのかわからない。でも、わかることもある。
「……私は正直、まだよくわからない。私は、恋とか愛とかよくわからないし……でも、ユキがそう言ってくれることは嬉しくて、それで、その、一緒にいてくれると、嬉しい……」
私の持っている、一緒に居たいという感情が恒久的なものとは思えない。そこまで私自身を楽観視できるほど、自信はない。そして彼女の持つ感情も、いつか変わってしまうのかもしれないけれど、その恐怖から脱却することはできないのだろうけれど、それでも私は、今の彼女の感情だけは信じることができていることは真実だから。
「もちろん。うん。もちろん一緒にいるよ。ずっと一緒にいようね」
「……ユキが私のことを嫌いにならないなら、私もそれが一番良いけれど」
「なら、ずっと一緒だね」
そう気楽に話す彼女のことを完全に信じられるならどれだけ良かっただろうか。私の心の中には、少しのひっかかりは残っている。それが恐れであることは、知っている。それが今はまだ小さなものであっても、それは確実に火種であることを私は知っている。そして、その火種がいつかまた私の火薬庫に火をつけてしまうかもしれない。さっきと同じように。
しかし、そうなると、どうなのだろう。私とユキの関係はどうなるのだろうか。今までは仮にも付き合っていたけれど……それは少し違うような気もする。変わっていく気がする。特に私は今までと同じではいられないだろう。もうすでに私は自らの最も醜悪であると思われる部分を開示してしまったのだから。
うーん。ということは、正式に付き合うということになるのだろうか。それはそれで、なんだか変な感じもする。大体、付き合うことに仮とか、正式にとか、そんなことが存在するのだろうか。一緒に出掛けるとか、休日に会うとか、お話しするとかいうのは今までもやってきたのだし、ならばもう少し違う名でこの関係を呼称するべきだろう。なら。
「これは恋人ということになるのかな」
思わずそう呟いてしまっていた。自分でも随分と恥ずかしいことを言っていると思ったけれど、それよりもおかしかったのはユキで、湯気でもでるのかというぐらい顔を真っ赤にしていたものだから、なんだか私は逆に冷静になってしまった。
「まぁ、うん。多分、そういうことで、いいんだよね? お互いが一番大切な人として、お互いを認めるというか……そういうことで、いいんだよね? 私達」
それに多分私はこうして確認しなくては安心できない。こうやって明言し、言質をとり、彼女を頷いているところ見なくては、確信し安心することができない。
それどころか、実際にこうやって首を勢いよく縦に振っているところみても、完全に信じ切れない。これは、やっぱり私の原罪の成すところではあると思うけれど。
「う、うん。うん、そう。そう、だね。そうだよ。そっか。そうだよね。私達、そうなんだよね。恋人だよね。そっかー。そうなるのかー。いや、うん。たしかに、考えてみれば、そう。そうだし、そうなんだけれど……なんだか、こう、そうもはっきりと言ってくれるとは思ってなくて、多分、私もはっきりとは見えてなかったから……私はただミリアに気持ちを伝えて、それを受け入れてくれただけですごく嬉しかったから、なんていうか、そこまで考えられてなかったよ。でも、そうだよね。私達、恋人なんだよね」
恋人とそう口にすれば随分とすごい存在になってしまったのものである。未だに愛も知らなければ、恋も知らない私がそんなことになっていいのか、と思わないでもないけれど。
「ほんとに、私で良かったのかな……」
「もちろん。ミリアが良かったんだよ」
私の頭の上で、彼女はそう言ってくれるけれど、それでも私の中の疑念は消えない。何を言われても、これが消えることがないとはわかっていても私は質問せずにはいられない。
「どこがっ、どこが良い、かな……」
私は少し早口でぼそぼそと問いかける。言ってる途中で恥ずかしくなってきたけれど、でも、私はやめることはできなかった。きっとこれを聞かないと、私の中の怪物はまた暴れだしてしまう。
