第10話 ニンジンと空とシエロ

  僕が笑顔で差し出したニンジンを凝視する空さん。


「………………」


 全くの無反応だった。空さんは感情のない目で僕を見つめ返す。沈黙が痛い。完全にスベった。僕は苦笑いしながら続ける。


「じょ、冗談です。シエロに、と思って」


 彼女は軍手をはめて僕からニンジンを受け取るとシエロの馬房にゆっくり近づいた。


「シエロ」


 空さんがシエロに声をかけるより早くシエロの方が空さんに気付いて鼻をしきりと膨らまして鳴らす。


「ほらこれ」


 ニンジンの先端をこわごわと差し出すと、シエロは鼻息荒くすごい勢いでニンジンをボリボリと大きな音を立ててかじった。


「優しいお兄さんからの差し入れ」


 そう言われて僕は胸が小さく鳴る。ニンジンに夢中なシエロの顔をでながら空さんはつぶやいた。


「今日は私を止めようとしてくれたの……? ひろ君と言いシエロと言いみんな人の邪魔をする趣味があるのね」


「それが普通の反応だからです」


「そうかしら」


「あ、あたしだって人に死なれたら寝覚め悪いっす」


 今日何度目か、僕はその少し鼻が高い蝋人形の様な横顔にすっかり魅入られてしまう。それだけではない。僕は空さんとシエロの信頼関係がたった一日でここまで深く形作られたことにも驚いていた。


「でも、怖くないですか、シエロ。見た感じ馬に触れるのは初めてのようですけど」


 目の前で馬が鼻をちょっと鳴らすだけで驚いたり怖気づいたりする人も多い。華奢で頼りなげな空さんは正にそういう種類の人間に見えた。


「怖くない。シエロはわたしを絶対守るって、そう言ってる」


「言ってる……? 空さんはシエロの言葉が分かるんですか?」


「うん、なんとなくだけど。だからシエロは怖くない。でも他の馬はよく分からないからちょっと怖い」


 思いの外ニンジンを食べられて嬉しそうなシエロや他の馬たちに挨拶をして僕たちは厩舎を出た。



【次回】

第11話 自殺企図

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