第103話 体温計と人工呼吸と原沢と免許証

 空さんは愛用の小さな頭陀袋ずだぶくろ(ボンサック)から体温計を取り出す。


「一応熱測ってね。そしたら沼屋診療所行くから」


「ええっ、大したことないと思いますよ」


「念には念を。この間大けがしたばかりじゃない。ねっ。ほら微熱ある。37.3℃。ね、行きましょ。予約とってあるから」


「これくらい寝てれば治ります」


「だあめ、お姉さんの言うとおりにして。お願い」


 僕は空さんに自殺しないようにお願いされたことを思い出した。自然と胸が熱くなる。


「? どうしたの?」


「いえ、何でもないです。ただ昨晩のことを思い出して」


「ほんとひろ君重かったんだから」


 あの時僕は酸欠で意識を失い空さんに心肺蘇生と人工呼吸を…… 人工呼吸! とんでもないことを思い出した僕は手の甲で口元を押さえる。顔が耳まで真っ赤になっていくのがわかる。あの時感じた僕の口の感触がおぼろげながら甦ってきた。空さんはにこっというよりにやっと笑った。


「おやあ? 昨日の何にそんなに顔を赤くしているのかなあ? ねえねえお姉さんにも教えて?」


「いやっ、何でもないです何でもっ、もうっからかわないで下さいよっ」


 高笑いをする空さん。これが年上の余裕なのか。それにしても今日の空さんは今までにないテンションの高さだ。


「ああおかしい。ひろ君かわいいっ。でも一応沼屋先生のところでレントゲン撮ってもらって胸骨の具合見てもらわなきゃ。ほかにも不調がないか、ちゃんとね。いい?」


「は、はあ……」


 結局空さんに押し切られる形で僕たちは沼屋診療所に行くことにした。


 空さんは先にすることがあると言うので、僕だけ先に車の前で待っていた。そこで僕はオグラメイコー、愛称メイを連れた原沢と出くわした。


「あっ、センパーイ、二連休だなんてマジでいいご身分っすね」


 ふてくされた顔の原沢。僕は空さんがここに来たらと思うと気が気ではない。


「まあまあ、悪漢の二人でも倒したら原沢でも休み取れるんじゃないか?」


 原沢は片手に手綱、片手でバールのようなものでも振り回す物騒なしぐさをしきりと繰り返す


「マジすか、じゃ一人につき一日っすね、へへっ――」


 笑顔でバールのようなものを振りかぶった先に空さんがいた。原沢が絶句する。空さんも絶句する。僕は狼狽する。


「おああ、ほら空さんも連休取ったから今日は診療所に、っねっ」


「えっ? えっ、ええ……」


 原沢はフグのようにふてくされた顔でメイの手綱を掴みなおす。


「ああそっ、まあせいぜい二人でイチャコラしてって下さいなっ!」


 原沢はそのままメイに勢いよく跨ると速歩はやあしで駆けていってしまった。それを呆然と見送る僕と空さん。


「ま、まあ行きましょうっ、ねっ」


「……そうね」


 どこか気まずさを残したまま古びた軽四駆はシェアトを出た。僕たちはそれぞれ物思いにふける。


「ねえ……」


「はい?」


「私が言われた言葉じゃないけど…… はっきり言った方がいいわ」


「……」


「でないと彼女かわいそう。あんなに素直ないい子なのに……」


「はい……」


 兄妹のようにじゃれあっていた原沢が僕の前から消えるとなると寂しかった。僕は彼女からも少なからず癒しをもらっていたことに今更ながら気が付いた。


 空さんの手馴れた運転をぼんやりと見ながら原沢の事を思っていた時、僕ははたと気づいた。


「そっ空さん免許証!」


 空さんに初めて会った時、僕とおかみさんと西巻先生は手荷物を全て調べたけれど運転免許証は出てこなかった。


 すると空さんは無言でお尻のポケットからさっと何か紙片を取り出し、ちらっと見せてすぐしまう。免許証に見えなくもなかったが、正直よく判らない。


「それじゃわかりません。ちゃんと見せて下さい」


 僕が少しむっとして言うと、空さんは微笑む。


「だーめ、個人情報」


「個人情報って」


「じゃ、行くね」


「え、あ、はい」


 空さんは一体どこに免許証を隠していたのだろう。その空さんの手慣れた運転であっという間に僕らは診療所に到着した。



【次回】

第104話 空の非力、空の期待

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