序 零落

第1話 姉弟

 秋に差し掛かるどこか悲しい風が、黄金色の棚田を吹きわたる。

 静嘉せいかは大きな籠を背負い、弟の端粛たんしゅくの小さな手を引いて、水田の間の畦道を歩いていた。

 畦道からは、段になった水田が下の白湖はくこのほとりまで広がっているのが見える。黄金色の水田と、白湖の青と、空の青が混ざり合う。


「姉さま」


 弟の端粛は姉のくすんだ色の袖を引いた。


「田んぼと湖とお空、泣きたくなっちゃうくらい、きれいだね」

「そう? 端粛は詩人になれるかもしれないわね」


 静嘉はまだ小さい弟の頭を撫でた。

 彼女には「水田と湖と空がある」という感覚しかないが、四歳年下の気弱で繊細な弟は、それに「泣きたくなるほど綺麗」という感情を持つものらしい。


 よく見れば悪くはない物だが、くすんで擦り切れている着物を着て歩く、二人の姉弟がいた。


 姉のほうは長くさらさらとした射干玉ぬばたまのような髪をうなじのあたりで束ね、長い睫毛の、意志の強そうな美しい二重の切れ長の目を持つ。細いがよく働きそうなしっかりした体つきで、実際、手にはあかぎれがあり、裙の下に袴を履いていたが、しっかりとした足腰なのがわかる。


 弟のほうは、人目を引く姉を上回るほどの美貌だった。同じく、長い長いの、切れ長の美しい二重の目を持つが、柔和で繊細な印象を与える。肌の色も、よく日焼けした姉とは違い、雪のように白かった。一見、少女に見える。だが、少年の着る衣服を身にまとい、髪型も少年のする髪型をしているのが、かろうじて男の子だと示していた。


 ふたりは水田の畦道を下って、白湖の岸辺の小さな街へと赴いていた。


「今日も売るわよ」


 静嘉は美しい弟を見た。弟は「うん!」と大きく身を振りかぶって頷く。


 街の寂れた城門が開かれていて、二人は中へ入っていく。


 西方大都督が統括する帝国西方の端。白湖のほとりの波光はこうという街は、あまり活気がない。隣国と国境を接するが、交易地でもない。とはいえ、山あいの棚田の上に住む姉弟にとっては、良い稼ぎ場所だった。

 城門をくぐり終えると、人が集まっていた。


 小さな端粛は、先ほどの威勢の良さはどこへやら、「ひえっ」と姉のすそにしがみついた。


「端粛、あいかわらず怖がりね。ただの人の集まりよ」


 静嘉はしがみついてきた弟の小さな肩をぽん、と撫でた。


「……ごめんなさい」

「責めてるわけじゃあないわ。端粛の怖がりは良いことも持ってくるから。このあいだも、家の中庭の木の枝に怖がって大騒ぎして——」

「わーっ、やめて!」


 端粛は白い顔を真っ赤にする。静嘉は得意げに微笑む。


盛徳せいとくおじさまを呼んだから、怪しい人がうろついていたのを、やっつけられたじゃない。母さまも褒めていたわ。勘が鋭いねって」


 別の意味で、端粛は顔を真っ赤にし、両手で顔を覆った。


 かわいい弟を思いっきり褒めてやった静嘉は、人だかりを見てとる。どこも露店が立ち並び、姉弟が商売できる空間はなさそうだ。


「……やっぱりね」


 彼女はそうひとりごとをいうと、小さい弟の手を引いて、別の道を行った。

 市場から少しずれたところに、寺がある。その寺へと向かった。


「姉さま、お寺に行くの? お寺での商いはよくないって——」


 端粛が不安げな顔をする。静嘉は首を横に振った。


「違うわ。お寺での商いが許されないことはさすがの姉さまでもちゃんとわかるわよ。違うの」


 彼女は細い指で寺の前を指差した。


 朱塗りの細い柱と、軒が跳ねあがっているような急勾配の黒い瓦屋根が印象的な、波光一の寺院。その門に続く参道は、参拝客が大勢いるのに、まるで露店が少ない。いや、ほとんどない。みな寺院に遠慮する。


「参道で商売するなら、仏様も許してくれるでしょう?」


 弟は「なんだあ」とけらけらと笑った。そして姉にしがみついてこういう。


「それに、仏様に商いがうまく行くよう、うんとお祈りできる場所だね」


 静嘉は、弟の心は本当に清らかだな、と感心する。参拝客目当てにどれだけ商いできるかしか、頭になかった。


 弟の気持ちを曲げてもいけないので、寺にまず参拝する。

 大きな法事があるようで、門が閉ざされ、本殿には入れない。門前で手を合わせると、門のすきまから本殿が見え、その奥から、金箔がところどころ禿げて、木がむき出しになった仏像がちらりと見えた。


 弟は一生懸命、その仏に手を合わせて一心に商売繁盛を祈る。静嘉は、仏様の金箔をちゃんと貼りなおせばもっと参拝客が来るのに、としか思わなかった。もちろん、仏の慈悲を人並みには信じてはいたが。


 寺から出て、参道の横にむしろを敷く。商売開始だ。

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