海を探しに

十戸

フェレドとノーン

「海?」

 言いながら、フェレドは首をかしげる。

 肩口に切りそろえられた淡い灰色の髪が、その拍子にはらりと揺れた。この寒空に首巻もつけていない首筋に、いくつかの筋が小さく引っかかりながらこぼれ落ちる。フェレドはそれを、指先で掻くように払いながら続ける。

「あそこは木ばかりじゃないの。川とかはあるだろうけど。でも、海だって?」

 彼は笑った。

 金色の目が、やわらかい三日月のようにしなる。

 あるいは猫の爪に似て。

「そんなの、聞いたことないな。そうでなきゃ……それって大昔の話でしょう。違うの? ほんとに」

 そう言う彼の声も、どこか月に似ている。淡くかがやく月光に。色を変え、形を変え、けれどずっとそこにあるような奇妙に明るい響き。

「それほど古い話じゃないみたいだよ」

 ノーンも笑った。かすかに鐘の鳴るように。ノーンの声は、いつもあたりに広々とよく響いた。低く滑らかな、金属質な声。

 彼の笑う仕草に、けれどその髪は揺れない。ほとんど赤に見える金髪は、とても短く切り揃えてあったから。

 彫りの強いノーンの顔に浮かぶ笑顔は、少しばかり狼に似ていた。このあたりの連中とはぜんぜん違う顔立ちだよな、とフェレドは思う。

 ノーンのほうはその首に、曇天色した毛織の首巻を、ぐるぐると巻きつけてある。生まれ育った場所の違いか、ノーンはひどく寒がりだった。

「大昔って言うのはちょっと違うかもね。せいぜいが僕らというか、きみの曾じいさんくらいの話だと思うよ。そりゃあ、ほんとかどうかは知らないけどね。フェレドが知らないくらいなんだし。怪談みたいなものかな。でも、面白そうだろう」

「それでどうして海が森になっちゃったの」

「さあ。それはこれから調べるところ」

「なんだよ、そこが肝心でしょうに」

 はっと小さく息を吐く音、フェレドがしなやかに肩を竦める、その両目がちらちらと瞬く。どこか踊るような足取り、地面から浮き上がっているような歩調。ほっそりと痩せた形の足先が、敷石の境をなぞるように回る。一歩、二歩……。

 それは学校からの帰り道だった。冬の大きな休みの前、昼過ぎにはもう授業は終わり、あとは自習と質疑応答の時間が続く。教師は居残るが、だいたいの生徒たちはその日の課題を終えると帰ってしまう。彼らのほかにも、周囲にはいくらかなりと家に向かって歩く背がある。最後まで居残るような勉強熱心な生徒は、ほんの一握りだった。

 フェレドとノーンもあいにくと、そちら側へは含まれない。

 二人の横顔を、黄ばんだ太陽は、それでもまだ高く明るく照らしていた。

「……どうかなあ、だっていまは何にしたって、ただの森じゃないか。おれ何度も行ったことあるよ。いやあ、最近はそんなことないけど、子供のころにさ。ノーンもそうでしょう。このへんに暮らしてて、あそこで遊んだことない子供って、あんまりいないよ」

 フェレドの、柔らかななめし革に包まれたつま先に蹴飛ばされて、小さな石ころが跳ねて転がる。彼の足にぴたりと合ったかたちの靴。……彼は靴屋の息子だった。二代も三代も、もしかするともっとずっと長く続く、街の老舗のひとつ。

 道端にはずいぶんな量の落ち葉があった。黄緑、黄、橙、赤――いまは秋のほんのとば口、木々はところどころ色づき始めている。透き通った空気。吐く息はすでに白い。どうやら今年の冬は寒くなりそうだと、町の人々は噂していた。

 フェレドは首を竦める。ひとつ猫じみた身震い。寒いなら首に何か巻けばいいのにと、ノーンはいつも思う。

「木が何本も立っててさ。でも、それだけだ。昔ほんとに海だったとしてもね。たくさんの塩水があって、そこそこ魚が住んでて。海老とか蟹とか……貝もかな? でもまあ、それだけだったんじゃないの。海ったってさあ。そんなに面白そうとは、おれには思えないけどな……」

