第六幕・Tempo・夜道を行く二人 Part・琥珀と草花

※これから書くは迷惑行為です。決してマネしないで下さい。


 夜を行くバスの中、無言の旅はいつもより長く感じる。草花はバスが好きらしい。熱心に流れて行く景色を見詰めていた。草花曰く、バスは、電車のそれより不安定で不規則な景色を乗客に見せる。その為に、空いている車内ならば電車に乗っている時よりも人を優しい気持ちにさせるんだとか。ちなみに言うと、電車はそれよりも闘志に火をつけやすい乗り物らしい。ひたすらにワクワクさせられるとか。ここ数年間は專ら通勤客の琥珀はそうか?と思いながら草花の話を黙って聞き、草花は自分が話し終えると琥珀の案の定、満足したらしく落ち着き、一人掛けの座席に座って肩をすぼめ、景色を眺め始めた。琥珀はつり革に掴まり、週末のこの時間ならばいつものようにだるくなってきた頭で、明日からの仕事の事を考えていた。


 バスの扉が開くや草花は跳ねるように外に飛び出して行った。迷わず予定とは真逆の方向へ駆け出そうとする草花を、琥珀は慌てて呼び止めた。

「逆!逆!こっちです。」草花は振り向き、バス停の淡いひかりの中のおぼろな琥珀を見て、一度にっこりと笑い掛けた。


 どうやら草花は夜道が好きらしい。琥珀を置いてどんどん歩き、時々振り返っては琥珀へ方向を訊ねた。都度琥珀は大きな身振りで草花へ行く先を示した。しかしそれもしばらくすると、草花は何かに気がついたらしく、琥珀の隣に来て歩調を合わせ始めた。二人は並んで地方都市の、暗い夜の道を歩いた。ピンク色の大きな蓮を目指して。


 曇天。溢れて街中を白昼とばかりに演出していたネオンは、もうはるか遠く。おとなしく琥珀の案内に従う草花に、許しを得たような気がして、琥珀はたまにポツリ、ポツリと草花に話し掛けた。草花は答えるか、否かした。反応が無いときでも、どうやら草花は琥珀の話に懸命に耳を傾けているらしかった。


 琥珀の家路はバス停から、ほどほど遠い。琥珀には月々貯金する事が必要で、在宅中には静けさを求めたからだ。勤めている会社はわりと少人数。忙しくても、勤務中のスタイルは自由が許されていた。何度か小路に入って、角を曲がるとひょろひょろと大きく曲がりくねる緩やかな坂道に出た。脇は雑木林。木と土が、前日の雨でむっつりとした湿気をはらみ、腐葉土に似たにおいを琥珀達が居る道路まで拡げていた。緩やかでも、下り坂だから、琥珀も草花も少し足早に、肩をわずかに跳ね上げながら歩いた。等間隔が長い街灯の下のアスファルトは、時折夜空の様に明滅していた。二つ目の街灯の真下に来た時、会話の無い草花との夜道を紛らわそうと、琥珀は街灯を見上げた。それからうつむいて明るさを一層増した硬い地面を見ていた。ふいにむせぶような胸苦しさが喉元までこみ上げてきて、琥珀は一人、苦笑した。

「思い出し笑い?」

草花の声は真っ直ぐで、けれど夜道の緊張からか、ほんの少し鋭い様に思われた。琥珀は「うん。」と相づちを打ちながら先刻街灯の灯りのお陰で反射的に思い出させられた苦い記憶に、思わず立ち尽くしていた。だから、草花は数歩先に居た。毎日の家路に、人が一人加わるだけで遠い記憶は思い起こされる。共に家路を行くのは草花が初めてでは無いのに、恐らく、二人は少々無言が過ぎたのだ。

「何、どんな?」

草花は何も構わず琥珀へ内訳を話す事をせがんだ。珍しいと言えば、珍しい現象。琥珀は草花に話す事に少し躊躇した。理由は特に無いが、なんとなく、草花には教えたく無いような気もした。

 

