第二十四話:『珍味』は歴史を凌駕する





                 ※※ 24 ※※



 

 何だか包まれているような……。

 そう。子供の頃、母親に抱きしめられた時のような匂い。


 懐かしい香りがする……。



「……侍従じじゅう? 結衣さん?」

「気が付いたようね」


 再び意識が戻ったのは車内だった。どうやら移動中のようだ。そして、後頭部に何やら柔らかな感触を覚えた。

 ゆっくりと眼を開くと、灼の大きな瞳が覗き込んでいる。俺は慌てて上半身を起こす。

 

「どうやら、死んでなかったみたいね」


 不敵に微笑む灼。対して俺は、事の顛末てんまつを思い出し、断固抗議した。


「お前なァ、突然シャベルで叩くのはッ!」


 俺は言いかけたところで、背後から俺の腕に絡んでくる人がいた。漆色の長い髪がサラサラと音を立てて、俺の頬をくすぐる。


「さっき、起きはる直前、ウチの名前呼んだやろ? どんな夢を見てはったん? お姉さんに教えてェな」


 結衣さんが潤んだ瞳で俺を見つめる。そしてだんだん近くなる。息遣いまで感じるほどの距離になる直前、襟首を後ろから引っ張られた。


「先輩、うちの駄犬だけんにチョッカイださないでくれる?」

「チョッカイなやんて、ウチはただ気になっただけや。灼ちゃんの名前やのうて、何でウチの名前なんやろなって」

 

 灼は乳色の頬を大きく膨らまし、大きな栗色の瞳で結衣さんを睨む。余裕の態度を見せる結衣さんに灼は、ネコのようにツインテールを逆立て、ますます怒気を露わにする。

 が、突然。

 

「にゃあッ!!」

 

 結衣さんが奇声を上げた。後頭部に飯塚先輩の手刀が落ちたからだ。振り向き、反論をしようとする結衣さんのおでこに再び手刀が落ちた。涙目で崩れる結衣さん。

 

(容赦ないのな、飯塚先輩……)


「これで邪悪な存在は消え去った。さあ、存分にイチャついてくれ」

 

(いや、ちょっと……。何か勘違いしているよな。そう、そもそも……そもそも!?)


「ちょっと結衣さん、失礼します」

 

 俺は結衣さんの豊かな黒髪を掬い匂う。椿事ちんじに飯塚先輩は驚き「イケズやァ」と悶える結衣さん。

 灼は今にも噛みつきそうな剣幕だ。それでも俺は気にせず聞香もんこうし続ける。

 

「やっぱり、藤袴ふじばかまだ……」


 俺は結衣さんから離れ、灼を見る。


「な、ななな……何よ」


 俺の真剣な眼差しに、少し後ずさる灼。構わず灼を抱きしめ、髪に顔をうずめる。

 部長が口笛を吹き、四字熟語は鉄面皮のまま「窃玉偸香せつぎょくとうこう……健全が一番。でも、ちょっとだけ興味津々」

 と、好き勝手なことを言う。富樫のリアクションは言わずもがな、だろう。

 俺は灼を離すと、首まで真っ赤になってほうけていた。しかし、それも一瞬のことで突然俺を足蹴にした。

 

「あ、あああ……アンタ! 二人だけならまだしも、皆の前で何やってるのよォ!! この、この、くォのッ!」


 ワンボックスカーとはいえ、狭い車内で灼は足を繰り出す。足裏が俺の頬やら、おでこやら、顎やら、ランダムにめり込む。それよりも俺の角度からしか見えないが、パンツがモロ見えなのはどうにかしろッ!

 

「お、おまえ……い、いつから香をめ……てたんだ?」

「え?」


 灼の蹴りが止まる、と同時にそそくさとフレアスカートの裾を直し始めた。よく見ると俺以外、皆作業着から普段着へと着替えていた。まあ、寝ていた(強制的に)から仕方がないが、今はそこが問題ではない。俺の言葉に結衣さんがにじり寄り、灼をすんすんと犬のように嗅ぐ。


「ホンマや。これは確かに侍従や。優雅な甘みがよう灼ちゃんに合うなァ」

 

 そっか、だからなのか。

 人によっては優雅だとか、クッキーのような甘さだとか、香は聞く人の気持ちや内面をさらけ出す。そして俺には、さりげないほろ苦さと、懐かしい微かな甘さ。だから灼……お前なんだな。

