大切なことはすべて推しから教わった

飾磨環

第1話(プロローグ)

 僕、佐伯春人さえきはるとは、彼女に振られた。大好きだった。こんなに趣味の合う人には、もう出会えないと思う。


 あの日、突然、メールが返ってこなくなった。それから彼女は、僕の前から姿を消した。それまで当たり前のように存在していた彼女が居なくなり、僕は、眼の前がテレビの砂嵐のように霞んで、何もかもが嫌になってしまっている。もう生きている意味がない。なんのために生きているかわからない。いっそのこと死んでしまいたい。そんな考えが頭の中をぐるぐる回っている。憂鬱で仕方ない、同じような毎日を、僕は姿が透明になったかのように、できるだけ誰にも関わらず、過ごしていた。――そう、毎日が同じ繰り返しだった。


 そんなある日、いつもの癖のようにSNSを流し見していた。特に面白いわけでもない。何もすることがないから見ているだけだ。犬が飼い主に甘えている動画や、誰かが炎上したという内容のつぶやき、有名人が、誰かの発言に噛みついているような、代わり映えのしないつぶやきが、僕の指先によってスタッフロールのように流れていく。どんどん指を動かして、スクロールしていると、ふとある写真が目に止まった。可愛い子だった。どことなく彼女に似ていなくもない。気になってプロフィールを見ると、どうやらアイドルをしているらしい。僕はその日から、そのアイドルのつぶやきを追うようになった。


 名前は高峰柚香たかみねゆかというらしい。黒髪ショートで、担当カラー(というらしい)は青で、身長がちっちゃくて可愛らしい子だ。僕はこれまでアイドルにほとんど興味がなかった。だからこの高峰柚香という子を知って、初めてアイドルのことを知ることになる。アイドル用語もちんぷんかんぷんだ。でも一度興味を持つととことん調べたくなる。僕は高峰柚香のこともアイドル用語も、前から知っていたかのように覚えていった。あんなに憂鬱な日々を送っていたのに、気がつくと僕は、元気を取り戻しつつあった。不思議なものだ。アイドルとはこんな効果があるものなのか。


 ここ最近、仕事にも身が入るようになってきていた。僕はスポーツジムでインストラクターをしている。身体を動かすことは、昔から得意だった。勉強はめっきり駄目だったけど。僕は水泳をメインに教えている。その他にも、ヨガやアクアビクス、ボクササイズ。このジムの社員は一通りなんでもすることになっている。ついこの前までの僕は、よくこんな身体を使う仕事を続けていられたなと思う。憂鬱で仕方なかったのに、レッスンでは大声を出しながら、元気に動いていたのだ。信じられない。そんなことを考えながらぼーっとプールを監視していると、「春人! 何ボケっとしてんだよ」と後ろから声をかけられた。声をかけてきたのは、僕の唯一の友達とも言える、相馬怜也そうまれいやだ。僕はごめんと、愛想笑いをした。怜也は僕より2歳年下なわけだけども、僕よりしっかりしていて、頼りになる後輩だ。

「最近やっと元気になってきたかと思ったらまた駄目なのか?」

「いや、ちょっと考えごとしていただけで元気だよ」

「ならいいけど、なんか悩みあるなら言えよ!」

「ありがとう。いつも感謝しているよ」

 こんな風に、どっちが歳上なのか分からない。我ながら恥ずかしい限りだが、大切な友達だ。今度また怜也の家にあそびに行かせてもらおう。そんなことを考えながら、またプールの監視に気持ちを戻す。このあとアクアビクスのレッスンが控えている。気を引き締めていかないといけない。


 20時に仕事を終えて、自宅に帰ってきた。外はどこもかしこもクリスマスのイルミネーションに包まれていて、独り身でいる自分が虚しくなってくる。だからどこへも寄らなかった。靴下を脱ぎ捨て、手洗いうがいもそこそこに、疲れてヘトヘトだけど、いや、だからこそ元気をもらいたくてSNSを見た。満面の笑みの柚香の写真が投稿されており、一気に疲れがどこかに消えていく。もう柚香にこんな感じで、元気をもらうのが日課になっている。今まで日常にいなかった存在が、急に大切な存在として、目の前に現れたかのようだった。もっと知りたい。そう思いながら柚香の投稿を次々と見ていった。すると、気になる投稿を発見した。それは明日の20時から、配信アプリでライブ配信をするという内容だった。20時なら急げば、仕事が終わってからでも間に合う時間だ。これは見ないわけにはいかない。軽く夕飯を済ませ、風呂に入り、明日の楽しみが増えたと思いながら、僕は眠りについた。


 次の日、朝早くから電車に乗り会社へ向かう。今日はボクササイズからだ。しかも60分のレッスン。僕は比較的、人前に立つのが好きだから楽しいが、終わった後はどっと疲れる。更衣室のシャワーを浴びながら、ふと柚香の事を思い出し、気合いを入れ直した。この後は、いつものことだが、アクアビクスに泳法のクラスと、レッスンが立て続けにある。頑張りどころだ。プールに向かいながら、プールのガラス張りの先にあるスタジオに、ヨガのレッスンをしている怜也の姿が見えた。お客様もたくさん入っているようだ。負けてられない。そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。

 19時過ぎに仕事が一段落した。このまま急いで帰れば予定通り配信に間に合いそうだ。僕は慌てて帰り支度をする。すると近くにいた怜也が話しかけてきた。

「何、急いでいるんだ?」

「気になっているアイドルの配信があるんだよ」

「アイドルなんて興味あったっけ?」

「最近知ったの」

「ふーん」

「急いでるから、またな」

「はいはい」

 話している場合じゃない。次の電車に乗らなくては、間に合わなくなる。まあ急がなくても電車の中、携帯で見ればいいだけのことだが、ギガがもったいない。僕は、怜也との会話もそこそこに会社を飛び出した。

 急いだかいがあって、配信には間に合いそうだ。僕は柚香の配信を見るだけのためにダウンロードした配信アプリを開き、画面前で待機した。20時になった。でも始まらない。あれ? 時間間違えたかなと思っているうちに、数分遅れて配信が始まった。

「ごめんねー。ちょっとばたばたしていて、配信おくれちゃった。待っていてくれた方ありがとー」

 と、画面の先から柚香の声が聞こえてきた。映し出された映像の中で、柚香が一生懸命手を振っている。

「はじめましての方もいるかも知れないので、自己紹介しておくね。高峰柚香です。アイドルしています。よろしくね」

 この配信アプリは視聴者が配信者に向かってコメントを打てるらしい。僕はちょっと躊躇しながらも、恐る恐る、はじめましてと、コメントを打ってみた。すると数秒ラグがあった後に、柚香がそのコメントに気づいて「あ! はじめましての方コメントありがとう。ゆっくりしていってね」と挨拶してくれた。僕はその何気ない対応が嬉しくて、舞い上がっているうちに配信は終わってしまった。コメントを読んでもらっただけで、こんなに嬉しいのか。僕は、この日、アイドルに反応してもらえる喜びを知った。

 

 その日から、柚香のSNSを見るだけでなく、配信も見るようになった。どんどん見ているうちに、会ってみたいという気持ちが芽生え始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る