「どこがといえば、存在自体と答えてしまいたいけれど、でも多分、ミリアはそれが聞きたいわけじゃない、よね? うん。なら、理由を話すよ。そうだね……けれど、結局のところ戻るべき場所は、虹色という世界の彩りの話になるのかな。その、ほら、覚えてる? 私が世界の印象を話したときにでてきた虹色というものを」
もちろん覚えている。たしか彼女は少し輝く虹色があると言っていた。私はそれを何か大切なものであると予想して、彼女はそれを私だと言った。そしてそれがきっかけで、私達の関係は強まっていった。
「虹色は私の大切にするべきもの。それは多分、私に欠けていたものだったんだと思う。まぁ、もちろんミリアに出会ってたなかったのだから、私に大切なものなどなくて当然なのだろうけれど。でも、最初はただの好感だったそれはいつしか恋になって、愛へと変わった。愛というと仰々しいけれど、ただ私はミリアのことが一番大切ってことがわかったというのが、私の答えになる……といった感じだけれど。
でも、それを確信したのはついさっきだよ。私、今まで人の心の色が分かっていたから、だから私はみんなのことが理解できた。だから、みんなに合わせることができた……でも、それは一方的なもので、誰も私のことなんて理解していなかった。みんな、自分の色に染められた私を見ていたんだから、当たり前だよね。私の色なんて、誰も知らない。知ろうともしない。
でも、ミリアは、ミリアの前では私も、私を何かに染めなくていい。本当に世界の色が変わった感じだった……話していると気が楽で、楽しくて……自分で色を塗り、自分で世界を変えられる……だから、私はミリアが一番大切だってわかったんだよ」
彼女の話は一見、抽象的で難しいものだった。けれど、それは多分単純なもので、ただ私以外に素の自分で居られる存在がいなかったというだけの話だった。そういわれて、悪い気はしない。
そして、少し共感した。彼女の孤独に。多くの者と話すも誰にも理解されなかった彼女と、誰も理解できず疎まれた私では、全く孤独の性質は違うけれど。でも、独りが寂しいことはわかる。
「そしてさっき、それは確信に変わった。その理由は……言葉にするのは難しいのだけれど、さっきミリアが必死に自分の心を言葉にしようとして、そして私に伝えようとしてくれたから……というのが理由になるのかな。大抵の人は、そんなことしてくれない。私には自分の心は伝わっているものとして話す。実際そうなのだから、当然なのかもしれないけれど。
私にあんなにも大きな感情を向けてくれる人なんて、ミリアしかいないよ。だから、あの時思ったんだ。私はミリアを愛するために生まれてきたんだって。私の世界はミリアに彩られるために灰色だったんだって」
その、自分で聞いておいてなんだけれど、すごく恥ずかしい。けれど、嬉しい。こんなにも嬉しいものなんだ。人に大切だと、必要だと言われるのは。人に求められることは、こんなにも嬉しいことなんだ。まだ心のどこかにある疑念が消え去ったわけではないけれど、こうしていれば見ないふりはできる。
なんだか、身体が暖かい。冬の今は、こうして2人で身を寄せ合っていても、少し肌寒いものなのだけれど、なんだか身体が暖かい。熱でもでたのだろうか。いや、実際少し熱っぽいのだろう。私もユキもお互い、熱を持っている。感情という熱を。
どん。と音がする。
外で何かを強く叩く音がする。
「なに……?」
その後に男のうめき声と歩き去る音がして思い出す。
この家に来た時、彼女は男を1人気絶させているのだった。彼が起きたのだろう。幸い自分の部屋に戻ったようだけれど、随分とご近所付き合いしにくくなっているのかもしれない。元々近所付き合いとかしたことないのだけれど。
「あー、さっきの人か。少し不味いことしちゃったかな。普段は宥めるのだけれど、さっきはその、私もあんまり余裕はなくて、思わず蹴り上げてしまったから」