 しんみりとする俺の横で、結衣さんは緩んだ笑みで


「なんで、薫物たきもの?」


 露骨に狼狽しながら灼は視線を逸らし、ごにょごにょと呟く。


「……だって、平良が先輩のことばかり褒めるし、髪の匂いなんかも大好きだし……。だから、あたしもって……」

「どうしたん?」


 結衣さんが不可思議に詰問する。我に返った灼は、羞恥を大きな瞳に隠し、隠していることを悟られまいと意味のない怒気を見せた。


「別に理由なんかないわよッ! バカ平良が、色香で惑わす色ボケ先輩に捕まらないように、監視の意味を込めて始めただけよォ!」


 ふんッと鼻を鳴らして、そっぽを向く灼。くすくす笑いながら結衣さんは、


「せやな、しっかり監視しや。でないと……」


 しんみりしていた俺の腕を引っ張る結衣さん。もう片腕をすかさず灼が引く。当の俺はもはや事態の展開に理解が及ばなくなっていた。飯塚先輩の手刀が再度、結衣さんの後頭部に落ち、今度は部長も参戦して野次を飛ばす。怒りの頂点に達した灼はお茶の入ったペットボトルを部長の座席めがけて投げ込んだ。


「高校生組ィー。走行中の車内では騒がない」


 運転席にいる茂木教授が前方を見たまま注意する。俺たちは声を揃えて言う。


「すいませェーん」


 中村さんが振り向き、遠い目で笑った。


「若いもんはいいわよねェー。青春だわねェー。彼氏ほしーわねェー」


 と、茶化しながら、どこまで本気か分からない言葉を零す。車内を静寂と冷気が支配した。


(おい、誰かツッコんでやれよ! 富樫、おまえ得意だろ?)



 


 車は内房線に沿った国道127号を走り、館山市を抜ける。そして128号――『外房黒潮ライン』に入り、南房総市へ至る。やがて右手側には、眼前いっぱいに広がる海が見えた。

 天候にも恵まれたおかげで白い飛沫しぶきがキラキラと輝いていた。冬の外洋なので若干波が高い。ちらちらと黒いスーツを纏ったサーファーが波間を滑っている。


「わあァァ! 太平洋だァ!!」


 先程の騒動がまるでなかったかのように、灼がはしゃぐ。普段は内陸部に住んでいるため、海を見ることは稀である。しかも、一日で東京湾から外洋まで見物出来ようとはッ! テンションが上がるのも無理はないだろう。

 俺も思わず無言で眺める。太平洋ということは、この海をずぅーと渡っていくと、アメリカ西海岸まで繋がっているということだ。そう思うと感慨深い。が、その前に確かめておかねばならない事案があった。


「……灼。結局、市川さんとの議論はどうなったんだよ?」

「ん? あ、あれね。未解決。途中でセンセが割ってきて、とりあえず続きは次の移動先でってことになって、現在進行形で移動中」


 灼は車窓に顔をくっ付けたまま、俺の質問に答えた。


(なんだ……)

 

 結局『土』の話も、『貝塚』の有無も全て保留になったまま、発掘跡を去ってしまったのか。

 でも、それでいいのか? まあ、センセが良いのなら良いのだろう。

 俺は海原の景色を鑑賞するのも忘れて考え込んでいると、車は徐々にスピードを落としつつ右折して細道へ入る。道の奥まで徐行し、とある広場で停車した。


「ここが、今日泊まる民宿だ。さあ、みんな荷物を降ろして」


 茂木教授の言葉に、大学生組と高校生組が歓喜を上げる。自動車での移動も愉しいが、やはり目的地に着くと何倍も心躍るものだ。


「いやァー、やっと着いたなァー」


 富樫は降車した途端、背伸びをして深呼吸する。そういえばコイツ、車内ではほとんどしゃべらなかったな。


「富樫先輩、乗り物酔いになりやすいらしいッスよ。走行中、青くなったり、白くなったりしてたッス」

尾崎が、耳元で囁く。

「電車の中では、はしゃいでたぞ?」

「駅に着いた途端、リバースしたらしいッス。まあ、あたしは平気ッスけど」

「お前なら、きっとサスペンションを抜いたガタガタのバイクでも平気だろうよ」


 俺は揶揄する。しかし、尾崎は嬉しそうに頭を掻きながら、

 

「そんなに褒めなくってもいいッスよ、平良君」


 コイツは嫌味と知って受け流しているのか、それとも本当に風と共に脳みそまで落としてきたのか、多分後者だろう。

 俺は大き目のスーツケースを降ろし、玄関までの急勾配を引こうとするが、重すぎて動かない。引いてもダメなら……と、押してみたが、やはり動かない。そんな俺の横を軽い足取りで灼が追い抜いていく。


「灼ァ……。お前も少しは手伝えよ」

「いやよ。荷物運びは、昔からあんたの仕事でしょ」


 疲れた身体からしぼり出された俺の嘆願を、灼はいともあっさりと拒絶した。


「ま、そうだけど」


 俺は渾身の力でスーツケースを押す。ゆっくりと坂を上っていく。その横を部長と四字熟語が過ぎていく。


「ま、頑張れよ」

部長の言葉に、思わず「置いて行く気かよォ!」と投げかけたが、手を振って離れていく。

 

流汗滂沱りゅうかんぼうだ。カノジョのために頑張りなさい」


 その後で部長同様、四字熟語から抑揚のない激励を受けた。


(ちっとも嬉しくないぞッ!)


