第11話 泥中と模索

 陸の上から想像するよりも、海はずっとずっと下が見えない。

 前に、一歩前にと進んでいても、底は見えずどこまでも闇が広がっている。

 

 暗い海は、青でもなく透明でもなく黒一色。

 月の明かりくらいしか光がないものだから、より一層濃く見えた。

 海水に足をつけると、最初は冷たい。

 けれど、海に入っていくうちに身体が慣れていった。


 足、太もも........水面が目線の高さへと迫ってくる。

 下半身は水の冷たさでほとんど感覚がない。

 それでも心は不思議と恐怖を感じていなかった。

 

 ゆっくりと、少しずつ。

 そして着実に、向こう側へと歩を進めていく。

 そろそろ、足がつかなくなるかもしれない。


 人気のない海、砂浜に着いたときには誰もいなかった。

 それなのに、背中から声が聞こえてきた気がする。

 こんな時間に初冬の海へ来る人間がいるわけもないから、僕はそのまま無視していた。


「才!!!!!」


 ....信じられない。


 声の主は振り返らなくてもわかる。

 けれど、なぜ僕がここにいることを知っているのか。

 

「才!!!!!!」


 近隣住民に通報されそうな大声だ。

 このまま大声で叫び続けられても困る。

 僕は意を決して、声の方向を振り返った。


 整った顔立ち、モデルのような体躯たいく

 こちらを見つめる嫌味なほどに真っ直ぐな目。


 ........やはり、振り向くとそこには宝がいた。

 ここまで走ってきたんだろう。

 息を切らしながら、砂浜に立っている。


「........なんで、ここにいるってわかった」


 疑問が口をついて出る。


「ごめん。才のスマホにGPS入れてた。........何か起きた時のために、役立つと思って」


 宝の答えにさまざまな感情が胸のうちに生まれてくる。

 しかし、宝の考え自体は否定できなかった。

 実際に今、GPSを使う機会が訪れている。


 海に腰まで浸かっている僕。

 砂浜で立ち尽くしている宝。

 僕らは普通ではないこの状況で、なかなか口を開けないまましばらく固まっていた。


 僕がしようとしていることは、一目瞭然。

 そして、宝がここにいるということは僕を止めに来たんだろう。

 お互いの意思はハッキリしているのに、向かい合ったまま無言の時間が続いた。

 

 


 どれくらい、沈黙が続いただろう。

 寒空の下、お互いに震えながら冬の海を見つめている。


「........うちに帰ろうよ」


 宝が呟いた。

 

「それはできないよ........申し訳ないけど」


 最初からこうすると決めていた。

 僕はこの時のために小説を書いていたし、それまで生きてこられた。

 もう次を書くつもりもないし、希望がないのなら生きていく自信がない。


 どの道、宝に拾われなければゴミ屋敷で消えていた命だ。

 

「僕も、もう少しまともに生きられるなら生きていたかったよ」


 以前の僕なら、きっと宝をなじっていたと思う。

 おまえほど恵まれた人間が。死に方を決められる人間が。

 今の僕を止めるつもりなのかふざけるな、と。

 実際こんな場面になると、もう全てがどうでもよくて傷付ける気にもならなかった。


 ........今日、正真正銘の最後の日だ。


 宝に伝えられることはあるだろうか。

 思えば、散々迷惑をかけてきた。

 周りの人間に迷惑をかけた中でも、宝は特に僕の面倒を見てくれた人だった。


「........」


 浮かぶことはある。

 家に住まわせてくれたこと、食事を振る舞ってくれたこと。

 日々、僕のために献身的なまでに世話を焼いてくれたと思う。

 それらを今伝えることすら、それは自己満足で相手への重荷になりそうだ。


「もう帰れよ。外寒いだろ」

「嫌だ。一緒じゃないと帰れないよ」

「帰れって。もういいから」


 どう足搔いても水掛け論にしかならない。

 押し問答が続く中、僕はどうすれば宝がこの場から去ってくれるかを考えた。


「僕、宝のこと嫌いだったよ」


 考えた末に出てきた言葉はこれだった。

 向こう側にいる宝の顔が見えないように、水面を見る。

 僕の足元で、水は波紋を広げていき、どこまでも揺蕩たゆたっている。


「僕よりも裕福で人に囲まれてて、器用になんでもこなせて。幸せそうな宝が嫌いだった」


 もう一年近く同じ家で過ごしていたから、顔を見なくても分かってしまう。

 今、宝がどんな顔をしているか。

 僕の言葉にどれほど傷付いているのかを、見えなくても想像してしまった。


「小説を一緒に応募しようって言い出したのも、僕は賞に選ばれなかったのに、宝が選ばれてたからだし」


 これは、よくない。苦しい。


「最初から、友達だなんて思ってもいなかった」


 僕は自分の言葉で宝を傷つけようとしている。

 それなのに、破裂しそうなほど胸が痛んでいるのは僕の方だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る