音楽が好きな人に悪い人はいません

榊琉那@屋根の上の猫部

Episode 01 ストリートピアノに魅せられて

(……ピアノってこんな音色を出すんだ。凄く新鮮な感じ)

目的もなく出かけた先で、たまたま聴いたピアノの音色。

それにこんなに魅せられる事になるなんて。まったく思ってもみなかった事だ。



「貴方は実力はあるんだから、もう少し周りを見て行動した方がいいわね」

マリは上司に小言を言われているが、別に自分がやった事ではないのにと

納得がいかなかった。だいたい、他の人のミスの事なのに

まるで連帯責任のようにマリが叱責され、更にまるで自分が悪い事をしたように

言われるのは非常に気分が悪い。


(ふぅ……)


 とりあえず上司の小言が終わって、自分の席に戻って来た。

マリは自分に納得がいかない事があると、黙って何も喋らない性分だ。

何か喋れとも言われるが、こうなったマリは頑として喋らない。

 今回も上司が根負けして解放されたのだ。


「さっきからまた捕まってたけど、大丈夫だった?」

呑気な顔をして吉永君が声をかけてくる。

(さっき小言を言われた原因はアンタだよ)

マリは本当ならこう言いたい所だったけど口には出さない。

マリは気分が悪い時は、皮肉をたっぷり込めた言葉を吐き出す事を自覚しているので

そういう時は黙っている。我ながら面倒くさい性格とは思っている。



(やっと仕事終わった。何だか気疲れした感じ)

 マリは仕事を終え、帰宅の準備をする。上司のせいで気分は良くない。

今日は金曜日だから、人によっては酒を飲んで憂さ晴らしとかもするだろうけど、

残念ながらマリにはそんな習慣はない。一時期、旧〇ィッターとかもやっていたが、

今はちょっと情報を見る位にしている。

 だいたい、いちいちやる事を書いていくのはどうかと思ってしまい、

それ以来、書き込みに関してはやめてしまった。

 その代わりに読み物を読む事が多くなった。

まぁ、本のサブスクを契約しているので、そこで探して読んでいるだけだが。

マリはテレビのドラマとかは興味なかった。マスコミと芸能事務所の闇の部分での

あーだこ-だといった話を読んで以来、興味を失ったという感じだが。

 そんな事で、とりあえず今日の夜も今読んでいる小説を読み進めて、休んだのだった。


(まだ気分が晴れないな……)


 明けた土曜日の朝。珍しく一晩寝ても昨日の理不尽な仕打ちの事が

マリの中に残っていた。とりあえず朝食を用意して淡々と食した。


(とりあえず気分転換に出かけてみるか)


 これではダメだと、休日である今日、気分転換にと街に出てみた。

特に目的などない。何を買いたいという事もない。

ただ当てもなくフラフラとしようとしているだけだ。

 普段行かないところを敢えて歩いてみようかなと。もしかしたら何か新しい発見も

あるかもしれない。普段歩く街とは違う景色を見てみたい。

そんな事を思いながら、更に当てもなく歩いてみる。


 そんな中、いつもなら素通りしていくストリートピアノが目に入った。

誰でも演奏出来るように設置してあるピアノ。

別に音楽に興味は持ってなかったから特に気にしていなかったが、

今から誰か演奏するようなので、ちょっと足を止めてみた。


 まだ若そうな男性だった。慣れた手つきでピアノの状態を確認すると、

すぐに演奏を始めた。


(こんな曲をピアノで弾くんだ)


 男性が演奏し始めたのは、認知度が高い少年が探偵のアニメのメインテーマだ。

アニメは見た事なくても、大抵の人は一度は耳にした事のある曲だ。

 軽やかに指が動き、スピード感のある曲が奏でられる。


(ピアノで演奏されるとこんなに雰囲気が違うんだ)


 オリジナルの曲はサックスとか使っているから、

ピアノだけの演奏だとかなり雰囲気は違っている。

 でも悪くない。それどころか演奏に引き込まれていく。

見知った曲がこんな表情を見せてくれるなんて思ってもみなかった。

 何より音色が奇麗だった。ピアノの生演奏を聴く機会なんてなかったから、

こんな奇麗な音色だったんだと、改めて感心した。

 因みに某格付けチェックの番組を見ても、演奏の違いなんて

全然わからないレベルなのだが、自分の琴線には充分響いていた。


(演奏している人ってどんな人なんだろう?)


 演奏している若い人は、プロなのか単なる素人なのか、

自分にはわからないのだが、これだけ自分を振り向かせるような

演奏をする人なんだ。プロかアマかはどうでもいい事なんだろうな。


 演奏は中間部分を過ぎていた。この辺りの部分はインパクトのある

冒頭部分のように、どんな感じのメロディかはしっかり覚えていないが、

もしかしたら演奏している人によるオリジナルアレンジかもと思えてきた。

 いつの間にか、完全に演奏に引き込まれていた。そんな自分が意外に思えてくる。


 演奏時間は5分にも満たない短い時間。でも自分にとって充実した時間に感じた。

演奏が終了した時、周りから大きな拍手が聞こえてきた。

もちろん自分も大きな拍手をしたのだった。

 演奏が終わると若い男は、さっさとピアノを後にしてその場を離れていった。

名前を聞きたいとも思っていたのだが、あまりにも去り際が鮮やかだったので、

何も出来なかった。


 気が付いたら、もやもやしていた気持ちが晴れていた。

何だか明日からも頑張れるような気がしてきた。


(音楽の力って凄いね)


 ほんのわずかな時間の演奏なのに、何か自分を変えてくれたような、

そんな事を感じていた。

 因みにその後に別の人の演奏を聴いてみたが、確かに上手さは感じたけど、

さっきの男性ほどの衝撃は無かった。やはりさっきの人の演奏が特別だったのか?

 とりあえず適当な店に入って昼食を取り、マリはアパートへと帰っていった。


 帰宅してからマリはYoutubeを検索をしてみて、さっきの人が映像を上げているか

調べてみた。しかしながら、有名な配信者の中にはその男性の姿は無かった。

 やはり単なる素人なのか?結論は出なかった。



 その日以来、マリは時々、例のストリートピアノを見に行っているが、

未だにその男性の姿は見かけていない。もしかしたら自分のいない時間に

演奏しているかもしれないし、たまたま旅行でここに来た時に

演奏したのかもしれない。真相は闇の中だ。まぁ真実は一つなのだが。

 でも、もしもいつかここで演奏しているのを見かけたら、


『貴方の奏でるピアノから力をいただきました。ありがとうございます』


とお礼を言いたかった。その時が来る事を願い続けている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る