第5話 第一章 5
5
四時半、『時間は早いが買い物に出かけよう』と塚本は、ソファから立ちあがった。
サラリーマン時代は、外食か、家で食べる時は、弁当とか冷凍食品と即席ご飯の組み合わせとかだったのだが、勤めをやめて家で時間を過ごすようになってから、時たま自分でも料理を作るようになった。
彼が行くのは、駅の少し手前にある大型スーパー[オール]で、二日か三日に一度の割合で出かける。出来合いの弁当やレンジでチンすればいいおかずの類も充実しているスーパーだった。
今日はカニ玉とサラダと小松菜のお汁を作ろう、と思っていた。
表に出ると、さっきまで晴れていた天気は、薄曇りになっていた。気温も明らかに下がっている。
自転車に乗った二〇二号室の津上さんが角を曲がって来た。
四十代半ば、スラリと長い脚をしたパンツルックがよく似合う奥さんであるが、つい最近、夕方のテレビ番組で紹介された人だった。
[オール]で頻繁に行われる商品詰め放題、津上さんは、詰め放題名人として登場したのである。
その日の商品は人参だった。
偶然観た塚本は、テレビの画面に向かって「すごい」と声をあげていた。津上さんは、薄手のポリ袋を伸ばすだけ伸ばして、タワーを構築するかに少しの隙間もなくニンジンをびっしり詰め込んでいったのである。活発な印象を日頃から与える人ではあるが、こんな特技があるとは、と驚いたものである。
「こんにちは」
津上さんは、快活な声ですれ違って行った。
五分程で[オール]に到着する。
「本日の安売り」とか「調理したての惣菜」の店員達の大声が時々響き渡る活気溢れるスーパーは、相変わらず混んでいる。
数分先の駅前にも大手スーパーがあるが、塚本は、下町的雰囲気があるこの[オール]が好きだった。
卵のパックを手にした時、リビングのカーペットの上を転がっている紙くずが頭の中に浮かんで来た。野菜売り場や缶詰売り場に移っても、その光景が浮かんで来る。
レジを済ませ、出入り口に向かうと、イベントコーナーにプラカードがたてかけられていた。
「五時二十分から、シイタケの袋詰め、おひとり様ひとふくろ限り」と書かれている。
もう少し、遅く来れば、カニ玉用のシイタケをたくさんゲット出来たかも知れないな、と一瞬思ったが、自分の性格から参加出来そうになかった。
大型書店に立ち寄り、文庫本コーナーをひと巡りして表に出ると、津上さんが、買い物用の布袋を提げて、歩いて来る。
「今日はシイタケのつめ放題みたいです」
「シイタケ、何でも頑張っちゃいます」
津上さんは、肘を曲げた両腕をグイグイと前後に振った。
「頑張ってください」
「はい、アハハッ、だけど、あれ以来、詰めながら人の視線が意識されて困っちゃう」
「まあ、名人だから仕方ない」
「名人だなんて恥ずかしい。そんな大それたことじゃないですよ」
津上さんは、笑いながら、[オール]に向かって歩いて行った。
榊コーポが近づくにつれ、塚本の緊張は高まって行った。紙くずは絶対に居場所を変えている、という想像がどんどん強くなったのである。
ドアを開ける前に塚本は、紙くずが、どんなに動いていてもアタフタしないぞ、と自らに言い聞かせた。
玄関やダイニングに紙くずはないのを確認する。
レジ袋を置き、手洗いとうがいをすませる。
動いている可能性は大だぞ、覚悟しろ。塚本は、緊張しながらリビングに入った。
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