「どうだろう。水がなくなってるだけで、いまでも何か残っているかも知れないよ。それこそ貝とか。ああいう、姿かたちの丈夫な生き物は、死んだあとにも残りやすいから」

「化石?」

「う~ん、化石にはまだほど遠い時間だね」

「なあんだ。つまんないの。だいたいそんなホラ話、どこで聞いてきたの」

 フェレドはもう一度笑った。今度はいくらか音を立てて。

 ――遠く、駅のそばから汽笛の音。

「見たことはあるのか?」

 その汽笛に掻き消えない程度の大声で、ノーンが言った。

 フェレドは一瞬きょとんとして、それから小さく首をかしげる。

 灰色の髪が揺れる。

「何を」

「海さ。じっさい、見たことはあるのかい」

「ノーンは」

「あるよ」

 先ほどよりはいくらか声をゆるめて、ノーンは言った。もう汽笛の音は聞こえない。蒸気を吹き上げる音も。汽車は、どうやら駅から立ち去ったらしかった。

「僕はね。高々、三年前にここへ越してきたばかりの新参者なんだよ。知らなかったかい? フェレド」

 かすかに笑う。

「……そうなの」

「そうだよ。だっていまの学校で初めて会ったろう。だから小さいころのきみを僕は知らないし、きみは、小さいころの僕を知らないのさ」

 ふうん、とフェレドが言う、小さく顔をしかめる。

「そいつは知らなかったよ」

 小石を吐き出すように言った。

 そんなことは知っていた、もちろん。

「でもさあ、おれが海をじっさい見たことないなら、どうなの?」

 ノーンの一家を、よそものだって言うやつもいた。

 嫌な響きだった――前々から住んでいるということの、ただそれだけのことがどれだけえらいものだろう。

「もちろん、どうということはないけどね。ただ、」

 二人の歩みは坂道にさしかかっていた。靴底に張られた護謨ゴム板が、かすかに耳障りな音を立てる。

 坂の下には大きな通りが左右に走り、彼らの歩く道はそこで行き止まりになっていた。右へ折れれば駅へ向かい、左へ折れれば大きな公園がある。公園をぐるりと囲むように住宅地が広がり、彼らの話す森とは、その住宅街を越えた先にあった。

「見せてやりたいなあって、思ったんだよ」

 ノーンは笑った。

「きみに。海をさ」

 歩道に沿って坂を下りていく。人々の話し声、行き交う音、時折混ざりこむ自転車のベル。打って変わって騒がしい道々を、彼らは並んで歩いていく。二人の背丈はほとんど変わらないように見えたが、歩く間に間に立ち止まると、ノーンのほうがわずかばかり高かった。

 彼らは通りを右へ曲がる。手前から花屋、文具屋と続いて、三軒目に靴屋がある。古式ゆかしい四角ばった木造の身体を、深い緑色に塗りつけられたその靴屋が、フェレドの暮らす家だった。

 正面には火のように暗い赤文字。

 そこには大きく闊達かつたつな筆致で《メルタル靴店》と書かれてあった。

 二人はガラス戸を開けて店内へ入る。戸に取りつけられた真鍮の鈴が、開閉の動きにつれてからからと澄んだ音を立てた。古い出入り口がしなって軋む。店の中へ入ると、大通りの喧騒がいくらか薄まり間遠になった。

 フェレドが大きく息をついて言う。

「あーあ、もう、うるさいったらないな。しょうがないけど。寄ってく?」

 ノーンは首を振った。

「いや、帰るよ。母さんと約束がある。雨戸の修理をしておかなきゃ」

「そっか。じゃ、また明日」

「うん明日。それで、明日は帰りに森へ行こう」

「本気で?」

「本気さ。まあ、それまでにもう少しくらい、証拠を固めておくよ。何せ聞いたのが今日だったからさ」

「けっきょく誰から聞いたの」

「ウルシュ先生」

「あっ、あのお爺ちゃん先生? 腰曲がってて、ひげがもじゃもじゃの」

「そう」

「ははあ……」

 ガラス戸が開き、また閉まった。フェレドは首を振って、肩にかけた鞄の紐をゆるめる。おろす。数冊の本が、布越しに床へ当たって落ちる音がする。店を出て行くノーンに向かって手を振る。ガラス越しに、ノーンもまたフェレドに手を振る。笑いながら。……。

 壁から飛び出した釘に肩紐を引っ掛けて、フェレドは上着を脱ぎながら、店の奥へ入っていく。

「ね、父さん。海って見たことある?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る