第五幕・Tempo・居酒屋にて Part・琥珀と草花
経年し、思い出そうにもぼんやりとしてきたその人の姿形を思い出そうとして、琥珀は眉間に指先を当てがった。
草花。
琥珀が居る世間で、度々耳にする為に名前は忘れない。それでなくても、絵描きならば否が応でも意識させられる存在だ。運命は往々にして才能に環境も授ける。稀有と言えば稀有だが、それ以上に草花の絵には一目で人を黙らせる何かが宿っている。年々更に卓越してきた技術には目を見張るものがあるのだが、大抵の人はそれに気が付かない。当たり前なのだ。草花の描く作品にとって、対象を描き出すだけの技術が伴う事は。
”・・・天命は雷鳴のとどろきのようにわたしをおののかす。仕事は恵まれているけれど、制作は必ずしもそうでは無かった。”
出会ってすぐ、草花は呟くように口にしていた。琥珀は言葉から草花の声を思い出し、姿を紡ぎ出した。
天才の佇まいは孤独というより孤高だった。
琥珀がばらばらの記憶のパーツから紡ぎ出した草花は、何ものにも侵食されまいとする反骨で満ちていた。
美術大学時代、草花とはそれなりに楽しい思い出がある。琥珀はもう一度スマートフォンの電源を入れ、今着信したばかりのメールを始めから読み直した。未だに付き合いが有る同級生からの誘い。飲み会と草花なんて、不似合いな言葉が肩を並べていた。
同窓会、というか仲間内で声を掛けられるだけ互いに掛け合って、大学の卒業生で集まって飲み交わそうという話になった。当時の学年も関係無く、なんなら現役生も、まったく何の関わりも無い人までとにかく大人数を集めた飲み会に、草花が来ると幹事が言った時、美術に縁有る人だけが、非常にどよめいた。草花はごく若い時分から才能を自分で見出し、発揮していた。両親が世間に良く名の知れた建築デザイナーと言う事も有って、大学に入学する頃にはいわゆる、鳴り物入りになっていた。琥珀は以前、テレビか、何かで草花の実家を見た事が有った。華やかな職業。憧れの若い夫婦の新築戸建は二人の想いが詰まっていて・・・特に目を引いたのは子供部屋。琥珀と同い年くらいの愛らしい双子の姉弟。二段ベッドの天井が、天窓になっていた。彼らには星空が必要らしい。「都会の空にもそれなりの魅力があります。目を凝らせば自分だけの星が見つかるかも。これは言い訳だけれど。身近な所で自然にも触れて欲しかったんです。これから、どうしても街の娯楽に惹かれるだろうし・・・」リモコン一つで稼働するシャッターとカーテン。「あら、お掃除が大変そう。」朝の目玉焼きを食卓へ運んで来た母の言葉と、目玉焼きの匂い。ギンガムチェックのエプロンの色が思い出せない。記憶の中の、ワンシーンが後で自分が付け足した捏造かどうか、琥珀には定かで無かった。小さな琥珀は、テレビか、もしかして雑誌の中の届かない生活を日常の一部のように目の当たりにして、他の沢山の情報と一緒に直ぐに忘れた。
姉の草花は画家になった。激しい情動。生命を成す根幹。自然美と苦悩。超自然と信仰。時々、人物画や風景画、静物画も有ったから、とにかく話題に事欠かない人だった。必ずわずかな希望をどこかに託す草花の作品を、画家本人は一言、「イミテーション。」とそう片付けた。草花は少なからず、一般多数からははみ出していた。多くの人は草花を変人と位置づけ、草花自身、それに気が付ける程器用では無かった。社交嫌いのアーチストは、後輩達の憧れでありながら称賛を憎み、ほとんど表舞台には近づかず、人間が大勢居る所にも近寄ろうとしなかった。
