あの頃の藍
@mizuki_konishi
第1話 再会
「ねぇ、ユウも行くでしょー?行こーよぉ」
二週間に渡った試験期間がようやく最終日を迎えた、冬の昼下がり。
一夜漬け続きの頭に、エリの鼻にかかった甲高い声が容赦なく降り注ぐ。
「今日はパーッと打ち上げしたいじゃん! ねぇ、ユウ〜」
甘すぎる香水の強い刺激に鼻の粘膜がピリピリと痛み、頭の中で発芽した棘は今にも頭皮を突き破ってくるかのようだ。
「……はぁ。分かったから」
エリの口撃から早く逃れたい気持ちが大きかったが、なんだかんだ真っすぐ帰宅する気にならないのも事実なので、結局は腕を引かれるがまま、駅前のカラオケ店へ向かった。
「4階の407号室です」
同年代位の男性店員が、気怠そうにぼそりと告げる。
最終的に12、3人集まったメンバー達が、受付で思い思いに言葉を交わしたり、ドリンクを注文し始める中、たまたま隣に立っていたアヤカが、反対隣のミキコと何やらコソコソしている。
「受付の人、ちょっとかっこよくない?」
「私も思った!おでこ出したらたぶんジョンフンに似てるよね!」
コソコソしているようで、それなりに周囲に聞こえる程度の声なので、もしかすると当人にも聞こえているのではないか気になった。
無精髭と寝起きのような髪型の方が印象的だったが、つられて一瞥すると、まぁ確かに整った顔立ちなのかもしれない。
「あ! パーティールームじゃない!えー、やだぁー」
エリは、大画面のモニターを備え、ミラーボールや特殊マイク機能のある「パーティールーム」を狙っていたようだが、その日はすでに先約がいたようで、当てがわれたのは同じフロアの別の大部屋だった。
とはいえ、欲求不満のエリは即座に気持ちを切り替え、早速デンモクを抱えて最新チャートの上位曲をまとめて入れ始めた。
同じくカラオケ好きのリョウは、空気を読むことなく、自分の好きな男性アーティストの新譜を探している。アヤカとミキは、推しのKPOPアイドルの本人映像が期間限定で配信されているとかいないとか、そんな話をしている。
「ユウ、何か飲む?」
斜め向かいの席にジュンが座っていた。
「うん。自分で行くよ」
「私も行く。おーい、ドリンクバーで欲しいものある人いるー?」
幼馴染のジュンは気配り上手で、誰にでもフラットに接することができる。昔から口下手で、態度が外に出にくい自分のことをいつも気に掛けてくれる。
ジュンともう一人とで、ドリンクバーに向かう途中、件のパーティルームから聴き馴染みのある曲が漏れてくる。
僅かに心が震えたが、珍しいこともあるものだと少し足早に通り過ぎようとした瞬間。
(えっ、嘘。なんで……)
今、左を向けば室内が見えるかもしれない。
全身が粟立ち、思わずその場で立ち止まってしまったのに、どうしても首を動かせなかった。
誰もが知っているような名曲ではないのに、この耳を確実に捕えて逃さない曲。その歌を奏でる少し高めで、ハリのある強い声。
聞き間違えるわけがない。
喉の奥が狭くなり、忘れかけていた一夜漬けの頭が再び痛み出すと、目の前がチカチカして堪らずこめかみを押さえた。
「どうかした?」
ジュンが顔を覗き込む。
「あ……の、……なんか、頭痛くて」
舌の先まで痺れたように、うまく言葉が出ない。ジュンは気付いていないのだろうか。
「ユウ? 本当に大丈夫? 体調悪いなら無理せず帰りなね」
「うん……。ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる」
エレベーターは13階を指している。一刻も早くこの場から立ち去りたくて、待ちきれずよろよろと非常階段の重いドアを開けた。
ビルとビルの合間のわずかな隙間を濁った風が通り抜ける。無機質な灰色の手すりに寄りかかると、溜息が漏れ出るとともにぐったりと脱力した。
『いつかきっと、俺のこと嫌いになるよ』
目を瞑ると思い出す言葉。
いつまでも消えない胸の疼き。
最近はやっと考える時間が減ってきたと思っていた矢先に、こんな偶然があるなんて……。
