16 剣闘士デビュー
俺はヒザをついたまま、天を仰いだ。
かすみゆく視界の向こうには、無数の太陽のような輝きがあった。
まるで神が作り出したような、まばゆい光だ。
……俺は、神サマなんか信じたことはない。頼れるのは、己の力だけだったから。
でも、それももう終わりだ。
俺はけっきょく、リルムの笑顔を取り戻すことはできなかった。
残されたわずかな時間でできることは、祈ることくらいだろう。
「……どうかリルムが、幸せに暮らせますように……俺のぶんまで、一生……」
俺の、はじめての祈りは掠れていた。
目の前で仁王立ちになっているドムが、残酷な神父のように笑む。
「ふふ、お前は死に際だというのに、まだ妹のことを願うのか。妹がそんなに大事か」
「ああ、大事さ……妹が笑顔になれるのなら……神の靴だって舐めてやる……」
「面白いことを言うな。なら、こうしようか。いまここで俺の靴を舐めたら、殺さずにおいてやるよ。俺がくれてやったわずかな寿命で、ゲマニエル様に命乞いをするといい」
いつのまにかドムの背後には、
おそらく、すべてが仕組まれていたことだったんだろう。罠にはめた俺を、大勢の前で命乞いさせる。
妹への想いを捨てさせることで、俺を愛玩にするつもりなんだ。
ゲマニエル夫人は舌なめずりをし、俺の命乞いをいまかいまかと待っている。
しかし俺が最後の最後にすがったのは、ガマガエルなんかじゃない。のけぞらんばかりに仰いだ天だった。
「頼む……! 誰でもいいっ! リルムを笑顔にしてくれ! この願いが叶うのなら……神でも悪魔にでも、この魂をくれてやるっ!」
俺の首筋に、よりいっそう強く刃がめりこんだ。
「ええい、いくら祈ったってムダだ! 見ろ、このコロシアムは巨大な天井で覆われている! だから、神も悪魔も見ちゃいない! ここでの神は、ゲマニエル様だっ! さぁ、ゲマニエル様にすがれ!」
「あ……アンノウンさまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」
雷が落ちた、そうとしか思えないほどの轟音。天井にあった無数の太陽は砕け散り、破片が星屑のように降り注ぐ。
直後にコロシアムが揺らぐほどの激震が襲い、血の波しぶきが俺の身体を覆った。
真っ赤に染まる視界。天変地異が起こったかのような悲鳴と怒号が飛び交う。
顔についた血を腕で拭うと、ドムが腰を抜かしていた。
ドムの視線の先には鉄の馬がいて、黒い革鎧の男が乗っている。
その男の足元には、バラバラになった輿の破片と肉片がぶちまけられ、血の海が広がっていた。
天井を見てみると、ぽっかり穴が開いていて、切り取られたよう青空が覗いている。
「ま……まさか、空から降ってきたのか……!?」
空から降ってきた男は、きょろきょろとコロシアムを見回している。そしてブツブツと独り言を言っていた。
「あれ? なんで中に人がいるんだ? アストルテアのヤツらはエレメントが無ぇから、こっちの施設には入れないんじゃなかったのかよ?」
「ああ、なるほど、広域避難場所だから解放されてんのか。でもどう見たって、避難してるようには見えねぇけど」
「え、コロシアムとして使ってるって、マジかよ!? 東京ドームをコロシアムにするなんてすげぇな!」
男はひとりで興奮している。ドムが立ち上がり、愛用の大剣を突きつけた。
「見たこともない革鎧に、鉄の馬……! お前は何者だ!?」
打てば響くような早さで「アンノウン様です!」と若い女のくぐもった声がする。しかしその声がどこからしているかはわからなかった。
「アンノウンだとぉ? 神の名を騙るとは……!」
「あ、じゃなかった! ダーク様です!」
謎の女の声が訂正したが、もう遅かった。
「ハッタリをかませば、ゲマニエル様を殺めたことをごまかせると思ったか! コイツをやっちまえ!」
ドムが呼びかけると、周囲にいた剣闘士たちが男を取り囲む。
万全の俺でもいちどに20人を相手にするのは無理だ。かなりの窮地だというのに、男は嬉しそうだった。
「いちど、コロシアムで戦ってみたかったんだ! これぞ異世界って感じだよな!」
男は鉄の馬に差していた剣を鞘ごと引き抜いた。
「じゃあ、こっちも剣で相手させてもらうぜ。久々に肉弾戦のフィジカルアシストも試してみたいしな」
「なにをワケのわからんことを……ゲマニエル様の仇めっ!」
ドムが君主を殺された騎士のごとく、率先して男に斬り掛かっていく。
きっとこれはパフォーマンスだ。ゲマニエル夫人という飼い主を失った闘犬が、新たな飼い主にアピールするための。
あの男はきっと、ドムによって血祭りにあげられるだろう。
男は鉄の馬から飛び降りてドムを迎え撃つ。見たこともない構えで。
「
男はかけ声とともに鞘ごと剣をひと振り。すると不思議なことに鞘は刀身に吸収されるように消えていく。
なんだあの剣はと思ったが、現れたのは剣ではなく黒光りする棒だった。
まさかただの鉄の棒で、剣豪のドムと戦おうというのか。
「ナメやがって!」
ドムの二の腕が膨れ上がり、豪剣がうなりをあげる。
横薙ぎの斬り払いに対し、男は真っ向から鉄の棒をぶつけようとしていた。
終わった。あんな鉄の棒でドムの太刀を受けるのは不可能だ。
俺はふたつに分かれた鉄の棒と、男の姿を想像する。
しかし目の前で繰り広げられていたのは、誰もが目を疑う光景だった。
脆い陶器が割れるべくして割れたような音がして、ドムの両手剣は木の枝のごとくあっさり折れる。
目を剥くドム。次の瞬間には鉄の棒で横っ面をブッ叩かれ、目玉を飛びださせんばかりに吹っ飛んでいた。
「ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?」
俺は長いこと剣闘士奴隷をやっているが、ドムのこんな情けない悲鳴を聞いたのは初めてだった。
頬の骨を砕かれたドムは、崩れた顔で七転八倒している。
「いでぇ!? いでぇよぉぉぉぉーーーーっ!? お前ら、なにをやってる!? コイツをブッ殺せーーーっ!!」
ドムの叫びが終わる前に、澄んだ破砕音と鈍い打撃音が連続でおこる。
男がひらりと舞ったかと思うと、一瞬にして五人もの剣士たちが、剣と骨を砕かれブッ倒れていた。
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