第31話


「綺瀬、くん……」


 振り向いた先に、綺瀬くんがいた。

 夕陽を背に、中学のときの制服を着た綺瀬くんが、そこにいる。


 よろよろと立ち上がり、綺瀬くんの元へ向かう。


「綺瀬くん……? 本当に、綺瀬くん……?」

「どうしたの、水波。お化けでも見たような顔して」


 微笑む綺瀬くんに、涙が込み上げる。あっという間に視界が滲んで、奥歯を噛み締めた。


「いないから……もう、会えないかと思った……よかった」


 言いながら、綺瀬くんに縋るように抱きつく。


 懐かしい。綺瀬くんの匂いだ。大好きだった匂いだ。私は顔を綺瀬くんの胸に押し当てる。


「おっと……なに、修学旅行の間、そんなに俺に会いたかった?」


 戸惑うような、それでいてどこか嬉しそうな声で、綺瀬くんは言う。


「会いたかった。会いたくてたまらなかった」

「おわ、素直だな」


 ぎゅうっと手に力を入れると、綺瀬くんは優しく、でも強く抱き締め返してくれた。しばらくそうしてから、私たちは手を繋いだままいつものベンチに座る。


「私ね、修学旅行で私を助けてくれた人に会ってきたよ」

「そう」

「綺瀬くんの言う通りだった。私は、生き残っちゃったんじゃない。助けられたから、今こうしてここにいられるんだね」

「うん」と、綺瀬くんがにっこりと笑う。

「それでね、その人に言われたの。私を助けてくれたのは、綺瀬くんだって」


 もしあの日、綺瀬くんがあの場で瓦礫の上に私を押し上げてくれていなかったら。


 穂坂さんは言っていた。

 意識を失っていた私は、死んでいただろうと。


 綺瀬くんが助けてくれたから、私は今ここにいる。


「綺瀬くんに言わなきゃいけないことがあって」

 一度言葉を切り、綺瀬くんを見つめる。

「助けてくれてありがとう。私、ぜんぶ思い出したよ。綺瀬くんのこと」

 まっすぐに綺瀬くんを見て言う。


 綺瀬くんは一瞬驚いたように固まって、そのあと小さく笑った。

「……そっか。思い出しちゃったか」

「ずっと忘れててごめんなさい」

 静かに首を振り、綺瀬くんは私の手を握り直す。

「俺こそ、黙っててごめんね」

「私のためだよね。綺瀬くんのことを思い出したら、また落ち込むと思ったんでしょ?」

「水波、俺のこと大好きだったからさ」


 茶目っ気たっぷりに綺瀬くんは言い、からりと笑った。


「そうだね。大好き」


 事故の恐怖。流されていく来未の手。綺瀬くんの死。

 現実は救いようがないほど残酷で、泣き叫びたくなる。


「あのときのことを思い出すのは、今でも怖い。来未や綺瀬くんのことを思うと、悲しくて、死にたくなるときもある。でも……お母さんにもお父さんにも、それから穂坂さんにも……生きててよかったって、泣きながら言われたから。怖いって言うとね、朝香や友達が手を繋いでそばにいてくれるんだ。だから、捨てない。私は生きるよ。辛くても踏ん張るよ」