カラカラの喉にほんの少しの水を含ませたりしたら、もっと欲するに決まっている。でももうどうすることも出来ない。
「終わったんだ……もう、終わったんだ」
そう呟きながら、自分を納得させようと手すりを握る指に力を込める。
少しして前を向く。
その目には光がないが、もう一度大きく息を吐き出すと、ユウは埃が張り付いた黄ばんだ扉の取手を強く握った。
「ねぇ!奥のパーティールーム、経営の四年組だったよ! やば、めちゃめちゃカッコイイんだけど!!」
ちょうど同じタイミングで席を立っていたらしいアヤカは、ドアを開けるなり興奮気味に声を荒らげ、ダイスケの歌を遮る。
『経営の4年生』。なんとか気を取り直して部屋に戻ったところなのに、余計な事をしてくれるものだ。
「ええっ!マジでぇ! ちょっと挨拶しに行こうよぉ!」
アヤカにエリ、そしてミキコのミーハー三人組はドリンクバーにかこつけてパーティールームへ向かって行った。
「女子ってほんと節操ねーよな」
リョウは呆れた声でソファにもたれ掛かる。
部屋では奇しくも誰もが知っているラブソングのアウトロが流れている。
ダイスケは、大サビを歌い損ねていた。
気が気じゃないワードのせいで、もはや何でもない素振りで座っているのが精一杯だった。完全に心を囚われたまま、やきもきとした時間を過ごしていると、
「やばぁ! ケイスケさんカッコ良すぎるー!タイミング神!授業で絡んだことあってよかったぁ!」
「ちょっと緊張したけど、覚えててもらってよかったね!」
「私ショウさんめっちゃ好きなんだけど!てかすごい歌上手くなかった?結構人気あるバンドっていうのも納得だよね!てか、うちらそんな人と顔見知りって、かなりすごくない?」
興奮冷めやらぬ様相で部屋に戻ってくるなり、三人は普段の五倍速で口々に感想を述べ始める。
実際はものの数分だったのだろうが、ユウには途方もなく長い時間に感じられた。
その上、『ショウ』という名前を聞き、反射的に顔を上げると、アヤカと目が合った。
「あれ、そういえばユウって、ショウさんと知り合いじゃなかった?ねぇ!今度飲むとき誘ってよ!」
墓穴を掘った。
「いや、前にスマホ壊れてから連絡取ってないし。それに、元々仲良いのは俺の友達の方だから……」
概ね嘘はついていない。
「さーっすが、クールビューティユウちゃん。私だったら絶対、連絡先聞き直すのに」
エリが、まるで使えないというような目で見下してくる。
「はぁ……、あっそ。余計なお世話」
エリには聞こえなかったかもしれないが、負けじと言い返した。
『クールビューティ』という言葉を自分に対して使われる時、決して褒め言葉だけではないことは分かっている。
色の白い肌に、黒髪直毛。
肌はただ日焼けしない体質なだけだし、髪だって、こまめに染めるのが面倒なだけだ。
人をじっと見てしまう癖があり、目つきも悪いせいで、たいして知りもしないうちから『冷たそう』とか『お高く留まっている』的なことを言われることがある。
でもいちいち気にしていたらキリがないし、別に本当の自分を分かってくれる人が一人でもいれば、それでいいと思っている。
「えぇー、ユウ本当に?面倒くさいからって隠してるわけじゃないよねー? ショウさん繋がりで、ケイスケさん行けるチャンスなんだからねぇ!」
「……。」
どうでもよすぎて言葉も出ないでいると、流石に堪忍しかねたのか、リョウが横槍を入れてきた。
「いやいや、お前なんかはじめから無いから!身の程を知れ、身の程を!」
エリはギロリとリョウを睨みつける。極限まで持ち上げられた睫毛のせいで、目の威圧感が本来の倍はある。
エリはリョウの前だと素に戻るのか、いつもの猫なで声ではなく、はっきりとした口調になる。
「なによ!あんたに何が分かるのよ! 彼女の一人もいないくせに!!」
「あっ??うっせーな!別に今は欲しくないだけだわ!つか彼女は一人でいいんだよ!お前みたいにガツガツしてない彼女がよ!」
周囲の人間は、なんだかんだお似合いの二人だと思っている。恒例の夫婦喧嘩が始まったおかげで、アヤカからそれ以上追及されることなくその場を凌ぐことができた。