蹴り上げたんだ。それで倒せるものなんだ。魔法とかではなくて、ただの身体能力のみであれを成していたというのは、やはり彼女は特別な存在なのだと実感する。
「でも、復讐とかされても面倒だよね。あとで何とかしておこうか」
「何とかって、どうするの?」
「まぁそこは、腐っても国を支配する企業の娘だからね。親にも認知されているか怪しい私でも、それなりの伝手というかそういったものはあるんだよ。それを使えば隣の部屋から人を追い出すなんてすぐだよ。ちょっと面倒だけれど」
そういえばそうだった。彼女は立場的には大企業の御令嬢になるのだった。まぁ、聞いている感じはそこまで良いものではなさそうだけれど。でも、確かにその立場であるというのは変わらなくて、それを利用すれば、それぐらいのことは簡単なのかもしれない。
けれど、私はそんな人と恋人になってしまったのか。やはり、本当に私で良いのだろうか。だって、立場とかそういうものが私にはなくて、彼女は大企業の御令嬢なのだから、身分が違いすぎる気がする。
「追い出すの?」
「やろうと思えばね。あの様子だと、もしかしたらミリアに何かするかもしれないし、手を打つなら早めの方が良いかなって」
たしかに少し恐ろしい人ではあった。私は声を聞いていただけだけれど、怒りに包まれた下卑た叫び声をしていた気がする。でも、追い出すというのは可哀想な気もする。この家に来てからの8年間で会ったことはなかったけれど、今まで特に問題はなかったし、それにどちらかといえば、私達に原因がないと言えなくもないのだし。
「そこまでしなくても大丈夫だよ。今まで何もなかったし……大丈夫。うん」
「そう? でも、心配だし……あ、そうだ。なら一緒に住もうか。私の家に」
ぇ?
その時の私は、すごく間抜けな顔をしていたと思う。
「それなら安全だし、一緒に居られるし、良いことばかりだよ。部屋ならたくさんあるし、荷物も簡単に運べるし、ミリアが望むならお手伝いさんも呼べるし、学校にも近いでしょう? あ、いや、もちろん、ミリアが良いならだけれど」
少し呆けていたけれど、その提案は私には何も悪いことはなくて、それどころか嬉しい提案だった。正直なところ、また1人になれば、私は多分またあの怪物的思想と向き合うことになるのだろうと考えていたから。いや、多分ユキといてもそうなるのだろうけれど、その時独りなのか、彼女といるのかという差は果てしなく大きいということは、流石に分かる。
「それは、その嬉しいけれど、私こそ良いの?」
「もちろん。じゃあ、決まりね。なるべく早い方が良いよね……もう、今日からにしようか。多分、大きい荷物とかは後日になってしまうと思うけれど」
そんなふうにとんとん拍子で話は進み、私は今日中に荷物をまとめることになっていた。この家に思い出や、大切なものなどないし、すぐにでも出られるけれど、こんなにも話が速いとは思わなかった。
恋人契約による力とはこんなにもすごいものなのだろうか。世の恋人たちもこんなにすぐ同棲するものなのだろうか。
「じゃあ、早速」
「あの、ユキ……もう少し抱きしめてくれる?」
立ち上がろうとした彼女を呼び止めて、私は小さく要求をする。私の要求に、彼女は嬉しそうに笑って、長い腕で私を包んでくれた。
急に熱が離れていくことが私は怖くなっていた。さっきまで私は独りでこの家にいたはずなのに、ずっと独りだったはずなのに、既に私は独りを恐れていた。怖がっていた。
「結局、結局ね。私は怖いんだよ。ユキも、他のみんなも、世界も、全部、全部怖くて、だから恐れて……」
「うん」
「でも、初めてこうして人の温もりに触れて、私、ちょっと安心してるんだ。なぜかは分かんないけれど、暖かくて、心地よくて」
「そう? それなら、嬉しいけれど。そっか。なら、もう少しこうしていよっか」
ほんとは少しだけのつもりだったけれど、彼女の提案を断るほど、私は強くはなかった。
そして私達はもう少し身を寄せ合った。
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