第3章 それは一見するとささやかな転機

第16話 空の就職

 翌朝。原沢と朝のお勤めを終えて一息ついたあたり。まだ朝の6時ごろ、本部前でムネさんと空さんが話していた。ムネさんの声が大きくなる。早朝の澄んだ空気にどら声が響き渡る。


「はあっ? 働きたいっ?」


「……はい」


 大声のムネさんとは対照的にうつむき気味の空さんの声は弱々しく小さかった。僕はそこへ急いで駆け寄る。これは空さんにとって好機かも知れない。一大転機かも知れない。二人の間に割って入りムネさんを見る。慌てる原沢。


「いいんじゃないでしょうか」


「ちょっちょっ、センパイセンパイっ」


裕樹ひろきおめえ俺に意見するたあ随分偉くなったもんじゃねえか」


 僕の言葉を聞いて不機嫌そうな表情になったムネさんの言葉に僕は耳を貸さず目で強く訴えた。


「いいと思います。良ければ僕が指導に入ります」


「2年目のおめえにどんな指導ができるってんだよ」


「できるだけのことをです」


 僕はまだ強く目で訴える。この機会を絶対逃しちゃいけない。そうでないと空さんはきっと――


「おめえ、なんでここで働きたいと思った」


 ムネさんは僕の肩越しに空さんをぎろりと睨む。


「馬に、興味が湧きました」


 無表情かつ虚ろな眼で答える空さん。


「馬だって生き物だからなあ。いや、おんなじ生き物でもペットショップに並ぶ犬猫たあ違った意味できついぞ。どうかすると比べ物になんねえほどつれえ時だってある。覚悟できるか」


「必要とあらば」


 機械の様に空さんは即答した。


「よおし、その言葉しかと聞いたぜ。これからは一切馬のことで泣くな。それだけは守れ。いいな」


「……はい」


「じゃああんたは今日からこのシェアトの見習いだ。そこの裕樹ひろきが一から十まで面倒を見るから言うことは必ず守れ。守れないと死ぬぞ。覚悟しとけ」


「えっ、ぼっ、僕ですかっ?」


「そうだ、他に誰がいる。おめえなあ、自分から言っといてケツまくろうってんじゃねえだろうなあ」


「い、いえっ、とんでもないですっ! 光栄ですっ、頑張りますっ!」


「おおし、いい返事だ。空、早速だが本部玄関の下駄箱で長靴に履き替えてこい。そのまま作業だ」


 空さんが歩いて本部まで行こうとすると、ムネさんの怒声が飛ぶ。


「走れええ! ちんたらすんなああ!」


 空さんはその声に驚く様子もなくぱたぱたと走って本部へ向かった。


 するとムネさんは僕の肩に太くてごつい毛むくじゃらの腕を回してやらしい声で囁く。


「なんだあ、裕樹ひろきい。あの年上の姉ちゃんにれちまったかああ? あんなに必死な目ぇしてよお」


 動揺する原沢。


「ほっほれっ、れったってなんすかれたってっ!」


 僕の真剣な目は誤解されていたようだ。


「違いますよっ、そんなんじゃありません、誤解ですっ」


 いや、正直言うと違わなかった。ほとんど誤解じゃない。


「じゃなんだってんだよ、あんなマジな目つきしてよお、このこのお」



【次回】

第17話 細すぎる生命線

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