7
公園のベンチで、瑞希は目を覚ました。座った姿勢のまま眠っていたようだ。急いでスマートフォンを手にし日付を確認する。四月一日、午前十時五分。安堵に全身の力が抜ける。間に合った、佑はまだ生きている。
メッセージを打ち込もうとして気が付く。四月二日に送った「どこにいるの」はおろか、「一次、通ったよ」というメッセージも残っていない。確か、選考結果を連絡した時刻は、十時半を回っていたように思う。かつて体験した四月一日の十時五分までの出来事は、全てなかったことになっている。
四月五日から四月一日へ四日、つまり九十六時間戻すことができた。初めは十六日、次は八日、そして今回の四日。戻せる時間は半分ずつに減るようだ。
今どこにいるの。焦りから何度も打ち間違えつつ、メッセージを送信する。電話していい? とも送る。
膝の上には、小説大海が乗っている。まさに四日前の十時五分、ここで選考結果を確認していたのだ。だが、今はそれどころじゃない。雑誌を脇に置き、居ても経ってもいられず立ち上がり、あたりをうろうろしてしまう。
右手のスマートフォンが軽快な通知音を鳴らした。心臓が跳ね上がる。立ち尽くして画面を見ると、結城佑からの返事が届いていた。
――すみません、今、電車なので電話できないです。
ほっとして、崩れるようにベンチにへたり込んだ。よかった。彼はまだ生きている。延山に向かってるんでしょ。そう送ると、すぐさま返信があった。なんで知ってるんですか。当たり前だが、彼は驚いている。
――何時に帰る? 何時でもいいから教えて。会いに行く。
この言葉には、返信までの間が空いた。彼の困り顔が見えるようだった。
――遅くなるから、会えないです。
ここで諦めるわけにはいかない。どうしても会いたいと瑞希は食い下がった。彼はいっそう困惑しているが、それは当然だ。彼にとって昨日の瑞希は、自分の言うことなどまるで信じていなかったのだ。今更、自分の死を止めるために動いているなどと思わないだろう。
会って話がしたい。どうしても会いたい。何度も繰り返すと、ようやく彼は折れた。混乱しながらも、二十時半に南浜駅でと指定した。その文字を目にして、背筋が寒くなる。学校の最寄りである南浜駅は、下浮月橋に最も近い駅でもあるからだ。二十分ほど歩いた先が、彼の死の現場だ。
それから瑞希は、悩み続けた。彼に一体、何を言えばいい。自分には到底及べない深い傷を負っている彼に、どうしたら思い留まらせることができるのか。
答えを出せないまま、食事さえ喉も通らない。頭をしっかりさせるためにカロリーメイトだけを食んでいると、夕食の席で母は難しい顔をした。ただ食欲がないだけだと説明したが、顔色も悪いせいだろう。外出をひどく止めるのを振り切って、瑞希は駅に向かった。
南浜駅のホームで待っていると、二十時二十六分着の電車から、佑が降りてきた。瑞希がわざわざ入場券を買って待っていたのを察すると、目を真ん丸にして驚いていた。四月といえど、夜は冷える。薄手のジャケットを着た彼の右腕の腕時計を見て、瑞希は戦慄する。
「このまま帰って」
ホームの真ん中で訴えると、彼はきょとんとする。瑞希はその両肩を掴んだ。まだ細い骨の感触に、胸がきゅうっと締め付けられる。
「改札出ないで。このまま、家まで帰って」
「何言ってるんですか、先輩」
「お願い。私が送るから、橋には行かないで」
行き交う人の視線に気づき、佑が瑞希を促してホームの端に移動する。瑞希が壁を背にし、彼女を挟む形で佑が立つ。「どうしたんですか、帰れとか会いたいとか言って。らしくないですよ」
「佑、これから死ぬつもりでしょ」
ストレートな言葉に、彼がぎょっとして目を見開く。「……びっくりしたー」その表情は、次第にいつもの笑顔になる。「先輩が、初めて僕の名前呼んでくれた」
「そうじゃない! いや、そうかもしれないけど」
やきもきしながら、普段は絶対に言えない言葉を言う。
「私、好きなんだ。佑のことが大好きだから、死んでほしくない。これからも生きていてほしい」
当の佑だけでなく、通りかかる人まで驚いて振り返るが、気にしてなどいられない。
「繰り返してるんだ。昨日は三月三十一日じゃなくて、四月五日だった。手紙も読んだ。どれだけ私を大事に想ってくれてるか、思い知った」