 肩で息をしながら、ようやく玄関口まで運んだ時は、皆はすでに広間でくつろいでいた。羨望の眼差しでチラ見し、玄関へ上げようとすると、民宿のおじさんが部屋まで一緒に運んでくれた。俺は人の温情に触れて目頭が熱くなるのを感じた。

 ようやく俺も皆が居座る広間で腰を下ろしたとき、奥から着物姿の恰幅の良い、壮年期を程よく越えた女性が顔を出した。


「ようこそお越しくださいましたァ。遠いところから大変でしたねェ」


 満面の笑みの女将おかみに、茂木もぎ教授がぺこりとお辞儀する。


「また今年もお世話になります。今回は例年より大所帯ですが宜しくお願いします」

「あらあら、まあまあァ。随分お可愛らしい生徒さんたちもいらしゃるのですねェ。宜しくお願いします」


 女将は笑みを絶やさず、俺たちをゆっくりと見渡し、お辞儀した。つられて俺たちも会釈で返す。


「今回、考古ゼミの一環で、高校生も引率することになりまして……。少々騒がしくなりますが、色々御面倒をおかけします」


 教授の言葉に、女将は爽やかに笑う。


「まあまあ、食べ盛りですねェ。ご昼食を用意してますが、足りるかしら? 皆様、もう少々おくつろぎになってお待ちください」


 女将は静々と奥へ下がった。

 再び、女将が姿を現したとき、教授も含め大学生組、俺たち高校生組は揃って別館へ案内された。襖を開け、一番に灼が中に入る。畳敷きにお膳が整然と並んでいた。


「すぅごォォいッ! 畳だァ! お膳だァ! 時代劇だァ!」


 最後の一言には何の意味がある? 

 俺はツッコむ気力も失ったまま、無言で灼の手を引き、適当に座らせる。隣に俺も座った。

 女将は高校生女子の足元を見て、眼を細めて首を傾げた。


「女の子はテーブルの方が良かったかしら?」

「気にしないでッ。あたし、お膳で食べるのは初めてェ! 嬉しいィィ!!」


 灼の言葉に、結衣さんも「お気になさらず。お膳は慣れてはるんで」と澄まし顔で、俺の対面に座った。四字熟語は「炊金饌玉すいきんせんぎょく。こういう機会は余りないのでワクワクする」と、心情の何パーセントもくみ取れないほどの鉄面皮で、結衣さんの隣に座った。その後、尾崎が座り、富樫が座り、部長、飯塚先輩と続く。大学生組と教授は上座寄りに座っていた。

 お膳の内容を見ると、流石に漁港を持つ街だ。様々な鮮魚の刺身がてんこ盛りだった。煮物に煮魚、酢の物に漬物……。これで昼食? 晩飯食べれるのか?

 が、気になる料理があった。あじのたたきッポイのと、五徳の上の網には、あわびの殻にツミレのようなものが詰められて置いてある。

 

俺が注視するまもなく、仲居なかいさんが、手馴れた動きで素早く五徳ごとくの中の固形燃料に火を点けて回る。

おもむろに教授が立ち上がった。手には琥珀色の液体の上に、真綿のような白いフワフワが覆っている飲料を持っていた。大学生組も同様だ。


「みんな、飲み物は行き渡ったか?」


 教授はぐるりと見渡す。俺たち高校生組には、すでに仲居さんによってオレンジジュースが注がれていた。まあ、固い表現で言うならば俺たちは『制限行為能力者』。つまり未成年だ。


(だろ?) 


 四字熟語に視線を合わせて苦笑する俺。ふぃっと受け流される……って無視しないでくれェ! お前『よくわかる民法』読んでなかったけ?

 俺は柑色の液体を憮然と持ち上げる。言っておくが琥珀色の煌々と輝く液体が飲みたいわけではないからなッ! それはそうと、さっきから灼の突き刺さる視線が痛い。 

 教授の言葉が、俺の心の叫びを余所に続く。


「今まで皆、本当にお疲れ様。今年は高校生諸君も交え、色々なデスカッションを交えたが、例年に違わず、大いに有意義であった。特に市川君と並木君の論争に、一石投じた灼ちゃんの論点は大変興味深かった。しかし、まだ論争に決着はついていない。それは私が先送りにしたからだ。なぜ、そうしたか? 今ここに答えがある。美食に舌鼓を打ちつつ、考えてみたまえ。では、乾杯」

 

 大学生組に高校生組。それぞれの思索生知しさくせいちが試される昼食会が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る