 琥珀は草花には理由も無く人を見下す病が有るとみなしていた。知りもせず、草花は言葉だけで他者の苦労をくだらないと嘲る節があるのだと。あまり親しい間柄で無いのだから、何となく、草花に幻滅するのは避けたい。そうしておけば、次、いつまた再会しても、草花の事を遠慮せずにいられる。つまり、琥珀が今しがた思い出した記憶は、琥珀にとっては相当に苦い。その為に、いわゆる世間一般的な苦労からは程遠い、また、程遠かったであろう草花に、馬鹿にされれば相当な苛立ちが予想される。

「えーっと・・・」

「まずいの?」

「いや、この街灯。」

「うん。」

「この街灯の下で、女の子に告白された事が有る。」

人差し指で自分の頭上を指差す琥珀を、草花はまじまじと見ていた。それからこれまでとなんら変わりない様子で、「告白って、愛の?」と訊ねた。琥珀は目前の草花から逃避するように夜風に誘われ、そのぬる暖かさを求めるように一度夜空を仰いだ。再び草花と向き合い、苦笑すると「うん。」と答えた。草花の無表情が見る間に満面の笑顔に変わっていく。いたずら坊主のように忙しなく琥珀に歩み寄るや人差し指で琥珀をツンツンとつつき回した。鼻息荒くニヤニヤと笑う草花に、琥珀は思わずこみ上げてくる可笑しさを堪え、再び苦笑し、一寸気持ち悪いな。等と考えていた。

「ね、琥珀君。それで?どうしたの?その娘。」

「付き合ってました。十九の時。」

「え、その時も、夜?十九才・・・私、知ってる?その娘。」

「夜でしたよ。」

琥珀は頷き、名前を言った。それを聞いた草花は瞬く間に真面目な顔をして琥珀の両の目を交互に見詰めた。

「あ!分かった。あの娘だ。色白で・・・」

草花は両手でジェスチャーした。琥珀は思わず吹き出すと赤面した。草花は構わず、はしゃぐに任せた。

「スゴかったよね!」

「止めて下さい。」

「だって夏にあんな裸・・・ごめん。」

草花は黙り、静まった。

「あの先に、なんて言うんだろ・・・道の吹き溜まり?みたいな所が有るんです。そこでふざけてて、要は酒呑んでた。何人居たかな?それで・・・」

「夜道を帰って来たわけだ。二人の酔っぱらはいが。」

「そう。けど彼女は・・・」

「まさか!」

「酔ったふりをしてた。」

「ゲーッ!」

草花の大笑いに琥珀は人差し指を立て、「シーッ!一応住宅街だから・・・」と声の音量を下げて草花をたしなめた。たしなめた割に声音は笑っていて、草花も「あー、ごめんごめん。」と冗談めかしてスケベそうにゲスな声で言うとまだ笑っていた。音量を下げても、草花が時々漏らす笑い声は何度か大きく響いた。

「けどさー、彼女、すっごい可愛くなかった?アレ?わたしだけかな?そう思ってたの。もて余してさえいるように見えたけど。彼女の事、わたしは好きだったよ。意外と一匹狼で。会話は実り無しって印象だったけど。あ、この人サバイバーかも知れない!って思ったの。・・・けどそれは勘違いかもね。わたし、何度か思わず描いたもん。あの・・・」

草花は一転して真面目な口調で話していたにも関わらず、またぷーっと吹き出した。

「ねぇ、どうして?おっぱ・・・いや、単語がいけない!」とまた大きな声を出した。琥珀は何となく笑いながら草花の大はしゃぎをやり過ごした。

「しっかし、手練れよなー!え?皆そんな風なの?どうして明るい方でそうなの?あれ?そういう時って暗い方かと思ってた!」はしゃぐ為に度々立ち止まる草花の言葉を聞き流しながら、琥珀は歩き出すように促し、あの時の事を思い出していた。

街灯の下、多分、告白と危険な誘惑。彼女は慣れていて、気が付くと琥珀の家に転がり込んでいた。琥珀は十九才だった。例え馬鹿でも、愚かでしかなかった。

「草花さん、これ、見える?」

三つ目の街灯の下に来たとき、琥珀は立ち止まり前髪を上げてまた数歩先を行く草花を呼び止めた。草花は無言で振り返り、琥珀に歩み寄ると示された額を触り、目を細めて確認した。