甲斐甲斐しい旦那様に、心の中で感謝の意を示しておいた。
「私、そろそろ帰らないと。今日夜からバイトなんだ」
烏合の衆と成り果てた空気が、ジュンの一声でリセットされ、それぞれ帰り支度を始めた。
リョウもエリとの争いを一旦止め、
「あ、もう三時間じゃん。とりあえず打ち上げ終了だな!俺もう喉ガラガラ。ダイスケ、ラーメン食って帰ろうぜ。お疲れ!」
雑な感じで会を締めくくり、グラスに残っていたハイボールを一気に飲み干した。
「あぁっ、それ俺の……」
ダイスケは氷が溶けただけのグラスを渋々口にしていた。今日のダイスケは、終始タイミングに恵まれなかったようだ。
バラバラと個室から退出しはじめると、ちょうど件のパーティールームからも何人か出てくる音がする。
「おっ、みんなも帰るところ? お疲れ!」
煌びやかで長身の男が、爽やかな笑顔で話しかけてきた。いかにもイケメンという感じだ。
「きゃー! ケイスケさん!お疲れ様です!」
文字通り黄色い声を上げた三人組が、部屋の奥から押し寄せてきて爪弾きにされる。
「おっ…、と。大丈夫?すごい勢いだね」
近くにいた眼鏡をかけた長身の男が、苦笑いを浮かべながら思わず肩に手を添えてくれた。きっと彼も見た目の良い類なのだと思うが、三人組は見向きもせず、ケイスケさんの元へ駆け寄っていく。
「あっ、はい。……すいません」
言いながら、ふと彼の後ろの人影に視界が移ると、見覚えのある顔に目を奪われた。
分かっていた。
やはり間違える筈がなかった。あれだけ身を焦がし、恋焦がれた『声』なのだから。
でも今、会いたくなかった。
「あれ、知り合い?」
互いに視線を向け合っている二人に気付き、眼鏡の男は何の気なしにショウに尋ねる。
「うん。久しぶりだね、ユウ」
微かに笑みをたたえてショウは言った。
ユウはすぐに目を逸らした。
ショウの口元は、いつもほんの少し口角が上がっている――
あの頃もそうだった。
ショウの膝の間の特等席からそっと首をもたげて、よく顔を覗き見ていた。
真顔のはずなのに微笑んでいるように見える口元が、特に好きだった。
視線に気づくと、ショウの頬がふっとほころび、今度は少し照れたような表情をしてから、温かい手のひらで視界を隠される。
ショウと共に過ごした、短いけれど、甘く穏やかな時……
ふいに懐かしく愛しい記憶がフラッシュバックして、胸がじくりと締め付けられる。
「最近は、どう?元気にしてた?」
答えても答えなくても同じような、誰に聞いたっていい些末な質問を投げかけられた気がした。ショウがどんな表情をしているのか、見たいけれど怖くて見れない。
「うん。まあ……」
こんな時に上手くかわす言葉の一つも出てこない。顔はどんなに引き攣っていることだろう。
「……そう。ならよかった。じゃあ、風邪ひかないように、気を付けてね」
「……うん」
呆気なく会話は終わった。
どうしてそんな風に話し掛けられる?
まるで何もなかったかのように。
もしかしてショウの傍にはもう、新しい誰かが……。
いや、そうじゃなかった。
離れていったのは、信じることが出来なかったのは……。
会話にもならない言葉を交わしたあの刹那の時間が、何倍も何倍も濃い記憶となって、また自分の心を占めるショウの領域が大きくなっていく。
ショウとの日々を忘れるつもりなんて到底なかったんだ。それどころか、こんな他愛のない瞬間を新たに胸に留めようとする己の女々しさには、ほとほと嫌気がさした。
鉛のように重くなった脚を必死に家まで動かし続けはしたが、帰宅した途端に膝が崩れ、ソファに顔から突っ込んだ。
(ショウ……。今、何してる?声が聴きたい)
蓋をしていた感情がまた燻り始め、機能停止寸前の肉体とは裏腹に、頭はまだショウのことを考えようとしている。
現実と夢の間。
またあの言葉を反芻しながら、いつの間にか身体も意識も深く深く、暗い沼に沈んでいった。
―いつかきっと、俺のこと嫌いになるよ。―
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