月狼
砂々波
第1話
遠吠えが聴こえる_____誰の?
あれは、多分、ただの気まぐれだったのだろう。
父が、小さい頃に1度だけ、近所の動物園に連れて行ってくれたことがある。
動物園と言っても、よく田舎にある個人経営の小さなものだ。
象。ライオン。キリン。飼育コストがかかる_
いや、子供が好きそうな、獰猛で、大きなものはいなかった。
俺は、珍しく上機嫌な父の手を引いて、ずっと見てみたかった所へ行った。
父は咥えた煙草をぷかぷかと吸っていた。
よくこんな暑い日に火のついたものを吸えるな、と不思議に思ったものだ。
でも、そこにそれは居なかった。
冷や汗をかくガラスの向こうには、
ただ、柴犬のように大岩の上に寝そべっている犬のような生き物がそこにいた。
蝉が、泣いている。
「犬と変わらねぇな、オオカミも。」
父は嗤った。
俺は悔しかったのかもしれない。
あの日図鑑で見た、瞳の中に三日月を宿したような、凛々しい目つきのオオカミが現実にも、すぐ近くにもいることを証明したかったのかもしれない。
あの日父が嘲ったあいつも、本当は。
俺は足繁く、近所の動物園に通った。
放課後。休日。あるいは、平日の昼間も。
ほんとうに田舎だから、やがて飼育員のおじさんに顔も名前も覚えられた。
いらっしゃい、真紘くん。
ガラスに張り付いて、画用紙に向かう俺に、おじさんはいつもお茶をくれた。
入場料の、3分の1。
クーラー、効いてるのに。
古びた鉄の門を潜り、家へ向かう足取りはいつも重たかった。
送電塔に止まり、馬鹿の一つ覚えのように喚く烏がうらやましかった。
変な意味ではなく、俺はいつも喉が詰まっていたから。
「…ただいま」
返事はない。求めてもいない、かも。
前髪の簾がかかっている母親の背後を通り過ぎ、その日食べた菓子パンの袋を投げるよう
に捨て、2階へ上がった。
日焼けをして変色した階段が、ギシ、ギシ、と音を立てる度に腹が立った。
この家の歪みを指摘されているような気がした。
憂鬱だ。何もかも。
浮かせた足裏のじっとりとした感覚は、僕を蝕んでいく。
ガチャンと、部屋の扉が揺れた。
振り向いて、鍵が寝たままのことを確認する。
振動の原因は、たっ、ばたっ。と不規則な足音を立て、階段を通り過ぎ、リビングへと直行する。スケッチブックを閉じ、扉に鼓膜をあてがう。
やはり数秒後に、何かが倒れる音がする。
振動が、伝わる。
短い悲鳴は、その役目を果たす前に、謝罪に
よって意義を奪われる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
無機質な、声。
いつからだろう、
父は母を殴る。(なぜ?)
母は父に謝る。(なにを?)
俺はいない。
______どうして?
「人の心はどこにあると思いますか?」
八月の湿気、教室の窓から吹き込む風に前髪が攫われ、汗ばんだ額に張り付く。
何度か母親に、心がないのでは。と思ったこともある。
殴られる原因も分からないまま、それを自分の非に落とし込む。
どう見たって、母親は普通じゃない。
だけど、両親を見て、わかった。
結婚は魂の誓約だ。
指輪は魂の束縛だ。
だから、きっと、心があるのは
「_渚君。どう思いますか、」
甲高い声は、クラス中の視線を俺に集めた。
え。と短く漏らした言葉が誰にも聞こえていないよう、願う。
顔が燃えるように暑かった。日光のせいだ。熱い。
誰かが心の中で唱える。薬指。薬指。
「……頭。だと思います。」
短く吸った息が、それに従うことはなかった。
パチ、……パチ、__
まばらな拍手に、馬鹿に、されたような気がした。
意気地無し。
父が落ち着き、風呂に入るタイミングで、俺は一階に降りる。
そうして、乱れた髪で晩飯の支度をする母親
に決まり文句を投げる。
大丈夫?