琥珀が最後に草花に会ったのは数年前。草花が大学を卒業してから特別に会うという事は無かった。在学中は、学年が二つ上というのに何かと顔を合わせる事が多かった。無論、校内に限って。少なくとも草花にとって、琥珀は景色の一部としてみなされているらしかった。琥珀は友情に於いては普通程度、別段苦手も感じ無い。寛容さには自負がある。恐らく草花には何ら意味を成さない特技であるが。在学中、学内でも珍しく、友情と呼んで正しいのかは別として琥珀は草花と交流が有った。とは言え琥珀はほとんど草花の事を知らない。草花がどんな生い立ちで、一人称を何に定めているか、何を、どんな言葉遣いで話し、嫌い、特別に好きかくらいしか知らなかった。そして集中し、経過を経て部屋から出てくると、人を裏切り続けようと決意表明した様な作品の隣にいつも立っている。周囲の驚嘆、刮目をあざ笑うような表情は、遊戯心で満ちていた。のを覚えている。個展には何度か足を運んだけれど、初日だろうが最終日だろうが草花は居ない。毎度恒例の悪態に余裕をかましている、なんて言う言葉は、今更誰も口にしなかった。一時間か、ニ時間、草花の作品と向き合えばなるほど作品がいかに画家の不在を必要としているか解るから、誰も草花にお客に顔を見せろとは言わなかった。
草花の作品にはえげつない凄みが有って、ある種のグロテスクは人を無言にさせた。時々顔を出す清涼と侘び寂びも大したもので有ったが。激しい情熱は時に嘲笑をかっていたが、草花はまるでどこ吹く風だった。
作品の足しにも損にもならないのを良く理解しているんだろう。つまり、草花にとって他人の批評は作品制作への欲求をもよおすものには成り得ない。
と、琥珀はそう理解した。
確か草花には弟が居た。琥珀は思い出し、目前の女の子二人に訊ねると、二人は顔を見合わせて笑っていた。一人は口角を歪め、一人は吹き出していた。琥珀は何となく、だいたいの人物像を想像し、草花さんの弟、しかも双子だもんな。と理解した。どうにも問題がにおう。超洗練された環境で育ったのは、良く言って二匹の野生児。同程度のくるくるぱー。しかし、弟の方は多分・・・
「おれこの間見に行ったよ。弟の方の・・・」
隣に居た琥珀の元同級生がそう言うと、先程の女の子二人も話し始めた。
「踊るの。草花さんの弟ってね・・・」
「顔は・・・」
「似てない。似てない。」
「二卵性か。」
入口の方の席がどっと湧いて、草花が来たのを分かった。琥珀が視線を上げると居た。草花だ。
”あんまり、変わってないな・・・”
おぼろげな記憶の中の、草花の服装と佇まい。琥珀は別段、懐かしさも学生時代の郷愁ももよおさなかった。理由は草花にある。すごく嫌そうに、琥珀達集団を見ていた。
「何あれ。」
「ひでー」
「嫌われちゃってんだー」
琥珀の周りの幾人かが、顔を見合わせて笑っていた。侮蔑では無い。目前の現象に思わず可笑しさがこみ上げたのだ。草花は怪訝な顔をしていた。自分に声を掛けた幹事を一瞥し、眉をひそめ、恐らく、Shitとか、Fuckと独り言を言っているらしかった。ひたすらに室内を眺め、再び幹事を睨みつけていた。
騙されたんだな。多分。
琥珀が何となく幹事が草花に言った誘い文句を想像していると、「人がこんなに来るって聞いてなかったんだろうね。」別の誰かが草花の様子を見ながら口にした。
「友情破綻するね、あの人。」
「いやいや、そんな事気にする風じゃ無かったよ。ね、琥珀くん。」
「いや、どうかな・・・俺もよく知らな・・・」
一通り悪態をつき終わった草花が、挨拶も無しにずしずしと部屋の奥まで入って来て、琥珀達の居るテーブルに近づいて来た。会話は打ち切られ、草花が琥珀の向かいに座るや先程まで話をしていた女の子の一人が、直ぐに草花にメニューを差し出した。草花はメニューと女の子を交互に見やり、やっと一言、「うん。」とだけ言った。それから草花は一度、メニューをぎゅ、と両手で握り締めた。奇人の襲来ににわかに緊張を帯びた空気を和ませようと、懸命に明るく、奇人を刺激しないよう、極めて優しい調子で会話をしだした周囲の友情を無視して草花は握り締めていたメニューを突然琥珀に突き出した。不機嫌な面持ちのまま、見詰められた琥珀は思わず赤面し、苦笑するしか出来なかった。表情とは裏腹に、草花は元気な声で一言、「ごはん。」とだけ言った。