「あ!これ・・・傷あと・・・?え、深くないか?」

琥珀は優し気に笑った。

「そう。大分流血しました。・・・彼女、なんだろう。なんて言うか・・・エキセントリック?」

「けんかしたの?」

「うん。いや・・・人並みのつもりだったんですけど・・・」

「あっちが逆上して?」

「そう。びっくりしました。急にね。手元に有ったラジカセ投げてきたんです。」

草花は笑わなかった。琥珀を只、真剣な面持ちで見詰めていた。

「はは。なんて言うか・・・知らなかったけど問題の有る人って言うか・・・いや、とにかく慣れてた。」

「暴力?」

「うん。みごとな手つきで投げて寄こして。狙って、ここ。転んで打ち所悪かったら・・・それより自分で救急車呼んで親に説明する方が地獄だったけど。あはは。金無くて。同棲とか真面目にしてた訳でも無かったから。うーん、俺も少しは悪かったかな・・・けど初日・・・最初が最初で、そんな風だから、」

「え、その時って琥珀君だけだったのかな・・・えっと・・・」

「あ、大丈夫ですよ。もう傷心て言うか、恐怖じみた記憶に変わってるんで。これのせいで。うん。多分、行き場無かったんでしょうね。やりたい事も見つけられなくて。と、言うか、」

「狂ってたよね、彼女。粗野で、いつもライターカチカチ。けどわたし、横顔がきれいですごく大好きだったの。大っきな胸とハレンチな服装が哀れっぽくて。どうしていつも泣いてるんだろう、って思ってた。今考えると、ただの癇癪かも知れない。あの乳房、どうしてか彼女を清らかに見せてた。無知と無垢って、全然別物なのにね。わたし、他人のおっぱいに思わず見とれたの、あれが初めてだった。これって、セクハラだよね。彼女にしたら、失礼でしかないよね。・・・なんか生き急いでたよ。彼女。ばかみたい。どうして狂い歩いて、人に暴力振るって・・・確か結婚したよね?落ち着いたなら良かったよ。まったく・・・」

言い終えると草花は前を見据え、歩き出した。草花の背中を一度確認するように眺め、琥珀も歩き出した。前髪を立てた爪でかき混ぜ直しながら、琥珀は再び話し始めた。

「俺、思ったんです。あの時にはそうは考えなかったけど。・・・クズ、とかロクデナシ、とか色々居るじゃないですか。自由業だとか、草花さんみたいな仕事目指す連中の中には。いや、他の世間にも居るけど。けど、人をそういう価値観ばかりで推し量るのって、つまらない、って言うか・・・正直どうなのかなって思って。つまり・・・働いたり、現実的、物質的と言うか、そういうものに対して役に立つから、とにかくそういう人だけを優先させよう。っていうのがどうにも・・・いや、それが現実社会だっていうのは分かってるんです。」

「けどわたし、この仕事やってて半年に一度は自分の職業をヘイトしてるよ。だって本当に嫌な奴とか、クソとか、割り切れず理不尽な事の連続だもん。・・・たかが絵じゃん。自分の身から出たサビって言ったら格好つけ過ぎか。創作物って言ったって、ただ仕事してお金もらうだけじゃんね。人となりって、何なの?作品が良けりゃそれで良いじゃん。お金も貰えてばんばんざい。」

「いや、俺が言いたいのは・・・」

「けーざい?資本の事じゃないの?」

「そうじゃない。その人個人の人となりや性質で世の中に、社会的に位置付けが成されれば救われた様に感じる人も居るんじゃないかって、考えたんです。・・・役立たずのロクデナシ人生に自分で自分を批難する人ももしかして中にはまだ存在してるかもって・・・あ、草花さん。ここ。ほら。見て。」

琥珀が草花を振り向くと草花はじ、っと琥珀を見ていた。街灯の大きな逆光を背に、真剣な面持ちには 何か が宿っていたものの、暗闇なのもあって、琥珀には上手く感じとれなかった。ただ、何となく、琥珀はこの一瞬に、草花と言う人がどんな人か、わずかに垣間見た気がした。