「_私が悪いの。私が。」
吐き出すように、嗚咽するように言葉を紡ぐ母に、嫌悪感を覚えた。
父は、母は狂っている。
でも、きっと自分は正常だ、普通だと思い込む俺も、
知らぬうちに、この家に毒されてしまっているのだろう。
頭。頭。あたま。
ほんとうは分かっている。この、底知れぬ嫌悪感は、母親に向けたものじゃない。
喉元から湧くそれは_
気づいた時には、もう、遅かった。
いや、初めからすべてが、遅かったんだ。
誰かが叫んだ。母だ。
それは、父に殴られた時よりもずっと強く、長く、かき消されることもなく、続いた。
両手についた絵具が、取れない。
アクリル絵の具って、なかなか取れないんだよな。
手を洗おうと、洗面所に向かった。
浮かせた足裏に、生暖かい液体が、なだれ込む。
ごとり、と何かが鈍い音を立てて床に飛散した。
ぴしゃ、ぴしゃ、臙脂虫の粒子が、足に。
あぁ、そうか。
俺は、やっぱり、狂っていたんだな。
急に、世界で一人ぼっちになった俺に、安堵が肩を差し伸べる。
呆然とする母を押しのけ、二階に駆け上がる。
ぎし、ぎしと音を立てる階段が相槌をうつ。
そうだよ。そうだよ。
おじさん。
短く呟く。
「おぉ、真紘君。どうしたんだ。」
長針が、首を垂れている。もうとっくに閉園時間は過ぎていた。
沈みかけの太陽が、月を追いかけるように、山に沁み込んでいく。
「今日で完成するんだ。入れてほしい。」
もう10年になる。
おじさんには、申し訳ないことをした。
きっと、迷惑をかける。いや、迷惑なんてものじゃない。大迷惑だ。
おじさんは、俺のことを嫌いになるかな。
喉につっかえる何かを押しのけ香る緑茶の匂いを思い出す。
_急がないと。
誰もいない、烏が落ちたビニールを貪る園内を足早に進む。
右左と出される足はやがて片方の着地を待たず、空に浮いたまま歩みを進める。
普段両目をぐっと閉じて、羽毛を熱射にさらすフクロウがやけに騒がしかった。
息を切らして、たどり着いた展示場は、もうとっくにクーラーが切れていて
夏の空気がその場を漂っている。
開いたスケッチブックに、じんわりと水分が滲んでいる。
ポケットに乱暴に突っ込んだ鉛筆は、ぼさぼさとした木を露呈している。
削っている暇などなかった。
ぐっと押し付けたそれは画用紙をへこませ、歪な音を立てながら進んだ。
もう少し。もう少し。
幼き頃夢見た三日月を。もう一度。
あぁ、遠吠えが聞こえる。
からん。鉛筆が落ちる。
机に乱暴に投げ出されたペインティングナイフを、右手に握る。
指先が、呼吸するようにはねる。これが脈か。生命なのか。
誰かが言っていた、
「薬指は人間が一番必要としない指だ。」と。
柄を支える指が震える。
これは俺の意志だ。葛藤だ。祝福だ。
月光を一身に注ぐそれを、喉にあてがう。
電撃のような熱が、視界を奪った。
____遠吠えが聞こえる、遠くで、赤がせわしなく点滅しているのが見える。
オオカミのじゃ、ない。
が、それがなにか俺には知る由もない。
綺麗だ。青白い光を帯びる赤色が輪郭を持ち、闇を飲み込む。
頬に伝う、生暖かい感触が、幼い俺の頬に触れた父親の手を思い出す。
オオカミが、俺を見下ろしている。
全てを見透かすような、青白い、瞳。
喉元が熱を帯びる。
えもいわれぬ多幸感が、襲う。
居たよ。ここに。
言葉が形作られる前に、存在したかもわからないそれは、星空を見上げた彼らによってかき消される。
俺の、人生の、叫び。
生きていてよかった。俺は、今、そう思った。
月狼 砂々波 @koko_22
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