迷ったが、全てを打ち明けることにした。佑の気持ちはわかっていると伝えたかった。自分と周りがどれだけ悲しんだかを教え、思い留まってくれることを期待したのだ。
「みんな泣いてたよ。月子さんも、富士見さんも、サークルの人たちみんな。学校の子もたくさん来て、ぼろぼろ泣いてた。私も……私も、立てなくなるまで泣いた」
「それ、本当ですか」
唖然とする彼が振り絞る言葉に頷く。今日の延山行きを予め言い当てたからだろう。「そう」と彼は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、僕は自殺に成功したんだ」
その笑みは、ぞっとするほど無邪気だった。
「え?」
「覚悟はしてたけど、もし勇気が出なかったらって、ちょっと不安だったんです。遺書も書いたのに、やっぱり無理だったじゃかっこ悪いでしょ。でも、やればできるんだ」
さっと血の気が引くのを感じる。彼は自信を持ってしまっている。自殺の成功に対する自信を。
「いや、違う。そういうことじゃ……」
「みんなが泣いてくれたとき、僕のお母さんは泣いてましたか」
疲れた様子を見せても、涙一つ見せなかった彼の両親の姿。葬式での光景が脳裏に蘇り、うっかり瑞希は言葉に詰まってしまった。
「やっぱり、先輩は正直だ」その様子を見て、彼は満足げな顔をする。
「私たちがいたから、泣けなかったのかもしれないし……」あまりに下手くそなフォローに、こっちが泣きたくなってしまう。「実感がなかっただけかもしれない」
「わかってる。先輩は優しいね。お母さんは、朋が死んだ時、一生分の涙を流したんです。だから、僕に流す分はもう残っていないんだ」
「そんな、そんなわけないじゃない」
我ながら、情けなくなるほど力ない言葉だった。面倒ごとを解消できた安堵の姿。瑞希の目にも、彼の家で見た両親の姿はそう映っていたのだ。
「三人で暮らしていた時が、僕ら家族の最後の幸せだった。朋がいなくなった悲しみに、お母さんは耐えられなかったんです。佑が目を離したせいだと、何度も罵倒されました。もしくは、僕が代わりになればよかったんだって。その通りだと思うけど、やっぱり、お母さんに言われると辛いですね」
自然と、彼の左手の小指に目をやってしまう。息子が同級生に怪我を負わされても、家族は大して問題にもしなかった。その無関心が、動かない小指に宿っている気がした。
「流石に、死んだら振り向いてくれるかもって思ったけど、そううまくはいかないんだなあ。とっくに心が離れてるから、仕方ない」
でも。必死に瑞希は声を振り絞る。彼を止められない恐怖に、身体が自然と戦慄く。
「私たちは、佑が大事なんだ。代わりなんていないんだよ。私は佑が好きだから、これからも一緒にいてほしいから」
「それも、僕が死んだから気付いたんですよね」
彼が瑞希に意地悪を口にしたのは、初めてのことだった。もう、彼は笑っていなかった。口角を下げ、これほど目に陰鬱さを宿した彼の表情など、一度も見たことがなかった。
ひとまがい。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「僕が死ななければ、先輩はそんな言葉、言わなかった。きっとその気持ちは、ただの感傷です。三日も経てば忘れてしまう」
「そんなわけない! 今まで言えなかっただけで、ずっとそう思ってたの!」
「今言えたのは何故ですか。僕を止めたいから、そう言ってるだけでしょう。好きだと言えば僕を助けることができると考えているからだ。孤独で可哀想なひとまがいを救うことができると思っているんだ」
そうはいかないと呻いて、彼は一歩後ずさる。怯え、パニックを起こす寸前の動物のようだった。周囲の言葉など何一つ信用できない、ひとまがいという生き物だ。
「違うよ。そんなの、違う。お願い、信じて」
電車の通過を知らせるメロディが鳴り響く。必死で手を伸ばすが届かない。佑の顔はもう怒っていなかった。悲しげな視線をふいと逸らし、彼は線路に飛び降りた。
向かいのホーム側の線路に立つ佑が、こちらに大きく右手を振る。彼は笑っていた。さよなら、とその口が動くのが見えた。
彼の死を隠すように、瑞希のいる側をものすごい警笛と共に電車が通過した。ほぼ同時に、向こう側のホームにも、電車が滑り込んでいった。
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