「琥珀君、あなたはどうしてそんな事考えたの?失礼だよ。・・・これ以上出来る事は無いって、思ってる。創作の悩みで死ぬんじゃないかって、それくらい苦しい事なんかザラだけど。わたし、この仕事大好きなんだと思う。突き落とされる度、そう確信するの。だけど、ほんとにヘイトしてる時がよくある。最近は特にね。生きることまるごとそっくり全部だよ、琥珀君。わたしは、呼吸してるだけなの。雑音が邪魔なら、集中して消すしかない。・・・彼女のこと、フォローしないで。暴力は暴力。悪いよ、本当。理不尽でも苦しくても、・・・死にかけでも・・・一生懸命な人なんか沢山居るから。言い分は有るでしょうよ。そりゃあね、生きてる限り。苦しみは尽きないし、悩みは人それぞれだから。だけど、モラルにすら救われない人にはそれなりの理由が有るよ。誘われてたかがエッチしたくらいで同情しないであげて。ほんとに楽しんだのって誰だったの?琥珀君も脇が甘いけど、それはそれ。これはこれだから。プライドが有るんでしょ、彼女にはさ。・・・言わせてもらうけど、しっかり出来るようになってからプライドって言葉、使ってほしいよ。」

甘える為の口実なら最悪。そんなもんがいくらになるっていうのさ。草花は終いに一人、呟くとようやく琥珀が指し示す方を見た。

「わ!」

草花は叫び、もう一度琥珀にシーッ!とたしなめられ、自分の口を自分の手で塞いだ。

「ほんとうだ・・・」

草花の指の隙間から漏れ聞こえた言葉に、琥珀は一寸、浮ついた心持ちを覚えた。

「ね?だから言ったでしょ。これだから都会育ちは・・・」

草花のまなざしに、琥珀は思わず黙した。人が集中する姿は、中々に気持ちの良いものだ。ピリリ、と自分も引き締まる感じがした。琥珀も蓮を見詰めた。フェンスの向こう、薄い藪に遮へいされて途切れ途切れにしか確認出来ないが、確かに、蓮の大きな蕾がすっく、と立ち上がっていた。街灯のひかり届きづらい恐らく小さな池の水面のはるか上を、桃のような塊がいくつも浮かんで居るように見える。開花の時を待ちわびているかのように。付近に、少し野性味を帯びすぎているように感じられる程の、猛々しい蓮の葉も見えた。朝、通勤時にまだ青い朝のひかりの中、咲き誇る満開の蓮を見られるのが毎年の楽しみだ。と琥珀は呟くと草花は静かに、なんて贅沢なの。と感嘆した。二人は並んで、一時幻想に誘われ、思うがまま、自分らの技芸では到底及ばない美を堪能した。それから少しして、一通り眺め終えたのか草花は集中を解き、先ほどの緊張感も無いままに、けろり、と無表情になって突然肩に掛けて居たショルダーバッグを引っ掻き回し始めた。ショルダーバッグは中の荷物のお陰でひどく変形していた。琥珀は、何事かと考えながら薄明かりに照らされた草花の顔を見ていた。手入れされないままの眉と、睫毛。ほんの少しそばかすの入った弓なりの鼻すじ。俯く草花は、年相応に皮膚の経年を湛えていた。途中、草花がぼろぼろと物を落とすので、琥珀はそれを拾った。草花はそれを琥珀から受け取りまたバッグに放り入れ、何度か同じ物をまた落とした。琥珀は再び草花が繰り返すだろう、と考え、何度目か拾った時には草花には渡さず、草花が探し物を見つけるまで待っていた。それは、いつかの買い物メモらしき紙片。少ししわしわ。油付き。料理では無く、恐らく画材の。染みて半透明になったそれを、琥珀は見ないように持っていた。

「あった。あった。」

探し物を見つけたらしい草花に琥珀は紙片を差し出した。

「あぁ、それ。ありがとう。琥珀君。これ・・・あげる。」

草花が琥珀に差し出したのは細長い少し厚手の紙。チケットだ。

「え、」

「弟が居て、わたし達双子なの。あ、弟はこんなんじゃなくて、ずっときれいな子なんだけど。琥珀君、ダンスって見た事ある?踊るのよ、弟が。・・・わたしがあんまり社交的で無いから、仕事以外で・・・チケット押し付ける口実だよね!わたしに押し付けた所で、一枚だってはけるか分かんないじゃんね。これ持ってれば話題になるし、わたし、弟の舞台の日はきちん、と覚えてるから、カレンダーの目印になるでしょ。って。・・・全然チケット売れないんだ。当たり前っちゃあ、当たり前なんだけど。」

