第71話 空の告白。記念日

 僕は素直に答えたつもりだが、正直口が重かった。


「……はい」


「なんて?」


「『ごめん、ケイ』って何度も……」


「そか」


 空さんは顔をツエルトの天井に向けたまま呟く。またしばし沈黙が流れる。


「訊かないのね」


「えっ」


「その『ケイ』のこと」


「そっ、それは…… それは空さんにとって辛い思い出だったみたいなので、訊いたら悪いなって……」


「知りたい?」


 僕は空さんの横顔に目を向けどう答えたらいいものか考えていた。空さんの表情は、初めてここに来た時のように虚ろで無表情だった。意外だった。なぜ大城おおきさんでなく僕にそんな話をするのか。もしかして大城おおきさんにもこの話をしているのだろうか。


 それでも僕はどうしても知りたかった。恐らく空さんの心の傷の原因になったのであろうケイとはいったいどんな人物なのか。そして二人の間に何があったのか。それを知ることは空さんのことをもっと深く知ることだと思った。そして僕は空さんのことをもっともっと深く知りたかった。僕は静かな声で答えた。


「そういうことは、お、大城おおきさんっ、に……」


「あの人は関係ない。全然関係ない。私はあなたに訊いてるの。ねえ、知りたい?」


「…………はい。知りたいです」


「うん」


 空さんは目を閉じると一言だけ呟いた。


「じゃあ聞いてくれるかな、ケイの事」


「……はい」


「いやだったらすぐにそう言っていいからね」


「はい」


 空さんは大きな溜息を一つ吐く。


ケイは……私の夫」


 僕は一瞬で奈落の底に突き落とされた。ただでさえ暗い視界が真っ暗になる。僕は人妻にこんなにもかれてしまったのか。衝撃を受ける一方で、時折僕を過剰に心配してくるなどひどく親密な態度を取ってくる空さんに僕は少し腹を立てた。


「4月25日は私たちの4回目の結婚記念日。私もあの人も仕事を休んで朝から出かける予定だった。私たちの思い出のお店に行って、海に行って、披露宴をしたホテルでお食事をする予定を組んでたの。ところが前日の夜、私の仕事の関係者から電話があって。内容は、私の業界の大御所、ううん超超大御所のレジェンドの女性が私の仕事を気に入ってくれたみたいでとても急な話なんだけど明日会いたいって。普通だったら躍り上がって喜び勇んで行くところだっんたけど、明日という明日はなかなかそういう気分になれなかった。だってあの人だって忙しい中休みを取ってくれたんだし。それでもどうしてもその方にお会いして色々話がしたい気持ちもすごく強かったのね。でも、だからと言って私の方からその方に日取りの変更をお願いできるような立場じゃないし。だから恐る恐るあの人に話してみた。あの人は笑って『よかったじゃないか、おめでとう』って言ってくれたけど、がっかりしていたのは間違いなかったはず。だって結婚して3年、こういうことは全然できていなかったんだから」




【次回】

第72話 空の告白。異変

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