一人もくもくと食事をとる草花にも皆がだいぶ慣れてきた頃、女の子の一人が琥珀の住まいについて話をせがんだ。琥珀は居酒屋から電車で30分ほど離れた町に住んでいる。駅の名前を言うと女の子は「やっぱり!」と少し大きな声で言った。琥珀は口に運んでいたグラスを一度テーブルに置き、口の中のものを飲み下した。
「やっぱりって?住んでそうに見えた?」
「あはは、何それ。」
「そういや、長いよなぁ、お前。」
「うん。卒業して一旦出たけどね。」
「今琥珀さんが住んでるマンション、私の叔父の持ち物です!」
「うそ!」
「えぇ、ほんと?」
「住みづら・・・」
「悪い事出来ないなぁ。」
「大丈夫。大丈夫。持ってるだけであとは人に任せてあるみたいだから。」
「悪い事ってなんだよ。」
盛り上がる連中にさすがの草花も顔を上げた。無言で皆の顔をじろじろと眺めながらグラスを口へ運び、飲み下していた。
「良い所だよ。バス停から家までの途中に、ピンク色の大きな蓮華がある。季節になると毎年必ず花が咲く。夜が結構おもしろくて。ぽんぽんと夜の闇の中を揺れてる。近くに街灯があるから、良く見えるんだよね。」
琥珀の話に皆は少し静まり、「蓮華、って蓮の花のこと?」「どうやって生えてんの?そう言えば実物見たこと無いかも。」と顔を見合わせていた。
「そんなの嘘だ!」
突然の草花の声はわりと大きく、皆に再び緊張をはしらせた。琥珀は始め、困ったように苦笑し、「本当ですよ。」などと親切に対応していたものの、草花がまるで
「なんなら来ますか?」
「もちろん!」
即答した草花に、皆は思わず顔を見合わせた。周囲の好奇と驚きを他所に、草花は再び飯を貪るにふけり始め、終いまで無言をつらぬいた。
店から出る時、草花は幹事に詰め寄り、「わたし今日、ほんとにお金持って無いから。」と強気な口調で言っていた。歩き出し、一度振り向いて中指を立てる草花の顔は笑っておらず、いたずらそうでも無かった。ざわめきの中にいくつもの嘲笑を聞きながら琥珀も集団から出てきた。
「えー、帰っちゃうの?」
「また来週ー」
「うん。またね。」
来ていた幾人かの友人達と別れ、琥珀は草花を追いかけた。ことのほか遠くに行ってしまった草花を早足で追いかけ、追いついた琥珀は少し息を荒げていた。草花はそれをじっとりと上から下まで眺めると前を向き、すっ、と前方を指さして「あっち?」と琥珀へ訊ねた。訊ねた、というよりも、草花はただ、行く先に向かって話しかけているようだった。
ネオン溢れる薄い闇の中で、夜空は遠く、星は瞬かず固定されたようでひっそりと佇んでいた。ぬるく不潔な大気の中で、草花だけが呼吸をしていた。まるで汚水にまみれたアスファルトのひび割れから芽を吹いたばかりの、何かの植物のように。琥珀はこの一瞬に、只思った。
”草花さんは、少し先の未来を見せようとしてる。そこは多分、陽だまりで満ちてる。
兆しだ。予兆。希望の。”
「そうよ。何故、今気がついたの?その場所で、あなたはこれまでよりも、ずっと美しい。琥珀君、あなたでさえね。わたしはペテン師じゃないもの。これは手品でもなんでもないの。ぜんぶ、そのもののあるがままの姿なのよ。わたしはただ、見たままカンバスに色を落すだけ。言ったでしょ?わたしは贋作画家だって。」
沢山の色彩を持った電光の中で、輪郭曖昧にして浮かび上がる草花の横顔は、一連の記憶を象徴するレリーフとなって琥珀に刻まれた。
景色は残像となり琥珀の記憶に留まり、情景となって胸に染みを作った。ひとつの記憶は影になりながら別の記憶を明るく浮かび上がらせる。明るく明光を放つ記憶は次第に影になると、また別の記憶を明るく浮かび上がらせるのだ。
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