「いくらですか?」

「うん。え、あれ?買ってくれるの!ありがとう。ありがとう。あ、琥珀君て会社勤め?」

「そう。独立する時を・・・えっと・・・暗くてよく見えない・・・」

「山吹。ショパンね。ショパンは止めろって言ってるのに。わたし、バッハが好きなの。チェロ。なんならジミ・ヘンドリックスでも良いと思ってるの。わたしはね。けど、だったらピンクフロイドの方が良いんだって。だから駄目なのに。だって、ショパンて女の子が・・・あ、おつり無いや。じゃ、当日もし来れたら直接払ってくれる?これ、チラシ代わりにして。見て見て。これ、山吹が描いたんだよ。かわいいよね。実家のコピー機使うならちゃんとやんなきゃ後で自分が嫌になっちゃうよ。って言ったら、これ描いてきたの。山吹に紹介するね。独立??」

琥珀は手元のチケットを見詰めたまま苦笑した。

「そう。本音は自由業だから。つまり草花さんみたいに。」

「親のツテで仕事して、生活してるのよ。琥珀君ではわたしのようにはいかないと思う。」

草花は静かな様子で言った。真面目な面持ち。

「琥珀君てどんな絵描いてたっけ?」

「前・・・草花さんが見てくれた時は、嫌いじゃないけど興味が持て無いって。」

琥珀の言葉に草花は赤面した。暗いから、琥珀には分からなかったろう。

「・・・なるほどね。」

「草花さん、親のツテって言ったって、才能は本物でしょ?」

草花は一瞬黙した。琥珀の頭上の、星のきらめきが気になって。

「うん。そうだよ。ほんとう。作品形態は何でも構わないんだろうけどね。けど、わたしの絵、好きって人ほとんど居ないと思う。」

「まさか。」

「琥珀君は?実際どうなの?」

「・・・。」

琥珀は黙ってしまった。

「でしょ?だって気持ち悪いもん。わたしの絵。疑似セッ・・・クスみたいで。だから称賛も嫌なの。ばかにされてる気がして。作品を評価されるのは至上のよろこびだけど、聞きたくない言葉くらいは有る。」

「描いてる時の事知ってるのは草花さんだけでしょ?」

「違うよ。仕上がった作品の事言ってるの。」

「何で俺が好きじゃないか、教えましょうか?」

「うん。」

「なんとなく。」

草花はまじまじと琥珀の顔を見た。

「わたし、この世にまだアーチストが生きてるとして、天才は誰?って聞かれたら、山吹しか居ない。って答える。どうかな。琥珀君には分からないかも知れない。ニジンスキィ。わたしも山吹もそれは違う、って思ってるの。弟は働いてた。悪い女の人が居て、自分のお店を山吹の為にまるごと改装したの。だから山吹は嫌になって、すぐに逃げた。最近ようやくまた舞台に立てるようになったの。友だちの女の子が動画アップしてるから良かったら見て。」

「悪い店?」

「うん。山吹のお陰で品位が上がったのね。山吹はとても良い子なの。けど、問題児です。昔から。うちのね。」

言い終えると草花は歩き出し、琥珀が止めるのも無視して行ってしまった。遠くからでも分かる、不器用な姿。琥珀は一人、草花の去り行く背中に溜息を吐き、家路を急いだ。


 帰宅後、就寝前のベッドの中で、琥珀は山吹の動画を見た。既に以前、どこかで見た物だった。ある限られた世間で、少しの間話題になったのだ。この人が草花の弟だとは知らなかった。あの時も、目をひいた。美しいと言うか、何と言うか・・・琥珀は専門家では無い。山吹のダンス、トンチキな魅力ではあるのだ。素晴らしい容姿にごまかされている、と言われればそんな気もする。

ただ、ひとつだけ確かなことがあるとすれば、この世に生きていて、天上の幸福、みたいなものが有るとしたら、山吹はそれに手を掛けているのかも知れない。と思った。それは初めて動画を見た時と変わらない印象で、琥珀は惹かれた。奇妙な誘惑。気が付いたら、誘われているような。他の何処でも無い。山吹の世界へ。まぎれもなく、うつくしい場所へ。

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