掌編小説・『不完全変態』

夢美瑠瑠

1.outline~輪郭

 


 何をするときにも、従来の自分がすごく「雑」というのか、いい加減に端折はしょる癖があるのに気づいたのです。


 大阪弁で、「イラチ」(苛ち?)という言葉があって、頭の回転とかが速くて、じれったい、まろっこしいことが我慢できずに、なんだか衝動的に行動しがちな感じの性格の人を言うのだと思う。大阪出身で、昔に就職で同僚になった知人が、ちょうどそんな感じで、風呂に入る前からシャンプーを髪の毛に泡立てていて、そうしながら脱衣していたりした。w 面白い人だったので、その人のことを書いているだけでも小説一編ができそうでもありますが、またの機会に譲る。


 オレは、それほどではないんやが、わりと論理的でないことが嫌だったり、虚礼みたいなことを嫌ったりもする。オヤジもそうやったなあ。道を歩いていて「ええ天気ですのう」とか言われると、傲然ごうぜんと?「ええ天気なんはわかっとる」と、実際にそう言ったかどうかまでは聞き忘れたが、そういう風に思ってしまう性格だったらしい。


 そういうところがまあ遺伝したんだか何だか?方言では「だすい」と、粗雑な、大雑把なことを言うのですが、そういうところが欠点だということは気が付かないでもなかったが、かなりクリティカルな、キーポイントになりうるかもしれない…そう「エウレカ」したのだ。外に裸でアルキメデ出したりはしなかったがw


 と、急に川上未映子風になったが?兎に角、「少女が千代紙を丁寧に折りたたむみたいに」と、この形容がいいね!と選ばれた大賞の形容で、日々の挙措動作きょそどうさ、発想とかあらゆるところにそういう丁寧な感じを応用してみたらいいかな?と思いました。


 マザーテレサの格言に、「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」とあるが、あるいは、貝原益軒は健康を保つためには”薄い氷の上を歩くように”用心して生活しろと言ったというが、それほどに注意深く慎重に日々行動すべき、そういうことを心がけるべきなのだろうな。


 「適当」なこと、「いい加減」なことには二つ意味があるが、それも真理かもしれんが、オレの場合はだいたいが未熟で何にも分かっていないことをわかったふりするようなところがあって、シッタカ、と言うそうですが、なんにでもちゃんと心を込めて?丁寧にやりすぎるくらいに心がけてちょうどいいのかなあ?そういう風に悟ったんや。悟った気がしたんやー


閑話休題。


 …導入の、『マクラ』にオモロイ話をもってこようとしたんやが、本題の話は非常に陰気なテーマなんや。


 私は、元気がなくて内向的な性格であり、四六時中「自分、この厄介なもの」という感じに暗くよどんだ気分で思春期のネクラな青年のようにひきこもって、自己省察というのか?ひたすら自らの内面にあるものの正体を見極めよう、そういう瞑想家とかスピリチュアル関係の神秘的なもろもろの話題の周辺にある、???だから、とどのつまり、自分の殻を破るというのか、足掻いて、支離滅裂な、行き当たりばったりの、不可解な人生?に、解釈を牽強付会して、意味があるものと考えようとしている。


 リフレイミング、という精神医学の述語があり、これはまあタイムマシンを使うみたいに、過去を生きなおす、実際には無理なので、象徴的にそれをする、催眠術に似ている?が、過去の再解釈とか再構成のセラピーテクニックです。詳しくはない。


 唯我論、ソリプシズムなら、コギトエルゴスムというように、過去のすべてをただの迷妄として、解釈しなおすことは可能であろうか?不確定性原理、?よく知らないがそういう話に似ている気もする。


「森羅万象」は英語にすると universe やろけどさ、?総合大学を university ていうけどさ、ニュアンスが違っていて…われわれ、この世界、世の中だのなんだのに一定のイメージはあって、一応分かっているつもりでも、多分その「森羅万象」の百万分の一も、ちゃんとは知らない、理解の他で、無数の未知の要素、未知の発想、それが充満しているというか「井の中の蛙」というけど、まだだから、SFじゃないけど

人類自体が「幼年期の終わり」?だかをプロセスとして経てきているのかも、ボクには曖昧です。つまり、アリストテレスが、史上に一番に賢い人物で、「万学の祖」と崇められていても、その世界観も、事物の解釈も、誤謬だらけで、今では荒唐無稽な戯言でしかない。サイエンスというものができて、明るい理知が、やがてすべての闇や不幸を駆逐して、理想的な社会を招来して、「森羅万象」の、もっと明確なイメージを、正確な解釈を、われわれにあたえてくれる。そういう漠然とした希望を、我々は抱いていて、…


 それは、心細いような認識でもあるが、幼児のころに比べれば、よほどに現在の自らが世界の物事に通暁しているのと同様に、ちょっと昔には当たり前だった常識がもはや通用しないことが多いのと同様に、…例えば目に障害があったのが見えるようになるとか?そんな風にわれわれの脳みそに潜在する「第三の目」が開眼して、地殻変動のごときに精神的な地平に革命的な進歩が生じて、今とは全くけた外れに視野が広がる、広い展望が広がる…


 そういう希望というのもビジョンとして幻視しうる。


 そういう予言をする神秘家のたぐいは従来からざらにいるという気もするが、「第三の波」というエポックメーキングな例の古典的な未来論というか、マクロな発想は、現代の俯瞰として決定的に普遍というのか?もはや日常的になっているのは否みようのない現実で、怒涛どとうのようなとどろきに見舞われ、社会がはげしく揉まれている、という現状だろうか?


 一人の人物がすべての書物を読むことはできない。国会図書館でも日々に生々流転する世の中のあらゆる情報を蓄積、網羅できているとは限らない。


 インテグラルして、微分する。帰納、演繹する。そういうシーケンスを反復して知識、情報を体系化してヴァージョンアップ?していく、そういう機能は人間の脳みそにだけ与えられているいわば”神の恩寵”です。「知の巨人」と言われたかの立花隆氏は、大量の読書や思索を長年にわたって日々継続して、あげくに、ある一種の到達点というか、世界についての自分なりのユニークな認識をやっとつかんだという、そういう境地に達したとか、そういう意味の述懐をなしていたことがあります。


 自分の脳みその中のことでも十全に把握しているといえる人はまれで、知情意を形成する個性とか能力、そういうもののタイプ、特徴も、限りなくあいまい…少なくとも私の場合はそうです。

 いわんや、外部の世界の”森羅万象”について何かを正確に知りえていると思うのは傲岸不遜だと思います。だからわからないし、だれでも手探りであるのが当然で、爾後、個人的には、日々の時々刻々に、全身で、全神経を研ぎ澄ませて、”シッタカ”や虚妄、錯覚を極力排して、真実と有益性、善性のあるフェイズを感知して認識して、そういう立花氏の顰に倣っていきたいなあと思う…


 「考える」というのは誰にでもできることではなくて?知的なエリートみたいな一握りの人のためのギフトかもしれない。

 自分に「考える」資格があるかはともかく、考えたい、考えざるを得ない…私は自分がそういうのっぴきならない立場に追い詰められているような気がするのです。


 


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