空の六等星。二つの空と僕――Cielo, estrellas de sexta magnitud y pastel.

永倉圭夏

序章 春と六等星

第0話 春の恐怖

    ―― 夜の遥か彼方から、魂の悲しげな声が聞こえる――

                        カール・ツェルニー



 七年前のあの日から僕は春が怖い。


 その春の午後、もう夕方も近い。大きな異音を聞きつけた高校二年生の僕は慌ててて自分の部屋から飛び出す。大切な何かが壊れた大きな音だった。心臓が破裂しそうだ。リビングに飛び込むと窓から心地良い春のそよ風がそよいでレースのカーテンを揺らす。ついさっきまで窓はしまっていたのに。春の穏やかな風に乗って微かに血の匂いが漂ってくる気がしてならない。僕は恐る恐る地上10階のベランダに出た。そしてベランダから地上をのぞき込む。そこにあったのは――


 僕は叫び声をあげて布団から跳ね起きた。またこの夢だ。もう7年が経つというのに一向に夢を見る頻度が減らない。まるでこのことを忘れるなと誰かが言っているかのようだ。全身が冷たい汗でぐっしょり濡れている。前髪から汗の雫がこぼれ落ちて僕の手を濡らした。その手を握り締めうずくまる。僕の罪。僕の過ち。僕の無力。


 息をすべて吐き出し背筋を伸ばし起き上がる。カーテンを広げ窓から外を見つめた。星々が輝いている。だがその輝きはまばらだ。己が光を誇らしげに示して力強く輝く、数少ない星々ばかりが東雲しののめの空に浮かぶ。そこに僕はいない。誰にも知られず気付かれずひっそりと小さく光る六等星の僕はどこにもいない。いやしない。これでいい。これでいいんだ。いや、いっそ消えてしまえれば。六等星のささやかな光ひとつが消えてしまっても誰が気付くだろう。消えたい。消えてしまいたい、夜の闇の彼方へと。僕は止まらぬ涙はそのままに着替え、支度を済ませ四畳半一間の古ぼけた部屋を出た。


 本館を出るといつものように別館の原沢美奈が僕を待ち構えていた。農業高校を卒業したてでまだ18歳の女子スタッフだ。


「センパイおはっすおはっす」


「おす」


 一目散に駆け寄りあけっぴろげな笑顔で僕を見上げる。その無防備な笑みに僕もさっきまでの重苦しい気分がほんの少しは晴れて原沢のショートボブの頭を軽く叩く。


「ふふふー」


 高校新卒が見せるあどけなくてつやつやした笑顔が眩しい。


「今日は――」


「本館の厩舎きゅうしゃからっすね」


「お、なんだ分かってきたじゃないか。やるな」


 僕は笑いながら原沢の背中を叩く。原沢は柄にもなく少し照れたような顔になる。


「へへっ、そりゃもうセンパイのクントーアツイっすからね」


「なんだお前難しい言葉知ってんな」


 僕たちはじゃれあうようにして季節外れのミルクのような朝霧の中、厩舎きゅうしゃへと向かっていった。


 そして今はまた春。あれから七度目の春に僕は震えていた。



【次回】

第1話 襲い掛かる荒馬あらうまに立ちはだかる女

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る