 綺瀬くんが、私はひとりじゃないって教えてくれたから。


「水波は強いなぁ……」

 綺瀬くんは眩しそうに目を細め、私を見つめた。


「綺瀬くんは?」

「ん?」

「私は、綺瀬くんのおかげで本音を言えるようになったよ。……綺瀬くんは?」


 きっと、たくさんあるはずだ。綺瀬くんの本音。


 聞くのは怖い。胸がちりちりと痛む心地になる。けれど、彼の声を聞くべきはほかのだれでもなく私なのだと思う。


 まっすぐに見つめて訊ねると、綺瀬くんは顔をくしゃっと歪めた。


「俺は……」


 その瞳にじわじわと涙が浮かんでいく。


「俺は……死にたくなかった。もっと水波と一緒にいたかった。来未も助けてやりたかった。三人でもっともっと、思い出作りたかった……っ!」


 綺瀬くんは潤んだ声で叫んだ。私はたまらず綺瀬くんを抱き締めた。


 綺瀬くんは痛いくらいに私を抱き締め返しながら、思いを叫ぶ。


 大きい身体は弱々しく震えていて、恐ろしいくらいに冷たい。

 その現実が、余計に胸を苦しくさせる。


「……ずっとひとりで寂しかった。暗くて、寒くて、怖かった。……水波に、会いたかった」

「うん……うん」

 私は気の利いた言葉をなにひとつかけられないまま、ただただ綺瀬くんの背中をさすり続けた。


 そっと身体を離し、綺瀬くんと目を合わせる。


「……ずっとひとりにしてごめんね。私はここにいるよ」

 綺瀬くんに優しく微笑む。かつて、彼がそうしてくれたように。

「水波……」

 泣きじゃくる綺瀬くんは、幼い子供のように見える。


「……水波に触りたい」

 私は強く抱き着いた。

「じゃあ、ずっと抱き締めててあげるよ」

「……水波の可愛い声が聞きたい。ずっと、聞いていたい。叶うなら、そのまま眠りたい」


 なにを言おう、と少し唸る。


「うーん……いきなり言われると思いつかないなぁ。……綺瀬くんの泣き虫! ……とか? あ、それともうそつき? かっこつけ……?」


 一瞬きょとんとした顔をして私を見下ろしたあと、綺瀬くんはくすくすと笑った。つられて私も笑う。


「……水波。俺のこと、思い出してくれてありがとね」

「……うん」

「もう、忘れないで。好きな人に忘れられるのは、辛いよ」

「忘れない。もう、絶対忘れないよ……っ」


 この世のすべてに誓って忘れない。そう言おうとしたとき、綺瀬くんはふと寂しげに笑った。


「……うそ。俺のことは忘れていい。忘れて」


 目を瞠る。


「……どうして、そんなこと言うの?」


 信じられない思いで綺瀬くんを見上げる。すると、綺瀬くんは私を見つめて弱々しく微笑んだ。


「水波には、だれより幸せになってほしいんだ。これからもたくさん友達を作って、恋をして、大人になって結婚して子供を作って、幸せなおばあちゃんになってほしい。今、俺にとって大切なのはね、俺自身が水波を幸せにすることじゃなくて、水波が幸せでいることだから。水波が幸せなら、そこに俺はいなくてもいいんだ。だからね……お願いだから、俺のことはひきずらないで」


 綺瀬くんから一歩離れる。


「それが、俺のいちばんの願い」


 別れの予感に、足が竦む。


 分かっていた。

 もう、綺瀬くんとは一緒にいられないこと。

 なぜなら私は、沖縄で綺瀬くんが死んでしまったという現実を受け止めてしまったから。


「水波、お願い」

「綺瀬くん……」

 綺瀬くんは、見たことないくらい悲しげな顔をして、私を見つめている。切実な声に、喉がぎゅうっと絞られるように苦しくなった。


 私は、首を振る。


「……やだ。やっぱりやだよ。私、綺瀬くんが好き。このまま、そばにいてよ。どこにも行かないで。消えないでよ、お願い……私をひとりにしないで」


 祈るように言うが、綺瀬くんは静かに首を振った。


「水波はもう、ひとりじゃないだろ。水波を愛する両親がいて、水波の手を握ってくれる親友たちがいて、心配してくれる先生だっている。これから水波は、もっといろんな人に出会って大人になっていくんだ。過去より未来を見て生きていくんだよ」

「……でも、綺瀬くんは……」

「水波は優しいから、いつも俺のことを一番に考えてくれるよね。そういうところ、大好きだよ。……でも、俺のことは心配しなくて大丈夫。水波との思い出があるから、もう怖くないし寒くもない」


 水の惑星を閉じ込めたようなその瞳が、とろりと潤んだ。目が離せなくなる。かすかに綺瀬くんの眉が歪んでいる。苦しげなその顔に、言葉を失う。


「綺瀬くん……」


 お願い、行かないで。

 そう言いたいけれど、ぐっと呑み込む。

 ダメだ。これ以上は、甘えちゃダメだ。


「水波。これまでそばにいてくれてありがとう。俺を好きになってくれてありがとう」


 私は唇を一文字に引き結んだまま、ぶんぶんと首を横に振った。

 綺瀬くんの頬を、涙がつたう。


「俺の人生に寄り添ってくれて、ありがとう」


 いやだ。やっぱりいやだ。待ってよ。行かないでよ。お願い、もう少しだけそばにいてよ。


 綺瀬くんを引き止めるように、私は彼に抱きついた。


 ……はずだったのに。


 私の手は虚しく空を切った。バランスを崩して、危うく転びかける。


 驚いて振り向く。

 もう一度、綺瀬くんに手を伸ばす。

 私の手は、たしかに綺瀬くんの胸に触れているはずなのに、感触はない。

 綺瀬くんの身体は半透明で、彼の身体には夜空の星が瞬いていて。


 綺瀬くんが泣きながら微笑む。


 口を開いてなにかを言っていた。けれど、どうしてか声は聞こえない。

 耳を押さえる。


 どうして? どうして、どうして……。


 綺瀬くんはどんどん空気にとけていく。


「待って……綺瀬くん! 綺瀬くん!」


 何度抱きつこうとしても、私の手はなにも掴めないまま。


「待って……やだ、やだ! 行かないでよ! 綺瀬くんっ……」


 勢い余って、地べたに転がった。しゃくりあげながらもう一度立ち上がろうとしたとき、風が動いた。綺瀬くんがふわりと私の前にしゃがみ込んだのだ。


「綺瀬くん……?」


 綺瀬くんが鼻先の触れそうな距離で私を見つめている。ゆっくりと唇が動いた。


 その唇は、たしかに『ありがとう』と言っていた。

 ぶんぶんと首を振る。


「私こそっ……! どん底だった私を抱き締めてくれて、悩みを聞いてくれて、ずっとずっと、呆れずにそばにいてくれて……」


『ありがとう』と言いたいのに、どうしても言えない。


「綺瀬くん……あのね」


 綺瀬くんの指先が、優しく私の唇に触れた。

 そのまま頬に流れていく。

 あたたかい水に包まれるような感覚が気持ち良くて、私は目を閉じて擦り寄せるように綺瀬くんの指先に応える。


『水波』


 かすかに声が聞こえて、目を開く。


 綺瀬くんの指先は震えていた。綺瀬くんがそっと身をかがめ、私も引き寄せられるように顔を上に向ける。


 そして、触れるだけのキスをした。


 目を伏せると、涙が頬をつたっていく。綺瀬くんのぬくもりを噛み締める。


 次に目を開けると、綺瀬くんの姿はどこにもなくなっていた。

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